カマイタチ⑤
さらに翌日、久遠は再び美香を連れて外に出た。
「ちょーちょー!」
「そうだね、ちょうちょだねー」
ふわふわと舞う黒い紙片……翔くんの負の情動を吸った式符は、今は黒アゲハの姿をしている。
美香は元気に、ちょーちょ、ちょーちょと言いながら、小さな歩幅でそれを追いかけた。
美香は今日、髪を後ろでお団子に纏めていた。
「かーたんといっしょするー!」
と言って聞かなかったので、四苦八苦しながら短い髪を丸めて止めたのだ。
おかげで機嫌は良いから、助かる。
連日、自分の都合に美香を付き合わせるのは申し訳ないと思っていたので、その位の苦労は苦労でもない。
明日は土曜日だ。
真奈香が休みに入ると、仕事に自由に割ける時間がない。
美香を遠出に連れていくのは土曜日が定番になっていて、三人での予定を潰すのも久遠は極力避けたいのだ。
「美香ちゃん、お茶飲もうか?」
「のむー!」
久遠の呼び掛けに、美香はすぐに反応してだっこをねだった。
季節的に、涼しくなるにはまだ間がある。
久遠はゆらゆら舞う黒アゲハから目を離さないように、水筒を取り出した。
中身は麦茶だ。
ストローから麦茶を飲む美香の可愛らしい麦ワラ帽子を少しズラして、ハンディタオルで汗を拭う。
叶と話した十字路の先、少し山手へと向かう歩道を歩いていると緩やかなカーブに隠れていた林が先に見えた。
神社の境内を覆う木と石造りの壁がある横を、久遠は通り抜ける。
そのまま、一度黒アゲハに干渉して、近所の神社近くの木に目立たないように止まらせると、久遠は境内に入った。
大して大きくも無い神社の片隅にぽつんと立てられた祠に向かう途中、目の合った神主に頷きかけると、彼も頷きを返した。
降魔課と縁のある人物だ。
久遠は、水筒を久遠に返した美香が神社の周囲を覆う木の方に駆けていくのを目で追いながら、美香ちゃんセットと全く同じカバンを祠から取り出した。
中身は、叶に頼んでいたものだ。
それを肩にかけた久遠は、祠に代わりに美香ちゃんセットを収める時に少し考えた。
とりあえず、おむつと水分さえあればいい、とそれだけ出して、仕舞う。
ウェットティッシュも欲しいが嵩張る。ウンチさえされなければ問題ない、と諦めた。
美香から見えないように作業を終えた久遠は彼女を抱き上げて境内を出ると、再び黒アゲハを飛び立たせた。
「……随分、近いな。翔くんの想いは、ケガした事に対するものではなかったと思うんだけど」
黒アゲハが向かった先は、例のカマイタチの通りだった。
翔くんの植村という少年に対する情動であれば、彼自身の元へ向かう筈なのだが。
「家を知らない……のか?」
霊的に言えば、形代が想いの対象を見失う事はあまりない。
しかし、正確に場所を知らないと自力でたどり着けない生霊のような存在もこの世にはいる。
情動の強さが一方に向いていない……植村くんだけでなく彩音ちゃんへの想いも混じっているのか、と久遠は考えた。
「被害者の中に彼女の名前はなかったけどなぁ……」
「ひがーしゃ?」
美香が久遠の言葉を聞いて反芻するのに、久遠は、しまった、と思った。
「み、美香ちゃん、ちょうちょどこに行くのかな~?」
「ちょーうちょ!」
久遠がごまかすと、彼女はちょうちょの存在を思い出したのか、バッと前方に顔を向けた。
美香が変な言葉を覚えるのは困るので、忘れてほしかった。
路地を覆う、カマイタチを操る者の気配と思われる暗い雰囲気は変わっていない。
強くも弱くもなっていない、という意味ではどちらかと言えばマシな状態だった。
一昨日は誰が為した事なのか分からず、術への確証もなく、気付かれるかも知れないと警戒していたが。
久遠は、このカマイタチに関してはもう、ほぼ専門の術士の手によるものではないという確証があった。
久遠はジーパンの尻ポケットに入れた護符に触れ、囁いた。
「―――四柱西方.風霊白神.護法風邪.急急如律令」
護符の周囲に広がるように、清浄な風が渦を巻いた。
久遠と腕に抱いた美香は、風神の加護を秘めた魔除結界に覆われる。
術士として、久遠は本来陰陽道に精通する者ではない。
だが降魔課支給の対霊装備は理論体系化され、画一化されたものであり、支給品でないものは高くつく。
風神は、信仰心に関わりなく『場』と自身の霊気によって顕した概念存在なので、簡易結界の霊位は然程高くはない。
それでも、軽く人を傷つける程度のカマイタチであれば容易く防ぐだけの力はあった。
久遠自身はあまり認めてはいないが『並外れた』と表される彼の技量は、本来の得意としない術でも正職に劣らない練度で行使する事を可能にしていた。
特に何事もなく路地を通り抜けた久遠は結界を解く。さほど長く続くものではない。
角を折れてさらに先へ進む黒アゲハを追い続けたが、黒アゲハは路地からさほど離れていない家の門の上にふわりと止まり、元の人型に姿を戻した。
指を門に滑らせて素早く符を回収した久遠は、表札に目を向けて一つうなずいた。
「そういう事か」
門扉の表札には『植村』という名字。
そして小学校の通用門へと目を向けると、前に立つ車用のミラー。
ミラーからは、はっきりと路地が見えた。
目を戻して見上げた窓の一つにはカーテンが掛かり、閉ざされている。
南向きのそこが、きっと子供部屋なのだ。
小学生の下校の時間を告げるチャイムに、久遠は少しの間、監視する事にした。
目立たない場所へ移動して美香におやつをあげながら、植村宅に目を向ける。
しばらくは動きがなく、下校の生徒たちの姿が見えると赤いランドセルを背負った女の子が一人、家のチャイムを鳴らした。
家人は不在なのか、誰も出てくる様子はない。
長い髪をピンで止めた女の子は可愛らしい顔立ちをしているが、カーテンの閉まった窓を見上げる彼女の表情は暗かった。
彼女がきっと、彩音ちゃんなのだろう。
ランドセルからゴソゴソとプリントを取り出してポストに投函すると、少しだけ肩を落とした彼女は足早に立ち去る。
その背中を、少し揺れたカーテンの隙間から、誰かが覗いているような気配がした。
「美香ちゃん、帰ろうか」
「んー……」
歩き疲れたのか、おねむな表情で目をこする彼女の手をそっと自分の首に回させて抱き直した久遠は、ぽんぽんと背中を叩いてあやしながら路地をゆっくりと歩き。
家の角に、素早く翔くんの形代である符を差し入れて、その場を後にした。
再び神社で美香ちゃんセットを回収し、仮面を収めたリュックは祠の中に戻さなければならない。