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ハーモニカ  作者: 紙森けい
6/8

(五)

[ 一九四五年 ]



 午後十二時三十五分、曇天の空に向かって主砲が咆哮する。

 放たれた三式弾が雲の下方で炸裂したのと入れ違いに、米軍攻撃機の姿が現れた。その数、十数機。機から落ちる爆弾は海に着弾するや魚雷と化し、白い航跡を伴って艦へと突進した。

 戦端は開かれた。艦隊はそれから二時間の間、米爆撃機の怒涛の攻撃を受けることになる。




 四月六日の午後、予定された全ての補給を終え、信乃夫が所属する第二艦隊は出航した。空は曇ってはいたが悪天候と言うほどではなく、波も穏やかだった。曇天の雲の低さは好都合と言えた。敵の哨戒機、あるいは爆撃機は艦隊の位置を捕捉するためには高度を下げねばならず、高度を下げれば艦による対空砲火を浴びかねないからである。但しそれは味方艦隊にとっても敵機の捕捉が困難となる不利な状況ではありえた。

 時折、米軍機と思われる機影がレーダーに映し出されたが、すぐに消えた。おそらく艦隊の行く先を監視しているのだろう。対潜傍受もしたが攻撃の様子はない。目的航路を悟られないよう進路を変更しながら、艦隊は順調に航行していた。

 信乃夫は右舷上甲板の第二通信室に詰め、次々と入る連絡と傍受された情報の処理にあたっていた。これから特攻に行くと言うのに落ち着いているのは、出征してから後、死を身近に感じ続け慣れっこになっているからだ。昨夜、印南に「いつだって生き残る気でいる」と言ったのはまんざら虚勢でも、彼に対しての慰めでもない。心のどこかで、『不沈』と言う神話を信じている。その反面、「生きては帰れない」とも思っている。この心の矛盾を、信乃夫は不思議に思った。

 翌七日も相変わらずの曇天だった。朝、信乃夫が交代の休憩時に甲板に出ると、上空を零戦が数機、艦に付き従っていた。護衛機なのだろうが、最終目的地までは行動を共にしないだろう。海上特攻する艦隊に護衛は不要だ。今や貴重な戦闘機を、対艦隊戦でもないかぎり無駄には使えない。それでも、せめて大海に出るまではとの、司令部の親心なのかも知れない。

 体操をしていた若い乗員達が零戦に気づいて手を振っている。信乃夫の充分に若い年齢だったが、彼らは更に若く、顔に、体型に、幼さを残していた。

(あの頃、死ぬことなんて想像したことなかったな)

 昭和十二年から日本はすでに中国と戦争状態であり、その四年後にはアメリカに宣戦布告したが、当初は破竹の勢いでラジオは勝利を連呼していたから、すぐに終わるものと思われていた。信乃夫もそう思っていた一人だ。しかし実のところ、対米開戦半年後のミッドウェー海戦で大敗を喫し、以来、振子は『負』の方向へと大きく振れる。徴兵年齢は徐々に引き下げられ、志願したとは言え、十六、七の少年までこうして戦場に立つことになった。

(入学式の季節だ。今年も歓迎会を開いているんだろうか?)

 戦争がなければ信乃夫は専科に進み、今年が学生生活最後の年になる。入学式では新入生を祝う在校生の演奏披露があり、おそらくヴァイオリンの独奏者の中に尚之が入っていただろう。彼に見捨てられずに伴奏者をしていたなら、信乃夫も同じ場にいたはずだ。

 尻のポケットを触る。硬質な感触はハーモニカだった。今、唯一、信乃夫と音楽を繋ぐもの。

「本土も見納めじゃのう」

 少し離れたところで作業をしていた乗員達が、まだ見える九州南端を感慨深げに見つめている。信乃夫は緑の山並みを一瞥し、持ち場に戻った。




 信乃夫の周りにあった音は、常に美しかった。

 たとえ調律が不十分なピアノであっても、鍵盤に指を落とすと旋律になり、音楽となって聴く耳を慰めた。

 信乃夫に音楽を教えてくれたバンドマン達が奏でた陽気なジャズと華やかな映画音楽。

 仕事先の、その日の気分で調子が外れる気まぐれな歌姫の染み渡るブルース。

 確かな基本で培われた几帳面な音で、曲の世界観を忠実に表現する鼎のピアノ。

 天上から降ると言う金糸の雨のように煌煌しく、軽やかに澄んだ容子のソプラノ。

 そして伸びやかで力強く、温かな生命力に溢れた尚之のヴァイオリン。

 校庭に廊下に満ちる学生達の真摯な音、慰問先で合唱する子供達の音、台所で母がたてる朝の音、井戸端でさざめくおかみさん達の笑い声、豆腐売りのラッパ、犬の遠吠え――生活の中で何気なく立てられる音 さえも、それぞれがそれぞれに信乃夫の耳を潤し、心を豊かにしてくれた。

 しかし今、信乃夫を取り巻く音は、音と言うにはあまりにも醜悪だ。

 爆撃、雷撃で船体は大きく揺らぎ、戦闘機から放たれる機銃掃射が甲板を走る。耳を劈く破壊音を縫うような怒号と悲鳴とうめき声。音とは言えない『音』が、絶対的暴力の不協和音をかき鳴らす。

 米爆撃機の攻撃が始まって、それらの音は一秒たりとも途切れることはなかった。

「前部左舷に魚雷命中!」

「副砲火薬庫、火災!」

「右舷砲員、後部甲板の消火にあたれー!」

 もたらされる報告、下される命令は絶望的なものばかりだった。被害状況を報告出来ない部署もある。その場には数十人、あるいは百人規模が配備されていたはずだ。受話器の向こうだけが無音であった。

 艦の衝撃を伴う不自然な揺れは確実に大きくなり、信乃夫の身体は跳ね、踏みとどまれずに床に叩きつけられる。敵の攻撃の精度が明らかに上がっていた。艦は何度も受けた雷撃で傾いている。ある程度、修正はなされていたが、いつまでそれが続けられるか。

 状況を直に目で確認するため通信室のドアを開けて甲板に出た信乃夫の鼻先を、爆撃機からの機銃掃射が走り過ぎた。後ろに強か尻もちを突き、ついた手首に鋭い痛みを感じる。信乃夫は慌てて両手を見た。

(良かった、折れてない)

 ホッとした後、おかしさがこみ上げる。こんな状況になってもまだ手の心配をするのかと。命さえ、風前の灯火だと言うのに。

「何してる! 中るぞ!」

 尻もちをついたまま、半ば呆けている信乃夫の腕がぐいと掴まれ、そのまま近くの物陰に引っ張り込まれる。腕を掴んでいるのは印南だった。

 前部艦底の水中聴音器室にいるはずの彼が、なぜ上に出て来ているのか。信乃夫の疑問に「この状況で探潜どころじゃない」と印南は答えた。

「それで砲弾の補充を手伝っていたんだが、弾切れでね。かなり船体にくらっているけど、沈まず航行しているのは流石に不沈艦だ。でも沖縄までは持たないかも知れない」

「そんなにひどいのか?」

 攻撃は左舷に集中していて、床や壁は血の色で塗装され、人の形を成さない死体がそこここに転がっている状態。印南の話では信乃夫のいる右舷はまだこれでもマシな方らしい。

「本当のところ、弾切れを名目に逃げて来たんだ。卑怯者と罵られてもいい。俺は生きて家族のもとに戻りたい」

 印南がそう言った時、ひときわ大きな衝撃が左舷で起こり、艦の傾きが一気に進んだ。今度は修正の兆しはない。固定されていない物が滑って行く。

「これはやばいぞ」

 信乃夫と印南は顔を見合わせた。

「退避ーッ! 退避! 総員退避!」

 止まない爆音に混じって、誰かの声が飛んでいる。

「退避? 退避ってどこに?」

 呟いたものの、信乃夫の身体は高所の方向に無意識に動いていた。それをまたしても印南の腕が止める。

「馬鹿、忘れたのか?! 沈む時はなるべく早く海に飛び込めって習っただろう?!」

 印南は左舷に向かって走り出した。一瞬遅れた信乃夫だが、すぐさま彼の後を追った。印南の背に絶対生きて帰ると言う決意が見えた。一昨日の弱気は微塵も感じられない。

 船は沈没時に巨大な渦を発声させる。沈没が迫ったら速やかに海に飛び込み、その渦に巻き込まれないようになるべく早く泳いで離れろと海兵団で教わっていた。これほどの巨大戦艦となると、渦の大きさは計り知れない。小さな人間など渦に引きずり込まれたら最後、二度と海面には上がって来られないだろう。

(そうだ、生きなければ。生きてみんなにもう一度会うんだ)

 終焉を迎える艦を目の前にしても、米軍機は容赦がない。甲板を右往左往する人間は次々と斃れていった。中らない方が奇跡に近い。中らないと信じて、信乃夫と印南は雨と降る銃弾の中を走る。神は二人をまだ見捨てずにいるのか、艦の傾斜に足も取られず、弾も中らなかった。

 しかしその幸運は目の前で炸裂した爆弾で尽きる。

 印南の身体が宙を舞う。それはおそらく信乃夫も同様の状態で、視界は上下左右、次々と入れ替わった。

 銀色の光るもの、はっきりとはわからなかったが、ハーモニカだと思った。

「尚…之――」

 信乃夫はその光るものに向けて手を伸ばす。

 全身が叩きつけられる衝撃が、『ハーモニカ』を見ていた信乃夫の視界を暗転させた。


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