カマイタチ④
「あら、天野さん?」
「ご在宅でしたか。えーと、夕飯前にすいません」
学校を見に行った翌日。
顔を覗かせたご近所さん……噂好きの深井さんに、へらりと久遠は笑みを見せて頭を掻く。
「町内祭りのプリントを町長さんから預かってまして。美香ちゃん、こんばんはして」
手を引いて歩いていた美香に屈んで声を掛けると、美香はブンブンと手を振って挨拶した。
「ばんわー!」
「あらあら、ご丁寧にどうも。美香ちゃんもこんばんわ」
訝しげな顔をしていた深井さんが、美香が手を振るのに顔を綻ばせて玄関口から外に出て来る。
人見知りしない子で本当に助かるなぁ、と久遠は口元を緩めた。
「すみません。ポストに投函する前に、一応チャイムだけ鳴らすので」
申し訳なさそうな表情を作って言う久遠に、深井さんは大仰に口元に手を当てた。
「ええ、ええ、そういう事でしたのね」
「息子さんはサッカーですか?」
美香をあやしてくれたので世間話程度に、を装い、チラシを渡しながら久遠が言うと、深井さんはあっさりと教えてくれた。
「いいえ、今日は友達と公園に遊びに行ってます。サッカーサッカーで勉強もせずにねぇ……本当に全く」
公園、と久遠は思考した。
近くのサッカーボールを蹴れそうな広場のある公園といえば、公民館のある山手公園だ。
不可解な通り魔に会った後に、そこまで遠くに行かせて帰りが遅くなるのを許可する訳がない、という久遠の考えを裏付けるように、深井さんは言った。
「最近物騒ですから、あまり遅くならないように、と言ってるんですけどねぇ」
「そうなんですか?」
驚いた表情を作り、次いで納得した仕草で頷いてみせる。
「ああ、回覧板の、通り魔とかいう……」
「そう、それなんですよ!」
噂好きの深井さん、自分の息子の事だからか俄然意気込んで話してくれた。
うちの息子も被害に遭いましてねぇ、その事で学校に相談を、あらそう言えば天野さんともお会いしましたね……と、調書の裏付けが取れた。
齟齬はなく、嘘もないように見える。
ある程度で話題を切り上げた久遠は、美香の手を引いて聞いた。
「美香ちゃん、お砂場行こうか」
「するー!! みーちゃん、スコップ、いるー!」
「うんうん、なら、スコップ取りに行こうねー」
「んー!」
満面の笑みを浮かべた美香を連れて一度家に帰ると、久遠は彼女をベビーカーに乗せた。
今日は、既に夕飯の下ごしらえも風呂掃除も終えている。
虫が出始めるこの時期、夕方に美香を公園に行かせるのは普段ならアウトだ。
しかし今回はしっかりとパウダータイプの虫除けを美香の体に塗り込み、砂場道具を手にしてご機嫌な彼女を連れて、久遠は公園へ急いだ。
着いてみると数人の小学生がおり、資料写真と記憶から翔くんに当たりを付けた久遠は、美香を砂場で遊ばせながらそっと鳥形の式符を取り出した。
ある花の香りを染み込ませた式符だ。
「風念招来.急急如律令」
短い文言を唱えると共に式符を放つと、ひょう、と風に乗って式符が舞い上がり、サッカーボールに張り付いた。
「化」
翔くんが受けようとしたボールが高く舞い上がると同時に、さらに小さく呟くと、ボールが翔くんの頭上を大オーバーして久遠の元へと転がってくる。
「何やってんだよー!」
翔くんが元気に怒鳴り、こちらへ駆けて来た。
怪我の後遺症はないようで、久遠は軽く頬を緩ませると、彼にボールを渡す。
「ありがとうございました!」
きちんと礼を言う翔くんに、久遠は言った。
「深井さんの所の子だよね?」
「え? はい……」
少し警戒した様子の彼に、久遠はさらに呪を発する。
「誘」
花の香りがふわりと広がり、翔くんの警戒心を削ぐのと同時に久遠は素早く告げた。
「少し話を聞きたいんだ。いいかな?」
「う、ん」
久遠が行使したのは、肉体に害のある技ではない。
思考に隙間を作りそこに潜り込む、催眠術に似た技術だ。
『誘い花』……と呼ばれるその技で頷いてしまった翔くんが、不思議そうに首を傾げながらボールを友達に渡して、戻ってくる。
「何ですか?」
「君が怪我をした時の事を、詳しく聞きたくてね」
学校から帰る時、足にちくりとした痛みを感じ、見ると怪我をしていた。
人の姿は見えなかった……と言うのに、久遠は彼の表情を観察する。
特に嘘をついているようには見えなかった。
「その時に、何か変わった事は? 例えば、風が吹いた、とか」
久遠の言葉に、翔くんはうなずいた。
「うん、すげー風が学校の方から吹いて来た。コケそうになったんだ」
実際はそこまで強い風ではなかっただろう。
子どもが背を押されたくらいの感覚なら、台風ほどまではいかない。
「何か、そういう事が学校でよく起こってるみたいだね」
久遠の問いかけに、翔くんがハッと何かに気付いたように久遠を見た。
『誘い花』の効果が途切れ掛けている。
精神的に何か強いショックを感じたのだろう。
それが解呪の気合と同等の効果を、彼に及ぼしたのだ。
「……教えてくれないか」
術が解けた翔くんに、久遠は真剣な目を向けて誠意を伝えた。
子どもは敏感だ。
悪意をもって接すれば、絶対にそれを悟る。
「おじさん、何なの?」
「俺はね、この怪我の原因を突き止めて、やめさせたいんだ」
久遠は嘘をつかなかった。
真実よりも強い言霊はこの世にはない。
呪を修める時に、厳しかった曽祖父は常に言っていた。
ーーー誠を志し、友とせよ。さすれば自然、信を得る。
「誰にも、俺の事を言って欲しくはない。君にそれを強要は出来ないけどね。……でも、君の友達も怪我をしているだろう?」
翔くんは久遠を見つめて息を呑む。
その目にあるのは、怯えだ。
しかし久遠を恐れているわけではない。
何かに思い至っている、と感じている久遠は、知りたかった。
彼が何を恐れているのか。
「いずれ、この話が大きくなって誰かの命を奪う前に。俺は止めたい。だから、知っている事があるのなら、教えてくれないか」
しばらくの沈黙の後、翔くんはうつむいた。
必死に、自分の中の何かと戦っている。
「植村の……」
そのまま、翔くんはまた口を閉ざす。
久遠は待った。彼の口から漏れた言葉の意味を、きちんと話してくれると信じて。
「植村の呪いだ……って、皆言ってる」
「植村、というのは、友達?」
「クラスメイトだよ。友達なんかじゃない」
翔くんは拳を握り、膝の上で震わせた。
「俺が……いじめてた」
それは、後悔の響きを帯びていた。
どのようなイジメだったのかは分からないが、彼はそれを後悔している。
「……浮」
人型の式符を取り出し、砂場の脇で横に腰掛けた彼の背に、久遠はそれを貼り付けた。
人型が、ぽつりと黒い点を筆で打たれたように一部が染まる。
「何故いじめたのか。聞いても?」
「彩音が、アイツの事が好きだって言ったから……」
「女の子、かな? 君は、その子が好きなの?」
久遠の言葉に、翔くんはうなずいた。
さらに、彼の背中の符が黒いシミを広げていくのを、久遠は静かに眺める。
「そしたら植村、来なくなって。彩音も笑わなくなって、俺と、話もしてくれなくなった……」
小学生の子どもには、キツい話かも知れなかった。
ありふれている。ーーーしかしありふれているからといって、子どもだからといって、色恋の情動の深さが大人のそれと変わるわけではない。
「相手をいじめるより、好きな子を振り向かせる努力を、すべきだったね」
翔くんの背中を慰めるように撫でながら、符を剥がすと、符は真っ黒に染まっていた。
負の情動を吸ったのだ。
翔くんは泣いていた。
「でも俺、あいつの家に行って、謝るのも、怖いんだ……」
「そうだね。悪い事をしたのを認めるのは怖い」
親には怒られるかも知れないし、相手には怒鳴られるかも知れない。
「でも、それが君の受けるべき罰だね。勇気をもって、前を向けると良いと思う。……俺も怒られてばっかりだけど、隠し事をするよりも怒られる方が楽だよ」
久遠が苦笑すると、翔くんは顔を上げた。
「おじさんも怒られるの?」
「毎日ね。でもおじさんは、絶対言えない秘密がある。そっちの方が、しんどいよ。君もそうだろ?」
久遠が笑いかけると、翔くんは濡れた目でまばたきをした。
誰かに言えて、すっきりしたのかも知れない。
軽く口をひき結んでから、翔くんは小さく言った。
「うん、しんどい……」
「なら、謝る事だ。俺にそれを吐き出せた君は、もう、謝れる勇気もきっと持ってる」
彼の頭をポンポンと叩いたところで、彼の友達が「帰ろうぜー!」と叫んだ。
「友達が呼んでるよ。俺も家に帰る」
尻を叩いて砂を落としながら立ち上がった久遠に、同じように立ち上がった翔くんが言う。
「おじさん、どっかで顔見たことある」
「ご近所さんだからね。噂好きのお母さんには、俺に話しかけられたって言わないでいてくれるかい?」
「……この怪我」
翔くんはカサブタになっている自分の足を指差した。
「誰も、もう、怪我しないようにしてくれる? 陸人とか、顔傷つけられて本当は結構ヘコんでたんだ」
自分が主犯だったという自覚があるのだろう。
話し方を聞いていると、彼は本来、しっかりした面倒見の良い少年なのかも知れない。
「約束するよ」
久遠が手を振ると、翔くんは友達と自転車で立ち去った。
彼は久遠の事を、家人に喋るだろうか。あるいは、翔くんの友人たちは久遠を不審に感じたかもしれない。
彼らが喋ろうと喋らなかろうと、実際は、どちらでも構わなかった。
真奈香に今日の事がバレるのはあまり嬉しくはないが、彼の身分は未だに警官である。
不審に思った噂好きの深井さんが話を聞いて真奈香の耳に入ったとしても、真奈香は伝えている副業が司法関係である事を知っている。
重要でない聞き取り調査の代行、という体で、降魔課は問い合わせに対応する筈だ。
久遠は自分も帰ろうと、美香を見て。
「美香ちゃん、帰……」
思わず、絶句した。
人型の符で情念を吸った時から、目を離していた美香は。
「とーたん! おいしー、ね!」
と、ご機嫌な様子でオモチャのカップを掲げる。
そのオモチャのカップには、泥が満たされており……美香の口もともまた、泥まみれだった。
「ああ……また真奈香に怒られる……」
この事は内緒にしておこうか、と思わず久遠は思い……もし美香が腹を壊したりしたらどうせ問い詰められてバレるしな、と即座に観念した。