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「エリカ、今日のあなたの噂もおもしろいわよ」
「なに? また先輩?」
「それはもう古いわよ」
「古いって……昨日のことなのに?」
「だって、今日の噂の方が衝撃的だもの。殿下がエリカをお茶に誘ったって。しかもそれをエリカが断ったって?」
「……なんなの、この学院。怖いんですけど」
「で、事実なの?」
「事実と言えば、事実だけど……」
朝一番、席に着くなり聞かされたリザベルからの〝今日の噂″に、もう驚く気力もなくぼそりと応えた。
でもわたしにはわかるわ。周囲のみんながわたし達の会話に聞き耳を立てているのが。
みんな他に関心事はないのかしら? 他人のことよりもっと青春を謳歌しましょうよ。
これ以上噂になるのも嫌なので小声で説明をすると、リザベルは小さく笑った。
「お二人は従兄弟同士で幼馴染でいらっしゃるから。マティアスさんは殿下より一つ年上ではいらっしゃるけれど、本当に仲がよろしいのね?」
「興味ないわ」
「あら、そうだったわね。それにしても、もったいないわ。お二人は女の子の憧れの的なのに」
「だとしても、わたしは出来るだけ関わりたくないのよ」
そもそも、二人とも顔が好みじゃないのよね。
殿下は少し濃いめの金髪で、マティアスは亜麻色の髪ではあるけれど、瞳の色は同じ琥珀色で目尻が少しつり上がってる。
そういえば、シェフェール先輩も同じ琥珀色の瞳ね。目尻は少し下がり気味で優しげに見えるけど。
まあ、貴族なんて何かしら血縁関係にあるから。
「それよりもわたしに今差し迫った問題は、このあとの魔法技学の授業よ」
「ああ、魔法技学のサムエル先生はエリカに厳しいものねえ。あの噂のせいで」
「わざとじゃないのに。あれは事故だったのよ」
言っても仕方ないけど、ぼやかずにはいられないわよね。
正等科での、あの〝レンブル″の暴走事故が、なぜか噂ではわたしが嫌いな魔法学の先生を制裁するためにやったとかどうとか。そんなわけないのに。というか、〝制裁″って怖いんですけど。
その噂のせいか、魔法技学の先生はわたしに厳しい。
ジェラールお兄様が言うには、わたしにはそれだけの魔法を発動させる魔力はあるんだって。でもちゃんと発動させる能力がないんだから宝の持ち腐れってやつよね。
決してわざと手を抜いているわけじゃないのに。
結局、いつものようにサムエル先生はわたしに厳しく、殿下とマティアスは難なく課題をこなして魔法学の授業は終わった。
やれやれ。
次はチンプンカンプンの数学。まあ、あとでデュリオお兄様に教えてもらうから気にしないけどね。
ただ、最近気付いた悲しい事実。たぶんわたし、このクラスで……いいえ、ひょっとすると、この学年で一番のお馬鹿さんかも。
一般の子達は当然成績優秀者ばかりだし、貴族の子達も高等科に進むのはやっぱり勉強が好きだったりするからで、みんな先生に当てられてもスラスラ答えているのよね。
まあ、成績が悪くたっていいけど。精いっぱい努力している結果なんだから。
それにリザベルがいてくれるもの。だから間違いなく、わたしはこの高等科で青春を謳歌できるわ。あと足りないのは恋人ね。
ということは、まず恋をしなくちゃ!
* * *
「不本意なことに、僕とエリカさんの噂がすっかりかすんでしまったよ」
「それは歓迎すべきことだと思うけど」
「だからこの際、僕と駆け落ちしてみない?」
「しないわ」
「じゃあ、僕としようよ。愛の逃避行を」
「先輩!?」
いつものようにラウンジでジェレミーの冗談に付き合っていたら、突然シェフェール先輩が現れて驚いた。
リザベルは笑顔が怖いし、ジェレミーは嬉しそうに顔を輝かせてる。
ライバル登場は物語としておもしろいものね。
「いつ、わたし達が相席を許可したのでしょうか? 本当にずうずうしくていらっしゃいますね?」
「ありがとう。〝隙あらば攻めろ″ってのがシェフェール公爵家の家訓なんだ」
「ああ、それで先輩のお相手は軽い……いえ、隙の多い女性ばかりなんですね」
「ガードが固くてトゲトゲしてる子は可愛げがないからね」
「そんなことより、今日はどういった御用件でしょうか?」
空いていた席に座った先輩とリザベルの冷えた会話に割って入ったけれど、どうして先輩はショックを受けた顔をしているのかしら。少し白々しいけれど。
ちょっと、ジェレミー。にやにやしていないで、助けなさいよ。
「用事がないと君には近寄れないってこと?」
「もちろんです」
「リザベル」
いつもより意地悪なリザベルを止めて、申し訳ない気持ちを込めて先輩に微笑みかける。
だけどそうだった。わたしの笑顔じゃ謝罪にもならないのよ。
ええっと、話を戻さないと。
「それで、何の御用でした?」
「……うん、まあいいけどね」
先輩はくすりと笑って、珈琲を一口飲んだ。
あら、ブラックですね。大人だわ。
わたしはミルクと砂糖ともに増量してもらわないと飲めないのよね。でも珈琲は好き。
「やっぱり友達は名前で呼び合った方がいいと思うんだ。親しみも持てるしね。だから昨日も言った通り、僕のことはノエルって呼んでよ」
「……では、ノエル先輩と」
「うーん……まあ、それでいいか。じゃあ、君も名前で呼んでいいかな?」
「いやです」
「残念だな。友達じゃないのなら、これから話すことは聞かせられないな。あ、ところでそっちの君の名前はなんだっけ?」
「ジェレミー・ブランショですよ。ノエル・シェフェール先輩」
「じゃあ、ジェレミー、僕のことはシェフェール先輩と呼んでくれ。野郎には名前で呼ばれたくないから」
「ええ、別にそれで構わないですよ」
先輩はカップを置くと、いきなり話を進めてしまって、気が付けば友達認定してしまっていた。
リザベルは拒絶したものの、先輩の意味ありげな言葉が気になったのか、むっと眉を寄せて考えている。
通常モードになったジェレミーは面倒そうに応えて紅茶を飲んだ。お芝居をしていない時のジェレミーは無愛想といってもいいほど口数が少ないのよね。
「……話の内容によりますわ」
「僕が一昨日、エリカ君に話しかけたのには理由があるんだ」
「わかりました。どうぞ名前でお呼びになって下さい。ノエル先輩?」
「ありがとう、リザベル君」
どうやらリザベルは好奇心には勝てなかったようで、にっこり笑って先輩と友達協定を結んだ。
わたしもすごく気になるので、早く話して下さい。
「先輩、どういうことですか?」
「ああ、うん。ちょっと待って」
そう言って先輩は小さく呪文を唱えた。
わたしにはできないけれど、この魔法は知ってるわ。周囲に会話を聞かれないための防音魔法よね。
確かかなり難しいはずなのに先輩はどうってことないって感じ。すごいわ。
「あのね、エリカ君のことは最初から楽しそうな子が入ってきたなって興味はあったんだよ。噂も聞いてね。ただ僕も節操無しじゃないから――」
「またまたご冗談を」
「リザベル君は黙ってて。――それで……要するに貴族のご令嬢の名誉を汚すわけにはいかないからね。しかもエリカ君の二番目の兄君は近衛騎士団の二番隊隊長に若くして抜擢されたほどの実力者だろう? 僕だって命は惜しいよ」
確かに、二番目のレオンスお兄様は訓練所を卒業してすぐに近衛騎士団に入団できたほどに騎士としての実力に優れているらしいわ。
でも今は隊舎に入ってしまって、たまにしか会えなくて寂しいのよね。
それにジェラールお兄様にもしばらく会っていないし。……そうだ、せっかく研究科と校舎は続いているんだもの。会いに行けばいいのよ。
「じゃあ、どうしてエリカさんに構うんですか?」
お兄様達に思いを馳せていたものの、ジェレミーの声ではっとした。
いけない、いけない。それで、何の話だったかしら?
「手紙をもらったんだよ」
「手紙?」
「そう、エリカ君からね」
「は?」
「いや、そんなに不審そうに見ないでほしいな。本当だから」
まったく心当たりのない話に、思わずぽかんと口を開けてしまったわ。恥ずかしい。
だけど先輩はリザベルとジェレミーからの胡乱な視線をものともせずに、また珈琲を飲む。
「では、その手紙を見せて頂けませんか?」
「それがもうないんだよ。開封して一度目を通すと文字が消えてしまう消失魔法が施されていたからね」
「まあ、なんて都合のいい話かしら」
「ノエル先輩、その……残念ながらわたしには消失魔法も扱えませんし、手紙も出していません」
「うん、だろうね。でも〝レンブル″の噂を聞いていたから、消失魔法については気にならなかったんだよ。ただ内容的に疑わしくてね」
消失魔法が施されていたなんて、悪戯にしてはあまりにも手が込んでいるわよね。
だからといって、先輩が嘘を吐いてるとも思えない。
なんだかとっても怖いんですけど。誰かが、わたしの名前を騙って先輩に手紙を出したってことよね?
不安な思いが顔に出ていたのか、リザベルがテーブルの上に置いていたわたしの手をそっと握ってくれた。それだけで心強い。
「ごめんね、エリカ君。怖がらせてしまったね」
「いいえ、大丈夫です。それで、どんな内容だったんですか?」
「うーん、……簡単に言えば、『話がしたいので、第一図書室で放課後待っています』って感じかな? 確かに、エリカ君は毎日待っていたよね、第一図書室で」
「ですがそれは……」
「うん、迎えの馬車をだよね。そのことを僕は知っていた。なぜなら、エリカ君とはよく会っていたから。第一図書室でね」
「え? そうなの?」
「違うのよ、ジェレミー。会っていたというより、すれ違っていたみたいなの。図書室の奥の書架で」
リザベルに勇気をもらって内容を訊いてみたら、あり得なくて驚いてしてしまった。
ジェレミーは別の意味で驚いてるけど、そこは誤解しないようにちゃんと説明しておく。
それにしてもさっぱりわからないわ。何が目的の手紙なの?
「僕は図書室に毎日通っているわけじゃないし、書架の奥が定位置になっているから、目立たないらしいね。それで、僕のロッカーに手紙を入れた誰かは知らなかったんだろう。僕とエリカ君がすでに何回か会っていることを」
「わけがわからないわ……」
「わずかながら僕の知るエリカ君は噂とはまったく違うね。だから手紙のことも、どうしようかと思っていたんだけど、今は逆に興味を持ってしまったよ」
先輩ににっこり微笑みかけられたところで予鈴が鳴った。
誰が何のために先輩に手紙を出したのかわからなくて気味が悪いけど、大丈夫。
だって、わたしには頼れる友達がいるもの。だからこの先、何があっても乗り越えられるわ!
――そう思ったのに。
午後からの授業で抜き打ちテスト。……乗り越えられませんでした。