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「お兄様、少しお時間を頂いてもいい?」
「ああ、もちろんだよ。どうした? 入っておいで」
ドアをノックして顔を覗かせると、書斎机の前に座ったお兄様は優しく微笑んでくれた。
ほっと息を吐いて部屋に入り、ドアを閉めると辺りを見回して誰もいないことを確認する。
「心配しなくても誰もいないよ、エリカ。ひょっとして、何か秘密の相談事かい?」
くすくす笑うお兄様はとてもくつろいで見えて、これから話すことが申し訳なくなってしまう。
ここ最近はいつも難しそうなお顔をしていらしたのに、何か気になっていた問題が片付いたのかしら。
だけどこの機会を逃すわけにはいかないわ。
「お兄様、あの、お訊ねしたいことがあって……」
「うん、何だい? 私でわかることなら答えてあげられるよ」
「ええ。ありがとうございます。その……大したことではないんですけど、お父様のことで……」
書斎に設えられた応接ソファに勧められて座ると、お兄様は向かいのソファに腰を下ろした。
その表情は気軽さを装っているけれど、ためらいがちに口を開いたわたしの言葉を真剣に聞いてくれているのがわかる。
「父さんがどうかしたのかい?」
「いえ、どうしたと言うか……お父様は……バルエイセンにいらっしゃったことはあるのかしらと思って……」
「バルエイセン? ……うん、そうだな。正確にはわからないけれど、何度かはあるはずだよ」
「それはいつ頃ですか?」
思わず身を乗り出すと、お兄様は少し驚いたみたいに眉を上げた。
だけどそれには触れず、考えてくれる。
「一番最近でも、もう二十年ほど前になるかな。妃殿下のお輿入れに際して、バルエイセンまでお迎えに行ったときだよ」
「二十年ほど前……」
その頃、ジェラールお兄様は三歳くらいよね。そしてその四年後にわたしが生まれて……。
うむむ。でもまさか、お父様に限ってそんな……。
「エリカ、気になることがあるなら、思い切って言ってごらん。もちろん誰にも言わないから」
悶々と悩んでいると、お兄様が優しく促してくれた。
お兄様が秘密を洩らすとはもちろん思っていないけれど、呆れられたりしないかそれが心配。
淑女として口に出すべきことじゃないもの。
それでも……やっぱり……。
「お兄様、あの……お父様とお母様が仲違いされていた時期とかありますか? 今はとてもとても仲が良いとは思うのですが……」
「仲違い? どうかな……。そりゃ、結婚してもう三十年近くになるし、色々あっただろうけど、特に目立って仲が悪かった時期なんてなかったと思うが……」
「そうですよね……」
どう考えてもおかしな質問なのに、お兄様は真面目に答えてくれる。
もうここまで聞いてしまったんだもの。あと少し踏み込んでしまえばいいのよ。
「お兄様、あの……お父様は浮気をしたことがあるのでしょうか?」
「何だって?」
「たとえば、愛人がいたとか、お母様以外にも好きな人がいたとか?」
「待て待て待て、待て! エリカ、いったい何を言い出すんだ!?」
わたしの思い切った質問はお兄様をすごく動揺させてしまったみたい。
だけどここで引くわけにはいかないわ。
「お父様が浮気っぽいのかどうか、お母様に一途なのかどうかを知りたいんです」
もう一度はっきり質問すると、お兄様は口を開きかけて閉じ、じっとわたしを見つめた。
その視線に居心地が悪くてつい目を逸らしてしまう。
「私が知る限り、父さんは母さん一筋だよ。エリカも知っているだろう? 二人は両家の親同士で決めた縁談ではあったけれど、顔合わせでお互いに一目ぼれしたんだから」
「……知ってるわ。何度もお母様から聞いたもの」
「うん、そうだね。エリカはよくその話を母さんにしてもらっていたね。だから、エリカが何を思ってそんなことを……ひょっとして、バルエイセン絡みで誰かに何か言われたのかい?」
ため息混じりにわたしを諭してくれていたお兄様は、何かに気付いたようにはっとした。
続いた質問は核心に迫っていて、わたしも素直に頷く。
ここで誤魔化しても仕方ないものね。
「実は、先日の文化祭で、元同級生のフェリシテ・ベッソンさんに再会したのですが――」
「フェリシテ・ベッソンがまた何か仕掛けてきたのか?」
「え? お兄様もフェリシテさんをご存知なのですか?」
「ああ。彼女については殿下から知らせて頂いたよ。母さんの耳には入れていないが、トムにも伝えてある」
今まで知らなかった事実にびっくり。
でも確かにあのときから、トムの他にも御者台には護衛が座るようになったのよね。
「ただ、彼女の目的がわからないんだ。あんな行動に出れば、ベッソン商会にとってまずい立場になるのはわかりきっているだろうに……」
「お兄様……これはわたしの勝手な推測なんですけれど、フェリシテさんの行動にベッソン商会は関係ないと思います」
「関係ない?」
「ええ。フェリシテさんを動かしているのは、個人的な感情――わたしに対する憎悪なんだと思います」
「憎悪? エリカに? まさか……。大事になれば、商会取り潰しどころか命さえも危うくなるんだぞ」
理解できないとばかりにお兄様は首を小さく振る。
おっしゃる通り、普通では考えられないと思うわ。
だけどこれは女の勘とでも言うべきもの。
「わたし、ずっと考えていたんです。フェリシテさんが言ったこと、やったことを。それで、ひょっとしてフェリシテさんのお母様は、わたしのお父様のことを慕っていらしたのではないかと……」
「フェリシテ・ベッソンの母親……確か、バルエイセンのクラウゼン伯爵家の出身だったな。それでエリカは父さんがバルエイセンに行ったのか、浮気をしたんじゃないかと気にしていたのか」
「すみません……」
「いや、謝ることじゃない。エリカにはそう考えるだけの根拠があったんだろう?」
「……はい。フェリシテさんはずっとお母様の形見のペンダントをとても大切にしていました。それはお母様が心からお慕いしていらした方から頂いたのもので、その方の故郷はこのケインスタインだと。それなのに先日、もう要らないからわたしに譲ると言って、置いていったんです」
そこまで説明して、革袋に仕舞っていたあのペンダントをテーブルの上に取り出した。
ペンダントはしゃらりと音を立てて翠色の輝きを放つ。
その石を見て、お兄様は眉をひそめた。
「これは……盗魔石か?」
「そうです。フェリシテさんはこれがわたしの力になるだろうと言っていました。ですから、お父様がご自分の力を込めたこの石をフェリシテさんのお母様に差し上げたのではないかと思ったんです」
「試してみたのかい?」
「いいえ、それはできません。この盗魔石が誰の力で輝いているのだとしても、フェリシテさんのお母様の大切な想い出ですので」
「そうか。うん、そうだな……」
お兄様は深く頷くと、手を伸ばしてペンダントの鎖を掴んだ。
そして目の高さまで持ち上げて小さく揺れる石をじっと見つめる。
「たとえ彼女の母親が父さんのことを好きだったのだとしても、エリカを憎むなど逆恨みにも程がある。しかもそんな理由でエリカに害を為すなど許せないな」
お兄様の静かな声には怒りが含まれている。
それはわたしをいつも守ろうとしてくれるお兄様らしい怒り。
だけどわたしは素直に受け止めることができなかった。
フェリシテさんはきっと、殿下のことが本気で好きだったから。
とても恵まれた立場にありながら、その自覚もなく勝手気ままにしていたわたしへの怒りが憎しみに変わったのかもしれない。
そんなことを考えているとお兄様の小さなため息が耳に入り、はっと我に返った。
同情なんてしてはダメよ。酷いことだってされたんだから。
「盗魔石についての研究内容が彼女に知られているってことは、やっぱり機密が洩れているようだな。まったく……。まあ、とにかくこれは父さんに一度見せるべきだよ」
「ですが……」
「心配しなくても大丈夫だ。きっと何か新しいことがわかるんじゃないかな。もちろん母さんには秘密だぞ」
「そうですね。お母様に心配はかけられませんもの」
ちょっとためらったけれど、お兄様の頼もしい言葉に大きく頷いて同意した。
するとお兄様はなぜか苦笑する。
「確かに母さんは心配性だし、普段はおっとりしていてか弱く見えるけれど、家族を守るためなら誰よりも強くなるんだよ。だから暴走しないように止めるほうが大変なんだ」
「本当に?」
「ああ。でも私が言っていたことは絶対に内緒にしてくれよ。怖いからね」
「あら……」
意外なお母様の一面に驚くわたしに、お兄様はさらに付け加えた。
それがおかしくて笑うと、お兄様も一緒になって笑う。
「なんだか久しぶりにおじいさんから聞いた話を思い出したな」
「どんなお話ですか? おじい様のことも教えてください」
おじい様もおばあ様もわたしが生まれる前に亡くなってしまわれたから、二人のお話は興味津々。
お転婆だったおばあ様も、幼馴染だったおじい様と結婚されてからは、すっかりお淑やかになったのよね。
これはトムから聞いた話。
「若い頃の父さんはかなり無鉄砲だったらしいよ。採掘師たちと暗黒の森に入ったりして、おじいさんにずいぶん心配をかけたようだ」
「暗黒の森!? お父様が!?」
「そうなんだ。だから盗魔石のこともあながち疑えないだろう? まあ、父さんも母さんと結婚してからは落ち着いたらしいが……。無鉄砲なところはおばあさんに似たんだろうな。幸い、私たち兄妹にはおばあさんや父さんの無鉄砲さは似なかったようだがな」
「……そうですね」
ここに殿下がいなくて良かったわ。きっとお腹を抱えて笑われたもの。
目の前の優しいお兄様の微笑みよりも、殿下の笑顔を思い出してちょっとそわそわしてしまう。
とにかく、デュリオお兄様に相談してよかったわ。
フェリシテさんの気持ちも本当のところはわからないけれど、わたしだっていつまでも理不尽な悪意を受けているつもりはないもの。
これからはもう受け身にはならない。負けないんだから。




