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「おはよう、エリカ。昨日は楽しかったみたいね?」
「え? ええ。おはよう、リザベル。どうして知っているの?」
「だって、もう噂になっているもの。わたしは今朝、侍女から聞いたわ」
「侍女から? いったい何を?」
昨日の出来事をリザベルに聞いてもらいたくて、少し早めに登校したのに。
まさか逆にびっくりすることを聞かされるなんて。
いったいどんな噂なの?
「殿下と婚約者のエリカ様がお忍びで街に遊びに来ていたって。しかも横柄な貴族をやっつけたとか」
「やっつけた?」
「ええ。街の人たちの間では、そうなっているみたい。それで、さすがはヴィクトル殿下とエリカ様って、みんな喜んでいるらしいわ。夕方にはもっと派手な勧善懲悪物語になっているんじゃないかしら」
「全然違うのに……」
きっとあの時、わたしが余計なひと言を言わなければ、アマリーさんが男爵をたしなめていたと思う。
そうすればこんな噂にはならなかったわよね。
「あのね、リザベル。殿下はどうやら好きな人がいるらしいの」
「あら……」
「それなのに、殿下とわたしがお忍びで街に出かけていたなんて噂が広まったら、本物の婚約だと思われてしまうわ」
「本物の婚約でしょう?」
「そうだけど、でも……殿下に好きな人がいるのなら、このままではダメよ」
「どうして?」
「どうしてって……だって……」
昨日のもやもやがまた胸のあたりに滞る。
リザベルに話せばすっきりすると思ったのに。
「エリカも好きな人が――ギデオン様がいるわよね? エリカは良くて、殿下はダメなの?」
「ち、違うわ。そうじゃなくて、あの、もし殿下の好きな人が同じように殿下のことを好きだったら傷付くでしょうから……」
「そうねえ。でも、望みのある相手なら、殿下はこんな回りくどいことはしないと思うわ」
「それって、殿下の片想いってこと?」
「……たぶんね。でもそんなに気になるなら殿下に直接訊いてみたら?」
「無理よ!」
「あら、どうして? エリカは婚約者なんだから、それくらいはいいと思うわ」
「そんな……個人的なことには踏み込めないわ」
「そう? ならまあ、殿下のことをよく見ていたらどう? とってもわかりやすいから」
「ええ? ひょっとして、リザベルは知っているの?」
「まあ、だいたいはね」
「だ、誰?」
「あら、それは個人的なことでしょう? わたしからは言えないわ」
「この学院の子ってことよね?」
「さあ? それはどうかしら……」
「ええ……」
気になる。すごく気になるわ。
だって、まさか殿下が片想いをしているなんて。
でも殿下に訊くなんてできない。
うむむむ……。あ、そうよ。そうね。
このもやもやは殿下の好きな人が気になるからなのよ。
うん。間違いないわ。
そう思い至った途端、少し心が軽くなったみたい。
殿下の好きな人がわかれば、すっきり気分になれるはず。
「じゃあ、今日からさっそく殿下を観察してみるわ」
「……自業自得とはいえ、不憫だわ」
「え? 何て言ったの?」
「ううん。それで、カフェはどうだったの?」
「もちろん、すっごく楽しかったわ!」
それからはカフェの話で盛り上がった。
リザベルも行ったことは一度もないらしくて、興味津々。
教室に入っても話を続けていると、そこにユリウスさんが近づいてきた。
「昨日、ヴィクトル殿下と街にあるカフェに行ったらしいね? 僕も誘ってくれたらよかったのに」
「あら、ユリウス殿下。そんなことをなされば、馬に蹴られてしまわれますわよ」
「それもそうだね。では、リザベルさん、今度一緒に行ってみないか?」
「いいえ。遠慮いたしますわ」
「そうか。残念だな」
にっこり笑ってきっぱり断ったリザベルはさすがだわ。
わたしが応える間もなく、ユリウスさんはあっさり引いた。
予鈴が鳴って席に戻るユリウスさんに、すかさずデボラさんが声をかける。
「ユリウス殿下、よろしければわたしたちと行きませんか? 素敵なカフェを知っておりますの」
「そうだね。じゃあ、次の休みはどう?」
おお。さすがデボラさん。
すごく積極的。こういうの確か〝肉食系〟って言うのよね。
ユリウスさんとデボラさんたちを見ながら感心していると、殿下がマティアスと教室に入って来た。
途端に殿下と目が合ってしまう。
でもここで目を逸らしたら負けよ。
しっかり観察するんだから。
そう決意したばかりだったのに、殿下に柔らかく微笑みかけられて「おはよう」と口の動きだけで言われたものだから、つい目を逸らしてしまった。
だって、心の準備ができていなかったんだもの。
意地悪な笑みには耐性ができたけれど、優しい微笑みはまだ無理みたい。
うむむむ。よし。ちょっと急だけれど、ギデオン様の研究室にお邪魔してみようかしら。
昨日、カフェに行ったことで、いくつか問題点がみつかったのよね。
もちろん、ギデオン様とリザベルの都合を訊いてから。
さっそく机から便箋を取り出して、ギデオン様にこっそり手紙を書く。
授業が終わったらリザベルに訊いて、校内配達にお願いしないと。
「――ギデオン様は何て言ってらしたの?」
「大丈夫ですって。放課後、楽しみに待ってるって」
「良かったわね」
「ええ」
お昼休みに入ってすぐに届いたギデオン様からのお返事にほっとひと安心。
わたしの独りよがりな失恋だから、気持ちを知られたわけじゃないものね。
ギデオン様とお話すればきっと色々すっきりするでしょうし楽しみだわ。
「エリカさん、今ちょっといいかな?」
「え? ええ」
リザベルとラウンジで珈琲を飲んで教室に戻る途中、久しぶりにオーレリーさんから声をかけられてびっくりしてしまった。
今日の放課後、ギデオン様にお会いすることで何か言われるのかしら。
でも別に、悪いことはしていないわよね?
「じゃあ、エリカ。先に行ってるわね」
「あ、うん」
「申し訳ないね、リザベルさん」
「いいえ。では失礼いたします、オーレリーさん」
気を利かせて去って行くリザベルを見送ると、オーレリーさんはすぐ近くの自習室のドアを開けた。
その部屋は誰もいなくて二人きり。
わたしはかまわないけれど、オーレリーさんにしては珍しい行動にちょっと戸惑ってしまう。
そのオーレリーさんは、廊下から一番離れた窓際の席の椅子を引いてくれた。
「ありがとうござます」
わたしがお礼を言って座ると、オーレリーさんは向かいの席に座った。
几帳面で真面目なオーレリーさんらしくてちょっとおかしい。
殿下はいつも机に腰掛けるか、窓枠に寄りかかったりしていたもの。
「本当はこんな形じゃなくて、きちんと話をするべきなんだが、どこまで……誰が知っているのかわからないので、ここで許してほしい」
「……何をですか?」
「お礼を言いたくて」
「お礼?」
「兄のギデオンを救ってくれたのは、エリカさんだろう?」
「――ま、まさか……何を言っているのか……」
「いや、誤魔化しはしないでほしい。もうわかっているから。皆に言いふらすつもりもない。ただどうしても感謝の気持ちを伝えたくて……言葉では表せないほどではあるが、それでも……本当に、ありがとう」
「オーレリーさん……」
オーレリーさんは声を詰まらせながらも言葉を継いで、椅子に座ったまま深く頭を下げた。
こんなふうに感情をあらわにするオーレリーさんは初めてで、何て返せばいいのかわからない。
そんなわたしを見て、顔を上げたオーレリーさんは表情をふっと緩めて微笑んだ。
「それにしても、エリカさんはわかりやすすぎるよ」
「え?」
「さっきの否定。慌てて否定してたけど、顔に全部出てたよ」
「ええ?」
殿下やリザベルにいつも言われていることをオーレリーさんにまで指摘されるなんて、よっぽどなんだわ。
恥ずかしくてかっと頬が熱くなる。
その熱を冷まそうと両頬に手を当ててみたけど、あまり効果はないみたい。
「そうしていると、正等科の時のお芝居で演じたエリカさんとはあまりにも別人で驚くよ。でも、今のエリカさんが本物のエリカさんなんだろう。ようやく気付くなんて、兄の言う通り、僕はまだまだ未熟だな」
オーレリーさんは首を振りながら残念そうに笑った。
そして立ち上がると、わたしへと手を貸して立たせてくれる。
そのまま出口へ向かうと思ったのに、オーレリーさんは動こうとしない。
「この先、エリカさんは本当の自分を隠して演じ続けないといけないだろう。そしてそれはエリカさんに苦しみをもたらすことになる。だから……僕はできる限りエリカさんの力になるよ」
「オーレリーさん?」
「家督はこのまま僕が継ぐことになったんだ。それは要するに、僕の意思が侯爵家の意思となる。もちろん、このことに関しては僕と家族の意思に相違はまったくないが……。レルミット侯爵家はエリカさんに心からの忠誠を誓うよ」
そう宣言すると、オーレリーさんは片膝をついて、握ったままのわたしの手にキスをした。
あまりの出来事に、一瞬ぽかんとしてしまったわたしはかなり間抜けな顔をしていたと思う。
だけどすぐ我に返って手を引いた。
「オーレリーさん、わたしはそのようなつもりで――」
「エリカさんがどのようなつもりでも、僕の意思は変わらないよ」
わたしの狼狽にも気にした素振りは見せず、オーレリーさんはゆっくりと立ち上がった。
「ヴィクトル殿下はとても賢い選択をしたと思う。だが身勝手だ。これからエリカさんにどれだけの犠牲を強いるのかわかっているはずなのに。近いうちに王宮は――」
「いいえ。殿下はとてもお優しい方です。この婚約もわたしが望んだものなのですから、どうか殿下を悪く思わないでください」
わたしのせいで殿下に悪感情を持ってほしくない。
その気持ちをきっぱり告げると、オーレリーさんはちょっと驚いたような顔をして、それから苦く笑った。
「申し訳ない。少し誤解していたようだ」
「そのような謝罪は……」
言いかけて、廊下にたくさんの人がいることに気付いた。
その中には殿下とマティアスもいる。
「ちょっと目立ってしまったようだな」
なぜかオーレリーさんは楽しそうに呟いて出口に向かい、ドアを開けてくれた。
わたしは応えることもできなくて、真っ直ぐ前を向いて歩くのが精いっぱい。
そこに殿下がすっと近づいてきた。
「オーレリーとは有意義な話ができたようだね?」
「え、ええ……」
「エリカさん、時間を取ってくれてありがとう。殿下、失礼いたします」
「ああ」
「わたしのほうこそ、ありがとうございます。オーレリーさん」
殿下が微笑みながら声をかけてくれたおかげで、なぜか後ろめたかったわたしはほっとしてしまった。
何も問題はないのよね。
でもそれはそれで何かすっきりしない。
「殿下、あの……」
「うん、何?」
「いいえ。何でもないです」
うむむむ。胸がまたもやもやしてきたわ。
お昼に何か悪いものでも食べたのかしら。




