アイデアが多すぎると、情報処理能力が落ちる
第一に、情報処理能力ってのを定義するが、
ただ単に、これは意志力だ、精神論で全ての答えが出るようなモンだ。
ハッキリ言って、情報処理能力の低い奴は、人生を楽しんでいない、絶対にそのはずだ、これは100%確定している。
人生を楽しんでない、そもそも人生なんて、心の底からどうでもよい、絶望して諦めて、痛みすら感じないレベルで麻痺、
平凡に不幸な人間なのだ。
だから、生命の渇望、生きる意欲、喜怒哀楽が無い、
生き甲斐も無い、人生に本気じゃない、真剣じゃない、限界を知らない、最善を尽くしてない、全力じゃない、
必死じゃない、決死じゃない、
幾ら言葉を連ねても、しょうがない、純粋に言えば、人生が終わっている、詰んでいるから、
やる気が無い、
人生というゲームを、至高にプレイする状態じゃないのだ、
だから情報処理能力が低い、脳味噌を働かせる気力や活力、体力が無いのだ、ただただ、そういう事だ。
さて、まずは俺が過去に、情報過多な作品を見て、書いた感想を見ろ。
「まず作者の文章ですが、自分は読み易かったですよ?
一般的に見て処理負荷の高い単語・文章の並びですが、
それ故に、処理能力の高い人間には、多くの情報を伝えられる感じです、
情報の娯楽性も高いですし、価値のある情報を伝達してくれるならば、これでも全然構わないかと。
もちろん情報処理能力の低い人間には、ストレス過多、嫌われる文章でしょう。
こういう文章をそういう人に読ませるには、
力技とでも呼べる、圧倒的な娯楽性、エンタテイメント性が文章にないといけなくて、至極面倒になるのですが
さて、本題のアイデアが多すぎるというのは、分かる人には分かる悩みだと思います。
アイデアの収集を絞って、わざとアイデアが枯渇する状態を創造するのが、正しいのでしょうかね?
そうしないと、真摯に小説に向き合えないのか?
好きなモノが多すぎると、好きな人が多すぎるように、一つに一人に必死に本気に、真剣になれない必然のように。
でも、わたしはこう考えます、アイデアを絞って作品を書く作者は、所詮は井の中の蛙でしかないと、そうでしかありえないと。
自分の世界が狭いから、相対的尺度、広い価値観の判断を省き欠いた、自分の狭い世界で大切で貴重なものを、心の底から賞賛できますが、
それは所詮、猿山の大将、広い世界を知らない人間の、妄言としか受け取り手には感じれません。
つまり、下位者の創作物にしかなりえず、上位者を満足させることはできないのですね。
二流三流の小説家は、こういう技法を用いるモノです、たいていは。
そして一流の小説家は、こういう技法を用いらず、広い視点から物語を創造します。
しかしこれだと、極端な例ですが、携帯小説のように感情的な、なにか、情熱を欠いたリアリティの無い創作物になる事が多いようです。
これはアイデアが多すぎる人間が、嵌りやすい事態です。
一流は優等生過ぎるのです、二流や三流の、蛮族のような力強さには、たびたびでなく負けてしまうものです。
だから、超一流になるべきだと思います。
アイデアが多すぎても、それを上回る情報処理能力、これがあれば、問題は解決します。
沢山のアイデアを、沢山の感情で愛するように、一度に把握し、処理できればいいのです。
アイデア、つまり情報とは、取りこぼしがあれば、出力したときに、全力が出せた感覚を欠きます。
これは致命的なことです。
だから、アウトプットとインプットのバランスが大事だと思います。
インプットばかりしていると、アイデアが多すぎると、感じるようになるのです。
アイデアが多すぎる、とは、己にとって無駄なアイデアが存在するということです。
まずは、無駄と思えるアイデアを洗い流して、一つ一つを愛せるように、そのアイデアに感情をしっかりと持てるようにするべきだと思います。
さて、最後に、アイデアが多すぎるという事は、基本的には良い事です。
アイデアが少ないよりも、可能性があります。
物語は基本的に、アイデアが沢山詰まっていた方が面白いです。
情報量が多く、その整合性と複雑性の調和、ネットワークの集積、その秀逸さが、小説の価値の総量です。
この技巧を極めるのが小説家、文章を娯楽とする、文豪のようなモノがあるべき姿だと思います」
さて追記だが、
俺はアイデアが多過ぎると、最適な組み合わせを考えるのに、時間が盗られると思う、
また最適な組み合わせを模索するのが楽しくて、人生を結果的に浪費するってのも思う。
だからアイデアを絞って、抜本的にアイデアの領域を、上手く切り分けて分類して、最適な分量に削減するのが良いと思う。
魅力的な世界観を描くのに、材料が豊富すぎると困るのは、
そういう状況下で、最適解が見えるほどの、人間は情報処理能力を持ってないからだと思う。
だから、ある程度パズルのピースを厳選して、自分の持てる情報処理能力に見合った感じにするのが良いと思う。
余りにも材料が多過ぎると、材料を加工するのに時間がとられて、物語が上手く進まない。
さらに言えば、材料を最適に選定するのに思考力を奪われて、物語を最適に、情報として最適にする思考力も奪われる。
所詮は情報処理・思考力の配分が大事なのだ。
情報を加工する過程において、まずはアイデアを最適にする、
ってのは、一つのやり方として良いと思ったのだ。
扱う情報量をセーブする為に、そして己の一度の情報処理能力で、上手く最適に扱える情報量に止まるように、
常に物語のアイデアを絞って、最適化させ続けるのが、リアルタイムな物語の創造過程において肝要だと思うのだ。
その為なら、一時的に盲目に、思考を領域的に閉ざすのも良いと思う。
例えば、ファンタジーを書いてる時は、現代のことを完全に絶対的に忘れるのだ。
あるいは思考を縛って、絶対に考えないようにする。
ファンタジー世界で、ここで携帯があればっ! とか、そもそもそういう事を考える思考を無くすのだ。
それによって、だからリアルな登場人物の心情が描けるとか、あるのかもしれない。
こういう技法も、様々に小手先の技術として集積して、思考を最適化、情報加工の最適化に使っていくべきだろう。