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ハーモニカ  作者: 紙森けい
2/8

(二)

[ 一九四二年 十月 ]


 

 「恋情」と言うものは、何がきっかけで生まれるのだろう――信乃夫は漠と思った。

(ある日、突然自覚するものなのかな)

 相手の事が慕わしくてならなくなっていた。生まれて十八年、婦女子との接点はそこそこあったが、こんな気持ちは初めてで信乃夫は少なからず戸惑っている。

「信乃さんったら、何をぼんやりしているの?」

 容子が目の前でヒラヒラと手を振っていた。信乃夫は数度、瞬きする。自分を覗き込むように見る彼女に目の焦点が合った。

 鶴原容子は声楽専攻の同じく一年生で、出身は岡山県である。切れ長の涼やかな目元と通った鼻筋、形の良い唇に薔薇色の頬を持つ面差し、顎の辺りで切りそろえた髪をいつも両耳にかけ、男子学生と並んでも劣らない身長の彼女は、一見すると利発そうな美少年にも見える不思議な美貌の持ち主だった。本人は宝塚少女歌劇団に入ることを希望していたのだが、類稀なソプラノを惜しんだ声楽の師と、製糸業を営み地元の名士である父の大反対に遭い、やむなくこの音楽学校に進んだ。断髪は彼女の夢の名残である。「信乃はこの前の実技が散々で、追試が決まったんだ。それで頭がいっぱいなんだよ」

 容子の後方で尚之がヴァイオリンの弦を調整しながら、信乃夫の代わりに答えた。

「そう。その大変な時期に誰かさんが伴奏を押し付けてくるから、どう時間をやりくりするか、算段していると言うわけさ」

 信乃夫は尚之をねめつける。 

 尚之こと久永尚之はヴァイオリン専攻で、入学式を二人して遅刻したことが縁で意気投合。以来、試験や校内演奏会の伴奏を毎回信乃夫に依頼してくる。尚之はその年の入学者の中で、否、器楽専攻の全学生の中でも五指に入ると目される技量の持ち主だった。翻って信乃夫のピアノの腕前はと言えば下から数えた方が早いくらいで、『身分違い』も甚だしい。にもかかわらず、尚之は彼からの伴奏依頼を切望する数多のピアノ科学生には目もくれなかった。

 曰く、「信乃の伴奏は俺の演奏を邪魔しない」のだそうだ。

「腕に覚えのある人間は、どうしても独奏の弾き方で伴奏をつけたがる。その点、信乃は俺の様子に上手く合わせてくれるからな」

 それは日銭稼ぎのカフェーで毎晩、お抱え歌手の伴奏をしているからだろう。薹の立った『歌姫』は気分に左右されて、夜毎に調子が違う。良い時にはその魅力が十分引き出されるように、悪い時は少しでも聴き映えするように腐心することを要求された。客は歌を聴きにくる。ピアノはその歌より決して目立ってはならない。時節柄、ピアノの演奏で雇ってくれるところは皆無になりつつあった。懐具合の厳しい苦学生であるが、指に負担のかかる仕事は極力避けたい信乃夫にとって、今の店をクビになりたくはなかった。おかげで歌手のみならず、客からのどんな曲の要望にも即座に応じられるが、同時にクラシックの独奏者向きではないタッチだと言える。尚之の言は、信乃夫にそれを痛感させた。

 尚之から初めて伴奏を頼まれた時には気軽に引き受けた信乃夫だが、すぐに自分とは次元の違う高みに彼がいることを知った。他からの「なぜおまえが」の視線を感じもした。

 女子学生は試験や校内演奏会の日程が出ると、さりげなくアッピールをしているようだが、尚之は気づかない振りをして、信乃夫にさっさと頼んでしまうのだった。

「女子に頼んだら、あとあと面倒なことになりかねない」

 尚之は某財閥に連なる上流の出自である上に、男振りもすこぶる良い。とかく音楽をする男子は心身共に軟弱な印象を与えるが、尚之は身長が五尺八寸(約176センチ)あり、ヴァイオリンと並行して幼い頃から剣道も嗜んでいたので、兵学校出並の体格に恵まれていた。その上に眉目秀麗、どことなく育ちの良さを感じさせる所作とあっては、女子学生の憧憬を集めぬはずがない。誰か一人に伴奏を頼もうものなら、信乃夫が引き受ける以上に羨望が火花となって散ることになるだろう。尚之はそれを言っているのである。

 また信乃夫自身が尚之同様、女子達の憧憬の対象であり、風当たりが強くないことも理由の一つであった。

 尚之が剛に近い美丈夫であるなら、信乃夫は麗と評するに相応しい、映画スタアに引けを取らない二枚目であった。容子とは逆に少女に見えなくもない線の細さは怜悧な眼光が補い、それでいて飄とした物腰に気安さを感じさせる。襟足の長い髪などを見るに、信乃夫こそ軟弱に分類される音楽学生ではあったが、人当たりの良さで敵視される率は低かった。

「私も信乃さんに伴奏を頼みたいのに」

「よしてくれ。容子の伴奏などしようものなら、尚之以上に嫉妬の目に晒されるのが見えてる。男にも女にも」

 宝塚少女歌劇団の男役とも見まごう凛凛しい容子には、女子学生の取り巻きが少なくない。

「容子には佐橋嬢と言う『専属』がいるだろう? 追試に、俺の伴奏に、慰問。これ以上負担をかけて、信乃を留年させたいのか?」

「ひどい言い草だな、尚之」

 笑い声が練習室に響いた。負担の最たるものが尚之の伴奏であるのだが、それは言わずにおく。

 尚之が言った「慰問」と言うのは、この三人でトリオを組み、病院や学校、勤労奉仕で一般人が動員されている工場などに出向いて、演奏を披露することである。信乃夫と尚之の二人で始めたのだが、慰問に行った先の病院でたまたま知人の見舞いに来ていた容子と出会い、飛び入りで歌った。以来、仲間に加わったのだ。

 乞われれば井戸端的な路地裏にも出かけていく。ピアノやオルガンのある方が稀で、信乃夫は学校からアコーデオンを借り受けた。演奏する曲は様々で、クラシックもあれば世俗曲もある。子供が親しめる童謡や、少女歌劇団の演目をオペレッタ風にして披露することもあった。

 授業と勤労奉仕の時以外、ほとんど三人は一緒だった。年頃の男女で行動する限り、特別な感情が生まれるのは自然の流れだったが、この三人に関してはそのような生臭い素振りは微塵も見られなかった。この不穏で暗い時代にあって、音楽を通して結びついた同志の関係。それが空気感となって醸し出されているせいか、周りも取り立てて眉を顰めることはなかった――が、しかしである。信乃夫は自分の中に、二人のうち一人に対して不可思議な感情があることに気づいた。

 一緒にいる時間は視界の中に必ず姿を留めてしまう。授業などで離れている間、校内に視線を走らせ探してしまう。思考の余地があると、その表情を思い出してしまう。自分に向けられる笑顔を心地よく感じ、見つめられると胸の奥が熱くなった。

「それはおまえ、あの娘を好いているんだろうよ」

 長兄が次兄に言った言葉を思い出す。前後の会話はほとんど覚えていないが、朧げに次兄が「幼馴染の少女が気になってしようがない」と言っていたと記憶する。何にせよ長兄のその言葉だけが鮮明に蘇えった。

(まさか)

 そう思ったのは、信乃夫の気になってしようのない相手が、美しく快活な異性の容子ではないからだ。

「どうした、信乃? 本当に『ぼんやり』だな?」

 容子に代わって、今度は尚之が信乃夫の傍らに来ていた。さすがに覗き込む仕種はしなかったが、彼の大きな手が信乃夫の目の前の楽譜に触れるのを見ると、頬に熱が上った。

 二から一を引くと残りは当然、「一」になる。

「信乃? 追試の課題が大変なら、俺の方は他に頼むぞ?」

「いや、すまない、何でもないよ。大丈夫、課題の方はそれほどでもないから」

「それなら良いけど」

 尚之の伴奏を、他の誰かに譲りたくなかった。伴奏合わせは、二人だけで共有する唯一の時間だからだ。聴衆も容子もいない。誰にも邪魔をされず、ただヴァイオリンのために――尚之のためだけにピアノを弾く時間。それが実は掛け替えのないものだと、信乃夫はつい今しがた突然に自覚したのだった。


『それはおまえ、尚之を好いているんだろうよ』


 長兄の声が再び耳の中で響いた。「あの娘」は「尚之」に読み替えされている。

 「好いているんだろうよ」が友情なのか恋情なのか、信乃夫はまだ確信が持てずにいた。


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