85
「ねえ、エリカ。あの噂、聞いた?」
「何のこと?」
「陛下のお加減があまりよろしくないとか……」
「ああ……うん。お母様から聞いたわ。すごく心配よね」
「本当にね。今、陛下にもしものことが……いえ、そんなことはあり得ないでしょうけど、でもね、万が一にもそうなった場合、大変なことになるわよね」
「ええ……」
心配そうに言うリザベルから視線を逸らし、持っているレティキュールを弄る。
今日はアンドール侯爵家の馬車で護衛もしっかりつけて、ルルシエヌ通りにあるカフェにリザベルとコレットさんとお出かけ。
寮へとコレットさんを迎えに行く途中でのリザベルの言葉には、嘘をついているのが後ろめたくて、平静を装うのは大変だった。
特にリザベルは鋭いし。
「ここだけの話だけれど……王太子殿下がもっとしっかりしてくださればねえ……。せめて妃殿下を抑えてくだされば、妃殿下の取り巻きもおとなしくなるでしょうに」
「そうね。でもサビーネ様を王太子殿下のお妃にと望まれたのは、陛下とわたしのおじい様や当時の首脳陣ですもの。それに、どんな方でもヴィクトル殿下のご両親だわ」
「そうだったわね。つい忘れてしまいそうになるけれど。ごめんね、エリカ。変なこと言って」
「ううん。別にリザベルを責めたわけじゃないのよ。こちらこそ、ごめんね。ただ何て言うか……殿下が一番つらいんじゃないかと思って。みんな同じような意見でしょう?」
「ああ、そうね。ご自分の存在が妃殿下派を勢いづかせているんだもの。殿下はご自身の立ち位置をあれほど明確になさっているのに」
「うん……」
わたしとの婚約は妃殿下派を抑えるため。
それでも妃殿下の力はここ最近さらに増しているらしいのよね。
結局、わたしは何の力にもなれていないみたい。
「それから、あともう一つ。これは噂というより確かな情報なんだけれど……」
「何?」
どう言おうかとためらうリザベルが珍しくて、思わず身を乗り出す。
確かなことなら迷う必要なんてないのに。
「それがね、以前から噂されていたように、妃殿下がバルエイセンから遠縁の伯爵令嬢を王宮に招かれたそうよ。それで、殿下に紹介なさったらしいわ」
「そうなの?」
「ええ、一昨日のことですって」
それは初耳。
とは言っても、リザベル以外に教えてくれる人もいないけれど。
お母様たちはたぶん不安にさせないように、わたしには黙っているんだと思うわ。
だけど、できるだけ情報は多いほうがいいのよ。
「令嬢のほうは殿下にすっかり心酔した様子だったんですって。まあ、それもどこまで本当かはわからないけれど、妃殿下たちの目的はあきらかよね」
「殿下はどう思ったのかしら……」
「もちろん相手に……は、しなかったでしょうね。本心はどうあれ、エリカとの婚約は殿下にとってとても大切なものですもの」
「……そうよね」
この婚約は政治的なもので、殿下の気持ちは関係ない。
それは為政者としては当然なのかもしれないけれど、殿下は自分のことを疎かにしすぎていると思うわ。
オーレリーさんの言う犠牲を強いられているのは、わたしではなくて殿下だもの。
だから、マティアスがいてくれて良かった。
マティアスは無神経で失礼な人だけれど、いつだって殿下の一番の味方だから。
「あのね、リザベル。殿下のためにわたしはどうすればいいと思う?」
「殿下のため?」
「ええ。わたし自身には何の力もないけれど、それでも殿下の力に少しでもなりたいの」
「……そうねえ。ちょっとありきたりだとは思うけど、エリカのその気持ちだけで十分じゃないかしら。自然とそういうのは伝わるものだし」
「うーん。そんなものかしら……」
「じゃあ、贈り物はどう? ほら、エリカも言ってたじゃない。殿下にはいつも頂いてばかりだって。だからすぐ力にはなれなくても、感謝の気持ちに贈り物を添えるのよ」
「それ、いいかも。ひとまずは何かプレゼントで気持ちだけでも伝えることができたらいいわよね」
「ええ、殿下もすごく喜ぶと思うわ」
リザベルの素敵な提案に嬉しくなる。
お見舞いにお菓子を頂いたり、お祭りでは恋の魔法石を頂いたり、指輪も預かったままだもの。
いつもお世話になっている感謝の気持ちを込めて、何か作ってみようかしら。
何がいいかとリザベルと相談しているうちに寮に着いて、コレットさんと合流。
クレファンスが予約してくれていたカフェでは、オーナー自らが出迎えてくれてちょっとしたセレモニーのようになってしまった。
まるであの離宮への旅のときのようだわ。
どうやら先日の殿下との〝お忍びデート〟の噂が大きく広まってしまっているみたい。
これはもう、諦めるしかないわよね。
帰りの馬車に乗り込むときには、たくさんの方が集まって見送ってくれて、ヴィクトル殿下の婚約者として笑顔を振りまいた。
すると、リザベルが「素敵な演技だったわよ」と褒めてくれたけれど、その言葉にオーレリーさんの言葉を思い出してしまった。
でも演じることは苦じゃないもの。
それでみんなが、殿下が喜んでくれるなら、わたしも嬉しいから。
きっと大丈夫。この先も頑張れるわ。
* * *
「もうすぐだわ……」
「そうね。準備は万端。あとはオープンを待つだけでしょう? エリカは頑張ったもの。大丈夫よ」
文化祭当日、実行委員としてチェックを済ませ、最後にもう一度教室内を見まわす。
いよいよ始まるというのに、何か忘れていることはないかとそわそわしてしまう。
そんなわたしをリザベルが励ましてくれて、ちょっと落ち着くことができた。
室内装飾は女子が意見を出し合って、業者の方に頼んだからかなり満足。
ただ隅に置かれたパーテーションは少し不自然なのよね。
実は近衛隊からどうしてもと言われて設置した物で、裏には近衛騎士が待機している。
今日に限っては学院内に誰が入ってくるかわからないから、さすがに殿下とユリウスさん、ついでにマティアスとわたしには護衛が必要だと決まったらしい。
ちょっと無粋だけれど、仕方ないわね。
このカフェのシステムは時間制で一斉入れ替え制。
一つのテーブルに一人のお世話係が付くけれど、どのテーブルにお客様が座れるかは入店の際に引くクジで決められる。
だから目当てのお世話係に付いてもらうには、何度も入店してもらわないといけないかもしれない。それはクジ運次第ね。
「でも予算内に収まって良かったわね」
「ええ、まさか茶器一式が借りられるなんて思っていなかったもの」
世の中には色々な商売があるのねなんて話しているところに、コレットさんがやって来た。
裏方のコレットさんは準備段階から力を発揮してくれて大助かり。
今日は準備室として使う自習室で作業してくれる予定。
「エリカさん、リザベルさん、始まったみたいです。しかもすごい勢いで来場者が校舎に向かっていますから、きっとここに押し寄せてきますよ」
校門がよく見える自習室からわざわざ教えに来てくれたみたい。
オープン時を「豪華メンバーで迎えよう」と提案したのは裏方に回った男子。
特に反対もなかったので、男子メンバーはヴィクトル殿下、マティアス、ユリウスさんの三人。女子はリザベル、クラリスさん、フローラさん、わたしの四人でテーブル七席を担当することに。
さて、わたしの最初のお客様はどんな方かしら。
どきどきして待っていると、どどどと足音が聞こえてあっという間に教室前には行列ができた。
上手くお客様を誘導してくれたのは、整理券を配ることを提案してくれた男子。
彼のお家はいくつものお店を経営をしているらしくて、こういうことには慣れているんですって。
この小さなカフェを企画運営するのは思った以上に大変だった。
だけど、たくさんの人に助けてもらって、どうにかここまで準備することができたのよね。
きっと国を運営するのはもっともっと大変なはず。
それでも殿下は逃げることもできないんだわ。――なんて考えているうちに、第一陣が入ってきた。
今はとにかく頑張らないと。
初めてのお客様は女性三人のグループ。
お母様ぐらいのお年のとてもお淑やかな方たちだけれど、どうやって一番手になれたのかしら。
とにかく緊張しながらも失敗することなく給仕ができてひと安心。
それからは目まぐるしくお客様のお相手をしているうちに、一回目の当番は終わった。
次はお昼前にもう一度。午後に二度の予定。
お客様とは一緒に席に着くことはないけれどお話はたくさんできたから、徐々に緊張も解けて楽しめるようになった。
お昼前の当番の後はお母様とデュリオお兄様がいらしたので八席目に座ってもらう。
ここはみんなのご家族のための席で、当番以外の時間に自分で担当する決まり。
二人が来てくれたのは嬉しいけれど、お茶ならお家でいくらでも淹れてさしあげるのに。
それにお兄様のお仕事は大丈夫なのかしら。
少し遅くなったお昼休憩にはリザベルと食堂で頂いた。そしてクラス控室になっている会議室に向かう。
わたしの護衛にはレオンスお兄様がついてくださっているけれど、それでもたくさんの人に声をかけられてなかなか休めないのよね。
だから今日はラウンジでの珈琲は中止。
そこに隣のクラスのルナさんが駆け寄って来た。
「エリカさん、大変です!」
「どうしたの?」
「殿下に……殿下に悪い虫がついてます!」
「悪い虫?」
意味がわからずリザベルと顔を見合わせると、お兄様が小さく吹き出した。
「お嬢さん、ヴィクトル殿下には二人も近衛がついているんだ。女性がそう簡単には近づけないよ」
「でも見たんです。あ、いらっしゃったわ!」
興奮したルナさんの声に振り向けば、笑顔の殿下がゆっくり向かってくる。
その腕にべったり引っ付いているのは虫ではなく、若い女性。
たぶんわたしと同じくらいの年齢だわ。
それにしても、このフロアは関係者以外立ち入り禁止なのに。




