君の声
駅から徒歩7分の住宅街。人の気配はあるけど、外には誰もいなかった。
当たり前だ。携帯電話の液晶は0時が表示されている。コンビニはここから徒歩10分はかかるみたいだし、こんな時間に出歩く人がいないのが当然だ。
「この辺の物件を借りようと思ってるの?」
隣を歩くユーキは周りを見渡しながら歩いている。外灯は等間隔に設置されているから道路は明るく、狭い路地も見当たらない。治安は悪くなさそうだ。
「駅から徒歩10分圏内を考えてる」
実家から通うには遠い大学を選んだから、4月からは一人暮らしだ。やっとあの家から出ることができる。
まあ、実際は一人暮らしじゃなくてルームシェアなんだけど。
「一人暮らしの先輩として、アドバイスはするよ」
ユーキは片眉を上げて笑った。
昼と夜で環境が違うから、住む場所を決めるならどちらも確認する方が良い。ユーキのアドバイスに従って、下見に来ていた。こんなに遅い時間にする必要はなかったかもしれないけど。
来るのは俺一人でも良かったんだけど、ユーキがついて行くと言って譲らなかった。一人暮らしで何か苦労したことがあるんだろうか。
「この辺ってちょうど良いね。家賃は高そうだけど。間取りの希望は?」
「2DKか2LDKが良いな。トイレと風呂は別で」
「家賃は折半だったよね。そうなると家賃は多少高くても大丈夫かな」
ユーキはスマートフォンで賃貸情報を調べているようだった。ネットの情報は参考にして、明日不動産屋に行こう。
ユーキが調べている間、周りのアパートやマンションを眺めた。住むのは3階以下で。戸数は少ない方が良い。人付き合いが面倒だ。
ちょうど2階建ての建物があり、入り口に向かった。『空室あり』の看板が掛かっている。隣には親切にも部屋の間取りと家賃が記載された紙が貼ってあった。1LDKでバス・トイレ別。家賃は4.9万円。
これは相場としてはどうなんだろう。
「ユーキ、この家賃ってどうだ?」
「んー『裏野ハイツ』? なにこの家賃! 安すぎない!?」
「やっぱり安いか」
「この間取りで5万以下って。敷金もないし、事故物件かな?」
事故物件。人が死んだ部屋ってことか。そういう部屋は安くなるって本当だったんだ。
俺は気にしないけど。人が死んでいたからって部屋は関係ない。害があるんだったら困るけど。
あ、同居人はそういうのを気にする奴だった。
「お前は気にする?」
「条件によるかな。自殺なら良いけど、他殺は嫌かも。怨念とかありそう」
それもそうか。とにかく、この物件は部屋数も足りないから却下だ。
「キャー!!」
甲高い声が響いた。かなり近いところから聞こえた。
大人ではなく、子供の声だった。小さな子供が、全力で出した声だった。
癇癪ではない、本気の叫びだった。
もう一度聞こえたら、場所を特定できるだろう。10秒ほど待ってみたけど、悲鳴は聞こえなかった。
「ユーキ」
「子供の叫び声だ。幼児で、暴力を受けたような声だった」
ユーキは眉を寄せて虚空を睨んでいた。その目は、初めて会ったときに見た、怒りを含んだ目だった。
ユーキがいた施設で聞いたことのある声だったのかもしれない。施設には、虐待を受けた子もいたらしい。
暴力を受けているなら、早く助けないと。子供は弱いんだ。大人の力で向かうと壊れてしまう。
ユーキは一番近くの家、ハイツの101号室のインターホンを押した。ここに住んでいる人なら、何か知っているかもしれない。
深夜に非常識だけど、今はそんなことを言っていられない。
『……どちらさまですか』
男性の声だった。警戒しているのか、低くて聞き取りにくい。
「夜分遅くに済みません。先ほど、子供の悲鳴が聞こえませんでしたか?」
『悲鳴? 窓を開けていたけど、そんなもの聞こえなかった』
「……そうですか。ありがとうございました」
何か知っているどころか、悲鳴さえ聞こえていなかった。あんなに大きな甲高い悲鳴が。窓を開けていたのに。
何かおかしい。嘘を吐いているとは感じなかったけど、深夜に突然来た見知らぬ人を追い払いたかった可能性はある。
今は、近所の人に訊いても無駄かもしれない。子供のことは気になるけど、今の段階ではどうすることもできない。
「明日、昼に来よう。今は何もできない」
悲鳴が聞こえただけでは警察に電話しても無駄だろう。場所の特定さえできていない。
ユーキの決断に、頷いて同意を示した。
午前10時。学生は学校に行っている時間だ。まだ春休みに入っていなくて良かった。
近所への聞き込みはユーキが率先して行った。イケメンは口を軽くする効果でもあるのか? 家にいた主婦は、突然の訪問にも関わらず警戒せずにユーキと会話していた。
「昨日の夜、大きな声が聞こえませんでしたか?」
「声? 昨日は1時まで起きていたけど、声なんて聞こえなかったわよ? 橋元さんも夫婦喧嘩してなかったし」
「橋元さんの夫婦喧嘩って有名なんですか?」
「すごいわよー。言い合いと殴り合いなの。奥さんの方が勝つんだけどね。この辺に住む予定? 今は静かな住宅街だからオススメよ。あ、たまに夫婦喧嘩の声が聞こえるけど」
夫婦で対等にやり合うから、DVじゃなくて夫婦喧嘩だ。昨日は静かだったけど、夫婦喧嘩で煩いことがある場所ってことか。
ユーキはこれ以上有益な情報が出ないとわかったのか、話を切り上げた。ユーキの対人能力、凄い。
何軒か同じように聞き込みに行ったけど、昨日の悲鳴は誰も聞いていなかった。
近くの公園で、休憩した。午前11時。子供の姿は見えない。この辺に小さな子は住んでいないのか?
小学生以上の子供は、今は学校に行っている。
「最悪の場合、悲鳴は1回しか出せなかったってことか」
「そうだね。どっちにしろ、早く見つけてあげないと」
裏野ハイツに戻ってきて、もう一度一番近い家を訪ねた。
イケメン再び。奥様は喜んでいた。
「この辺りに小さな子供がいる家はありませんか? 幼稚園以下の」
「そこのハイツにいるわよ、子供」
「そうですか! 何号室に……」
「3歳の男の子がいるの」
悲鳴は女の子のものだった。ユーキがそう言っていた。
ユーキが聞き間違えるはずがない。俺には小さい子どもの高い声はどれも似ていて性別に確信は持てないけど、ユーキなら。
小さい子どもと暮らしてきたユーキは間違えない。
お礼を行って足早に去った。これ以上ここにいる必要はない。
「昨日、虐待や殺人が起こったんじゃなくて良かったってことかな」
「そうだな。昨日、誰かが傷付いたわけじゃなかった」
俺達にしか聞こえなかったあの声は、俺達の助けを求める声じゃなかった。
小さな女の子の悲鳴。
きっと、それは俺達じゃない誰かに助けを求めた声だったんだろう。
昔、小さな女の子が住んでいませんでしたか?
その子は傷付いていませんでしたか?
それは誰にも聞けなかった。聞こうと思わなかった。
調べたら何かわかるかもしれないけど、知ろうとは思わなかった。
この地域に立ち入ることは二度とないだろう。
『そんなもの聞こえなかった』
子供の悲鳴を『そんなもの』と言うハイツの住人。
『今は静かな住宅街』
昔は静かではなかった住宅街。
あの女の子は、きっとこの辺りに住んでいたはずだ。
でも、俺達は今は何もできないから。助けることができないから。
「聞こえていたのに無視するの?」
ユーキは何も言わなかったから、俺だけに聞こえた声。小さな女の子の声だった。
やっぱりユーキの言うとおりだった。男の子じゃなかった。
声はハイツの方から聞こえてきた。事故物件確定かもしれない。
無視なんてしていない。やるだけのことはやった。だから、君が生きていないことを知った。
この声が、ユーキに聞こえなくて良かった。ユーキは落ち込んでいるのか、無言だった。
「私はここにいるのに」
そこにいるから、俺達が助けようと聞き込みを行っていたことを知らない。
そこから動けないから、ついて来ることができない。
頭に響く声が聞こえなくなるまで、無言で駅まで歩き続けた。