さようならも言えなくて。
明治33年、日本ーーー。
『忘れろ。……いつ戻れるかも分からん』
そう言って、あの方は去られました。
青い目に、金の髪、高い鼻をした……お優しい方でございました。
娼妓として異国の男性を相手にしなければならない、と決まった時。
私は怖くて堪らなかった事を覚えております。
政府が、18歳以上でないと春を売る事を禁じる、3年前の事でした。
私は16、あの方は36。
最初、異人相手の娼妓として貸座敷に上がると、あの方が居たのです。
……アリス様、私は貴女様のように特別に美しい訳でもない平凡な女でございますが、それでもあの方は私を、可愛らしい、と、そう仰って下さいました。
身を売る前に幾度か遠目に見た異人は皆大きく、鬼のように見えたものでございましたが。
貸座敷にて初めて対面したあの方は、私の怯えに気付いたのか妙な表情を浮かべ、その深い色合いの瞳で私を見たのでございます。
身分の高い方で、私の初売りを高くお買い上げいただいた、と、お店の主人には重々言い含められておりました。
どう表現したら良いのかは分かりませんが、あの方の目を見た時、私は思ったのでございます。
ーーー私は、ひどく小さな存在だ、と。
ええ、包み込むような器の大きさを感じさせてくれたあのお方に比べれば、私は本当にちっぽけな存在であるように感じたのです。
怯えずとも良い、とあの方は私におっしゃいました。
『望まぬままに用意された席だ。一晩共に居ればそれで済む』
そんな事を言いながらも、あの方は結局、私を抱かれました。
いえ、決して、強引に、でも、怯えている私を、でもございません。
私自身が、望んだのです。
最初、深い知性をたたえた目で、時に甘く囁くように、時に茶目っ気を見せて、あの方は私にお話をして下さいました。
その内に私の中からは怖いという情動も失せ、巧みな話術で緊張もほぐされ、心の奥深くまでも入り込まれて……気付けば私は、自分の身の上をあの方に話しておりました。
あの方が何を思ったのかは分かりません。
ですが、話を終えた私を慰め、泣き伏す私を優しく抱きしめていて下さいました。
私は、この方になら、と思ったのです。
その後、幾人もの男に触れられる身であろうとも、その最初の一人がこの方であるのなら嬉しいと。
そうして、私は抱かれました。
翌日には、私はほんの先日買われたばかりの身柄をすぐさまあの方に買われて、店の主人に妾となれ、と言われました。
それから四年の間は、夢のようでございました。
今までに比べれば、まるで辛くもない生活。
贅沢をなさる方ではなく二人での暮らしは清貧ではございましたが、あの方は毎日神に祈りを捧げ、楽しそうに暮らしておりました。
時折長く出て行かれる事もございましたが、いつも帰って来て下さったのです。
なのに。
あの方は、突然に家を引き払い、私をこの家の下働きに預けて出て行かれました。
いつ帰るとも分からぬから、忘れろなどと。
そしてすぐに、露西亞とのあの戦争が始まりました。
戦争が終わっても、あの方は帰って来られませんでした。
何があったのでしょう。
……もしかしたら、もう、生きてもおられないのでしょうか。
あまりにも急で、あの方らしくない一方的なお話だったので。
アリス様、私は。
ーーーあの方に、さようならも言えなかったのでございます。
もう、13年も経ちました。
世界を混乱に陥れた大戦も、先年ようやく終わったというのに。
やはり、あの方は帰って来られません。
……ですが、アリス様。
何故、今そんな、私の昔話をお聞きになりたがったのです?
え? ご主人様のご友人がいらっしゃる?
何故そのような大切な事を先に言って下さらないのです。
あ、急いで準備をしなければ。
いつ頃でございますか? ーーー今日!?
いいえ、いいえ、駄目でございます!
幾ら気の置けない友人といっても、何のおもてなしの準備も……ああ、もしかしてあの馬車が!?
……え? 私が居ればそれで良い?
あ……アリス様。
ご友人、というのは……まさか。
で、でしたら、事情をご存知でいらしたのですか!?
そんな……そんな……。
出迎えに……そ、そうですね、ああ、でも……あ、アリス様?
一人で歩けます。で、ですからそんなに引っ張らないで下さいませ。
ーーーあの、お、お久しぶりで、ございます。
お、お忘れかも知れませんが、あ……。
お、お離し下さい、玄関先で、そ、それもご主人様夫妻が見ている前で、このような……!
恥ずかしがるな、など……恥ずかしゅうございます! 当然でございましょ……むぐ。
う……んッ……!
はぁ……い、いい加減になさいませ! まるで子どものように! もう、50も過ぎた男が……え?
そ、それは、お会いしとうございました、けども……そんな、もうこの歳になって、娘のようにはしゃげるはずが……。
す、素直な?
ええ、あの……はい、嬉しゅうございます。
連れ合い? いる訳がありません。
私がお慕い申し上げたのは、生涯ただ一人、貴方様だけです。
う、うれ……嬉しくない訳が……う……ぐすっ……。
ど、どこに、いって、おられたのです……忘れろ、などと……。
貴方様こそ、私の救い主であられましたのに……。
はい……はい……今でも、お慕い申し上げております。
そうです、今までも、これからも、ずっとでございます。
許してくれるか、などと。
忘れよ、などと言われて、でも忘れられない程に、私の心は、貴方様のものでございます。
随分歳を取りましたが……こんな私で、本当に……よろしいのですか?
ふふ……嬉しいです。
愛しております、貴方様を。
さようならは言えませんでしたが、この言葉はお伝えしなければなりませんね。
お帰りなさいませ……オースティン様。
ーーー第一次世界大戦終結より1年、日本に再来日したオースティン・アダムス53歳、33歳の恋人、お紫乃を妻に娶る。
『里中アリスの手記』より抜粋。