カマイタチ①
無事検診を終えて部屋を出た久遠は、美香を褒めた。
「泣かないで偉かったねー」
「にへー」
久遠が頭を撫でると、美香は得意げな満面の笑みを見せた。
緩みきった笑顔で自分も応じた久遠は、ホールに出た所で『奥のスペースに置いておくように』と職員に言われていたベビーカーを取りに行く。
当然ながら、久遠以外で来ているのは母親ばかりだが、美香は気にした様子もなくご機嫌だ。
美香は元々、あまり周りを気にせず人見知りもしない子だった。
それでも一時期は人並みにグズり、その頃は医者にかかる度に泣いていた。
しかし人見知りを終える頃には、すっかり今のように手が掛からない美香に戻った。
もう少しワガママでも良いんだけど、と真奈香は少し心配していたが、気にし過ぎだと久遠は思っている。
久遠自身もそうだったから分かるが、兄弟姉妹がいないと喧嘩になる相手もいない。
今にして思えば寂しい反面、のんびりとも出来るものなのだ。
久遠はしゃがみ、ベビーカーに乗った美香に視線を合わせた。
「今日のおやつは何にしようか?」
「りんごー!」
「なら、おうちに帰ったらりんごを食べよう」
「りんごー!」
元気いっぱいに答えた美香の頭をわしゃわしゃと撫でて、久遠は立ち上がる。
真奈香の方針で、美香にはアメやアイス、クッキーなどの甘いものや、スナック菓子を一切あげていない。
幼稚園に上がるまでいらない、という彼女の言葉に従い、もっぱら美香のおやつは果物や子ども用せんべいなどだ。
お野菜関係の好き嫌いもない為、キュウリや煮かぼちゃでも喜んで食べる。
ちなみに久遠はかぼちゃやニンジンが苦手なので、食事の時にはこっそり自分の皿やお汁によそう分を減らしていたりする。
久遠の中では、甘いおかずはご飯のおともに相応しくないのだ。
肉もあまり好きではなく、鳥くらいしか好んで食べない。
久遠が食事を作るとメインが鳥や魚ばっかりになる為、祝日・休日の晩御飯だけは真奈香が作っている。
真奈香には子どもなのかジジくさいのか分からないと呆れられるが、人間誰しも苦手はあるものだと思う久遠である。
美香は検診で疲れたのか、施設を出てすぐにうとうとと眠ってしまった。
ベビーカーの日よけを覗き込んでそれを確認した久遠は、表情を引き締めてスマホを見る。
「さっさと済ますか」
今朝、架空の職場名義で登録してある電話番号から、連絡があったのだ。
連続傷害事件としてこの辺りで噂になっている出来事が、近くの通りで起こっている。
被害者の受けた怪我自体は、ほんのかすり傷……小刀の刃先で少し切った程度なのだが、中には少し深く、縫う必要がある程度の怪我を負う被害者もいたらしい。
何故ニュースにならないのかと言えば、誰も犯人の姿を見ていないからだ。
犯人が逃げた訳でもなく、後ろから切り付けられたり、待ち受けられていきなりという訳でもないらしい。
本当に自分しかいない場所で、不意に痛みを感じたら怪我をしていた、という不可思議な出来事。
公に事件が上がったのは、その通りを通学路としている複数の児童と保護者が、学校へ相談に行ったからだった。
死者がいない事から、脅威性の低い降魔課事案として近所に住む久遠にお鉢が回ってきたのだ。
降魔課の職員はそれなりに降魔の腕がなくては務まらない為、人手は慢性的に不足している。
久遠のような勤務形態が認められているのも、久遠を手放すには余りに惜しいという上層部の判断と、実際にこの日常そのものが、上司からの命令によって与えられた任務から派生したものだからに他ならない。
現場に向かうと、少々空気が淀んでいた。
さほどの邪悪さは感じないが、負の情動がたゆたっている。
「……術師の仕業か?」
自然の陰気にしては、この通りだけを狙うというのは考えづらい。
久遠はこの事件を恐らくは鎌鼬の仕業だと当たりを付けていたが、背景が分からなかった。
今は昼下がりだ。
特に用事もない主婦の皆様は食事の支度、子どもは学校だろう。
この辺りは住宅街で、辺りには久遠とベビーカーで眠る美香しかいない。
美香に傷を負わせる訳にはいかない久遠は、通りから少し離れた場所から双眼鏡を取り出して、事件のあった通りを観察した。
より詳しく、何かが分からないかと思ったからだ。
はたから見ると完全に不審者なので、手早く大雑把に目に見えるものを把握した。
双眼鏡はすぐに仕舞う。
久遠から見えたのは、電信柱の並びにある複数の住宅と、通りの角にある学校の通用門。そして左右に伸びたT字路の曲がり角にある車用のミラー。
特に何の変哲もなく、周囲の住宅からも不審な気配は感じなかった。
「術師ではなく、自然に発生したものかな……いや」
久遠は、カマイタチの出る通りは避けて、あえて大きく回り道をして路地の反対方向に移動した。
すぐ目の前には学校があり、通用門から伸びる通りを再び眺める。
「カマイタチは風の概念存在だ。一つの場所に留まるのはおかしい」
概念存在とは、悪鬼妖怪を体系化したもので、幾つかの共通した特性や呼称がある。
力の弱いものは総称で呼び習わされ、特に力があるモノや意思を持つモノには個体ごとに名前が付けられていた。
神や悪魔、精霊などの名前を持つモノは自然概念の具現した概念存在である事が多い。
逆に人が聖霊や怨霊と化したモノは、人がどれだけその存在を知っているか、という部分に力の大きさを左右される信仰概念に属するのだ。
「ふーむ」
無精髭の生えた顎を撫でた久遠は、何気なく住宅街を見回した。
多くは、通りに面した二階のベランダに洗濯物を干していたりカーテンを閉め切っていたりする。
マンションなども室外機が回っていたりいなかったりと様子はまちまちだが、やはり普通だ。
「夜にでも、もう一度来るかな……あんまり夜出掛けると真奈香が怒るんだけどなー」
陰の気配は、夜の方が目にしやすいのだ。
どう言い訳しようか、と考えながら久遠がベビーカーを押していると、立ち話が聞こえた。
目を向けて、あ、と思う。
立ち話をしている一人は何かこの辺に用事でもあったのか、よそ行きの格好をしたご近所さんだったのだ。
確か小学生くらいの息子がいるので、小学校に用でもあったのかもしれない。
別に久遠は悪い事をしている訳でもないのだが、噂話が好きなオバちゃんなので、見つかるとちょっと話のネタにされる可能性がある。
そそくさとその場を後にしようとしたが、運悪く目が合ってしまった。
「へぇ、植村さんの家の息子さん、引きこもりに? それはまぁ……あら」
などと漏れ聞こえた会話が途切れ、久遠はご近所さんに仕方なく頭を下げた。
「ど、どうも」
「あらあら、天野さん? こんな所でどうしたんですか?」
「ちょっと美香の検診がありまして。寝ちゃったので散歩がてらにブラブラと……」
「まぁ、良いですわねぇ」
良いですわねぇ、という言葉の裏にちょっとしたトゲがある。
優雅ですこと、とでも思われているのだろう。
「あの、お話の邪魔もなんなので……」
「気にしないで下さいな。呼び止めちゃったみたいで、ごめんなさいねぇ」
思いのほかあっさり解放されてホッとしたが、例の通りを避けて曲がり角を曲がる時に、二人してこっちを見ているのが視界の隅に映った。
『天野さんの所の旦那さんなんだけど、ヒモで』とか言われているに違いない。
「良いんだけどね……」
次に会った時、真奈香に変な事言わないで欲しいなぁ、などと、思いながら。
少しだけ、溜息をついてしまう久遠だった。