序
―――霧の都、倫敦。
立ち込めた深い霧によって濡れた石畳の上を、里中勇治郎は歩いていた。
夜の街を明るく照らす筈のガス灯は、濃密な白に溶けて頼りなく霞んでいる。
「……?」
霧の臭気に混じる微かな香りを捉えた里中は、すん、と小さく鼻を鳴らしながら鋭い眼を街路の一つに向けた。
今は夏だ。
だが表通りよりもさらに深い闇に染まった路地に近付くと、白い軍服に包まれ汗ばんでいた肌が寒気を感じる。
里中が立ち止まると、カツン、と一つ、軍靴の音が静寂に響いた。
深い闇の中に、赤い二つの光がある。
それは目であり、何者かがそこに居た。
ぽつ、と。
赤い目の持ち主が身じろぎすると、ぬめるような液体が跳ねる音が響く。
血の滴る音だ、と思った瞬間に、里中は路地に向かって身を躍らせた。
「……!」
手に握った鞘から軍刀を引き抜き樣、鋭く呼気を吸いながら闇に向かって斬り込むと、剣閃を縦に振るう。
「―――南無八幡大菩薩!」
呪言と共に振り下ろした切っ先が捉えた感触は、人間のものではない薄い感触だった。
相手の姿が、溶けるように闇に消える。
残心の姿勢で止まった里中の刃の先端に残ったのは、闇色のカードだった。
「またか。……飽きもせずに、よくやるものだ」
里中は切っ先を地面との間に滑り込ませてカードを宙に刎ね上げると、鞘を持つ手を伸ばして指の間に挟み込む。
納刀した彼が手にしたカードをポケットに差し込みながら周囲を見回すが、あまりに闇が深く、物を識別し辛い。
だが、周囲に人の死体などはなさそうだった。
里中が再び大通りへ出ると、路地の近くにあるガス灯の下に一台の馬車が停まっているのが見える。
こんな夜中に物騒な、と自分の事を棚に上げながら、里中が目を逸らして歩き始めると。
「ミスタ、サトナカ?」
か細い声で問い掛けられ、里中は再び馬車に目を向けた。
馬車の中に人の姿はなく、御者は前を向いたまま微動だにしない。
声の主の姿を目線で探す里中に、おずおずと馬車の陰から姿を見せたのは、スカーフで髪を隠した女性だった。
「……ミス・アリス?」
「ハイ」
英国人に比べれば小柄な里中と同じくらい背丈のある知り合いの女性、アリスを見て里中は目を見張る。
彼女の芸術のように美しい顔からは、普段よりもさらに血の気が引いていた。
「夜も深いこの時間に、何故貴女が此処にいらっしゃるのですか? レディ」
里中が丁寧で堅苦しい英語で問い掛けると、アリスは悪戯を咎められた子どものように首を竦めた。
そして、たどたどしい日本語で、言い返す。
「申し訳ありまセン、ミスタ、サトナカ。どうしてモ、確かめたかった、デス」
「何を?」
美しく長い睫毛を伏せて口の端を震わせながら、アリスは俯いて小さく呟いた。
「……母が、ドコへ、向かったのカ」
アリスの言葉に、里中はより一層表情を引き締めた。
「……御母堂が、外出なさったのですか?」
「ハイ」
里中は大きく息を吐き、さらに何かを口にしようとしたアリスの言葉を遮って、告げた。
「今は、物騒です。お送りしますので、どうかお帰り下さい」
「デモ」
「お願いいたします。……御母堂はおそらくもう、屋敷へ帰っておられます」
言いながら、里中は仕舞ったばかりのカードを抜き出してアリスへ示した。
そのカードは、以前アリスの母の側に落ちていたといってアリスに見せられたのと同様のものだった。
彼女は息を呑み、それから諦めたように肩の力を抜く。
「ホントに……一緒に、家へ来テ、くれますカ?」
「ええ」
カツン、と軍靴を鳴らして足を揃えた里中は、馬車にアリスを先導して乗り込ませると、自分はゆっくり動き始めた馬車の横を歩き出した。
小さな馬車である為、貴婦人と同乗するのは憚られた為だ。
―――この時、1888年8月31日00時。
後に『切り裂きジャック』と呼ばれる切り裂き魔……その確実な被害者であると言われる女性、メアリー・アン・ニコルズが発見される、僅か数時間前の事だった。