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ハーモニカ  作者: 紙森けい
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(四)前編

[ 一九四三年 二月 ]



 面接場所に指定された所番地に来てみて、信乃夫は「これはやばいかも知れない」と思った。

 その界隈は男色の連れ込み宿が集まる場所であった。戦前に比べ軒数は減ったとは言え、残った店はひっそりと営業を続けている。

 信乃夫が入ろうとしている店は、一見、瀟洒な料亭風だったが、先ほど門をくぐった二人組の男客はどこか退廃的で、ただ食事をしに来たとは思えない風情だった。構えからすると他の店よりかなり格が上だと見受けられたが、醸し出す雰囲気が警告する――この仕事は受けるべきではないと。

 その警告に従って信乃夫が踵を返すと、黒塗りの車が行く手を阻むように停まった。

 車から下りてきたのは、この面談をお膳立てしてくれた田内と、面接の相手と思しき年配の男だった。

「どうしたね、池辺さん? 面談場所はその店だよ?」

 田内は紳士然とした笑顔を浮かべて言った。笑顔ではあったが、目は帰ることは許さないと威圧している。

 田内の隣に立った男は初老の域に入っていたが、上質な紬の上からでも想像出来る偉丈夫ぶりだ。目深に被った中折れ帽の下から値踏みするかの視線が、信乃夫の身体を上下したのがわかった。

「こちらが先日話した中川様だよ。立ち話もなんだ。中に入ろうじゃないか」

 先に行けと促されて、信乃夫は仕方なく店へと足を戻す。

 もしかしたら、本当に仕事の面接なのかも知れない。不穏な気配を感じたら、何とか理由をつけて席を外し、そのまま逃げればいい。

 玄関の上り框で靴を脱ぐ時、田内と目が合った。彼の笑わないあの目が信乃夫の胸の内を読み取っているように思え、背筋を冷たい汗が伝う。「蛇に睨まれた蛙」の喩が頭を過った。田内はこんな印象を持つ男だったろうか。信乃夫が働くカフェーの常連だが、それほど親しく話したことはなかった。銀行員だとわかっていたので今回の話に乗ったのだが、軽率だったと信乃夫は後悔する。

 それは松の内が開けて学校が始まったひと月ほど前に遡る。その頃、信乃夫は眉間に皺を寄せることが多くなっていた。本人にも自覚があり、努めて消すようにはしているが、気を抜くとすぐに皴は刻まれた。学年末が迫り、信乃夫にとって頭の痛い、切実な問題に直面していたからである。

 音楽学校は、趣味や習い事の域を超えた一廉の技能を持った者だけが入学を許される場所である。そのためには幼い頃から習い続けることが必要だが、ピアノやヴァイオリンは高価で、経済的余裕がなければ難しい。音楽学校にその条件を満たした人間、つまり裕福な家庭に生まれ育った人間が集まるのは自然な成り行きである。入学したらしたで学費や、場合によっては特別レッスンの費用も必要だった。弦や弓などは消耗品であるし、輸入楽譜も決して安い代物ではない。もちろん苦学して入学した庶民層の学生もいるが絶対数は少なく、信乃夫はその絶対的に少ない学生の一人だった。

 信乃夫の父親はかつて、無声映画の活動弁士をしていた。信乃夫はピアノをちゃんとした師匠について習ったのではなく、映画館付き楽団の楽士達に子守がてら教えてもらったのだが、トーキー映画の出現で父は失職し、楽団も解散して付き合いはなくなった。

 父は知り合いの伝で会社勤めを始めた。会社と言っても個人商店に毛が生えた程度のところなので、親子五人慎ましく生活するには不自由しないものの、子供に高価な道具が必要な習い事をさせる余裕はなかった。信乃夫は学校や教会などの鍵盤楽器を借りたり、あるいはピアノのあるカフェーやバーに小遣い稼ぎと称して雇ってもらい、楽士達が残してくれた楽譜を頼りに独学、ついには音楽学校を受験する。しかし両親も本人もよもや合格するとは思っていなかった。

「申し訳ないが、こらえてくれ」

 そう言われることを覚悟していた信乃夫だったが、両親は音楽学校行きを許してくれた。理由は高等教育の学生が二十六才まで兵役が免除されているからだ。

 兄二人は召集された。長兄は南方で戦死、次兄は大陸で戦っているが、無事で戻れるかどうかはわからない。そして昨今の戦況を鑑みるに、一人残った『跡取り』とは言え、信乃夫にもいつ赤紙が来るか知れなかった。「せめてこの子だけは」の気持ちが働いたのだろう。

 但し入学金は都合するが、その後の学費は自分で何とかしろと言われた。それで信乃夫は学校が引けてから数件の仕事を掛け持ちする身となったのだが。

洋灯(ランプ)亭、とうとう閉めたんだって?」

 次の出番までカウンターの中で食器の片づけをする信乃夫に、常連客の田内がカウンターのいつもの席から声をかける。信乃夫は苦笑いして「ええ」と答えた。これが眉間の皴の原因である。

 長引く戦争、悪化する戦況が、日本国内をすっかり変貌させた。「欲しがりません、勝つまでは」が合言葉となり、娯楽に関することは縮小の一途をたどる。この年の一月にはアメリカ発祥のジャズを筆頭に、西洋音楽は敵性音楽とされ、同盟国のドイツやイタリア、中立国以外の音楽は、演奏することを禁止された。

 信乃夫は二軒のカフェーと、料亭で働きながら学費を賄っていた。カフェーではピアノの生演奏と合間にバーテンダーの真似事を、料亭では男手を要する雑用をこなす。後者はカフェーの仕事の前後や休みの日に勤めるので、収入の主力は実質二軒のカフェーの稼ぎだったが、その一軒がつい先日閉店した。これはかなりの痛手である。

 このご時世、音楽に関係する仕事は少なくなっていた。手に負担のかかる力仕事は極力避けてきた信乃夫だが、贅沢は言っていられない。料亭に頼み込んで空いた時間も雇ってもらうべきだろう。

「それじゃあ、池辺さん、困るだろう? 学校の学費もあるし」

 田内が心配げに信乃夫を見る。

「僕、学費の話、しましたっけ?」

 田内は確かに常連だが、言葉を交わすのはほとんど初めてに近かった。

「ここのおかみから聞いているよ。学費以外にも色々と物入りなんじゃないのかい?」

「ええ、まあ。でもアテがないわけではないので」

「もしかして力仕事とか何かを考えているのじゃないかい? 手に怪我でもしたら大事おおごとだろう」

 田内は胸ポケットから名刺を取り出し、信乃夫に渡した。名刺は彼のもので、大手の銀行に勤めているらしい。

「私は職業柄、こう言った店もよく知っていてね。実は顧客の店のピアニストに赤紙が来て、新しく求人しているんだが、なかなかお眼鏡に叶う人が来なくて困っているんだ。選り好みしているご時世じゃないと思うのだがねぇ」

「まだ決まっていないんですか?」

「おそらくねぇ。どうだろう、池辺さん、そこの面接を受けてみるかい? その気があるなら口利きしてあげるよ?」

 断る理由がどこにあるだろう? 「ぜひお願いします」とその場で頭を下げた。 

 その五日後に来店した田内から、求人している店の主人との面談を取り付けたと紙片を渡された。

「急で申し訳ないんだが、先方は明日、会えないかと言うことなんだよ。忙しい人でね」

 紙片には場所の所番地が書かれていた。

「明日…ですか?」

 その日は尚之と伴奏合わせの予定だった。今月末に校内演奏会の選抜試験があり、例によって信乃夫は尚之から伴奏を頼まれていた。初合わせをそれぞれの授業が終わってからすることになっている。

「都合が悪いかね?」 

 紙片には面接時間も記されていた。店が始まる前を利用するのか、夕方の、比較的早い時間である。会って、話をして、場合によってはピアノを弾いて見せなければならないだろうが、それでも一時間はかからないはずだ。場所も学校に近そうなので、往復、大してかからないだろう。尚之には事情を話して、時間をずらしてもらえば良い。練習室は遅くまで開放されているし、女子と違って下校時間をうるさく言われることもない。

「いえ、大丈夫です。その時間に伺いますと、先方にお伝えください」 

 信乃夫がそう答えると、田内は満足げに笑んだ。

 そして、今日である。 授業の合間に尚之を捕まえて事情を話し、時間をずらしてくれるように頼むと、まだ試験まで間があるし、そのまま採用となって「早速今夜から」となるかも知れない。それで日を改めることになった。 尚之には洋灯亭の閉店は話したが、学費の件で苦労しそうなことは話さなかった。すぐに次の仕事が決まれば問題ないからである。

「そうか、すぐに次が決まりそうで良かったな?」

「うん。紹介してくれたのは素性のしっかりした人だから、それなりの店だと思うんだよ」 

 信乃夫は田内からもらった名刺を見せた。

「この銀行はうちの親戚と古くから取引のあるところの一つだ。へえ、この田内って人は貸付主査か。そりゃ、顔も利くだろう」 

 尚之は日本でも有数の財閥の一族である。親戚と言うからには、その財閥を指すに違いなく、そこと長年の取引があると聞けば、紹介される新しい仕事先の信用度は増す。カフェーの、それも夜の仕事は胡散臭いところもある。常連で顔を見知っていても、昨日今日口をきいたばかりの相手に少し警戒していた信乃夫だが、尚之のその言葉で面接を優先して良かったと思った。

「面接くらいなら、それほど時間はかからないかも知れんな? 場所は近いのか?」

「ここからそんなに離れていないみたいだ」

 紙片の住所を見て「なるほど」と尚之は頷いた。

「今日は六時くらいまで練習室に居るつもりだから、終わったら来ればいい」

「そうだな、多分来れると思うよ」

 てっきり面接は働く店で行われると思っていた。しかし指定された場所にそれらしい店は見あたらず、道を尋ねた通りすがりの人から教えられたのは、一旦は通り過ぎた『料亭』だった。

 信乃夫は水商売の一端で働いているので、場所柄の諸事情には少しばかり通じていた。調べれば紙片に書かれた所番地はどう言う立地か気づいたことだろう。よくよく確認しなかったのは急な話だったことと、新しい仕事を早く決めたいと言う焦りがあったからだ。それでもただの料亭かも知れないと中に入ってみたのだが、果たして通された座敷には、仕事の面接をするには相応に過ぎる料理と酒が用意されていた。

 座に着いて半時間ほど経つが、一向に仕事の話には至らない。最初のうちでこそ、音楽学校でピアノを専攻している学生であること、好きな音楽などの話はしたが申し訳程度で、あとは田内が相手の男を太鼓持ちよろしく持ち上げ、一人喋っている状態であった。

 床の間を背にした上席に座る男は「浅野」と名乗った。貿易商として日本のみならず上海や満州にも事務所を構え、手広く商売をしているらしい。もっぱらそう言った情報は田内が話し、浅野は一言二言相槌程度に口を挟む以外は黙ったままである。

 時折、信乃夫は彼の視線を頬に感じたが、素知らぬふりを通した。この段階にくれば、もう面接は口実であることは確かだった。下手に目が合ってしまったら、浅野の目の奥に潜むものを見て、嫌悪感を顔に出してしまうかも知れない。

「池辺さん、酒が進んでいないんじゃないかね? 飲めない口ではないだろう?」

 杯を空けろと言わんばかりに、田内が徳利を持った。

「いえ、もう。この後、学校に戻ることになっているので」

 信乃夫はさりげなく杯を遠ざける。言われるままに杯を空けたら、どうなることか。仕事の話にならないのであれば、長居する理由はない。「学校に戻る」と牽制して、頃合を見計らう。

「そうか、学校にね。それじゃあ、早く話の片をつけてしまわないと行けないねぇ。どうですかな、浅野さん?」

 田内は浅野を見る。

「気に入った、田内さん。良い人を紹介してもらった」

 浅野は目を細めて、あらためて信乃夫を見た。好きになれない表情だ。こんな表情をする人間に碌な奴はいない、すぐ様断った方が良い…と、またしても警告する声が頭の中で聞こえた。

「良かったね、池辺さん。どうやら雇ってもらえそうだよ。これであんたも力仕事なんて似つかわしくない仕事を探さなくて済む。さあ、話も纏まったことだし、最後に一杯。祝いの印だと思って」

 田内はそう言うと、信乃夫の杯に残っている酒を別の器に移し、空にしたそれを差し戻した。二人の目が信乃夫を見つめている。

「申し訳ありません、このお話はなかったことに」

 と信乃夫が言うや否や、向かいに座る田内の手が伸び、顎を掴んだ。開いた信乃夫の口に徳利の酒を容赦なく注ぐ。何がどうなったのか咄嗟のことで、田内の手も徳利の酒も躱せなかった。徳利が空になり、田内は顎から手を外すと同時に突き飛ばした。後ろに倒れそうになるのを堪えた信乃夫だが、酒に咽て咳き込むことは止められない。

「可哀想に、何て乱暴なことをするんだ。大丈夫かい?」

 肩を抱いて背中を摩るのは浅野だ。

「きれいな子だ。いずれ戦争に取られるかと思うと、堪らない気持ちになる。でも安心しなさい。私は軍部にも顔がきく。悪いようにはしないから」

 頬を撫でられて、その感触にゾッとする。信乃夫は身体を捩って彼の手から逃れた。

 受けきれずに口から酒は零れたが、半分ほどは喉を下りて行った。純粋な酒とは違う後味があり、一服盛られたのではと疑う。

 口元を拭いながら立ち上がると、浅野も立ち上がり、前に立ちはだかった。田内も加勢とばかりに浅野のすぐ後ろに立ち、信乃夫が隙を突こうと右に左に身体の重心を移動させるのと合わせて、彼も身体を揺すって浅野の隙を補うが、楽しんでいるようにも見える。

 そうこうするうちに、信乃夫の足がもつれ始めた。頭もくらくらする。目の前の浅野や田内が二重に見えた。動きによって酔いが回ったのか、それにしては酒の酔い方と違う。やはり先ほどの酒には何かが入っていたのだ。

「どうしたね? 酔いが回ってきたんじゃないか? 少し休んで行きたまえよ。ここは長居が当然のところだから、時間の心配は無用だよ」

 浅野の声音は優しげだった。

「ちゃんと休めるように床の支度は頼んであるからね」

 信乃夫が動けなくなりかかっているとわかって、田内はすっと隣の座敷との境に動き、引き戸を開けて見せた。ぼやけ気味の信乃夫の目にも、鮮やかな朱色の寝具だとわかる。

 腕を取られて導かれるのを、自由がままならない足では抵抗出来ようはずもない。瞼が重くなって、視界はどんどん狭くなる。自分が歩いているのか止まっているのかさえ判断出来なかった。

 信乃夫の膝はついに崩折れ、柔らかな感触を頬に受ける――ふつりと意識が遠のいた。


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