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「先輩、これ、ありがとうございました」
「え? 急がなくていいんだから、ちゃんと最後まで読んだらいいよ」
「はい。最後まで読ませていただきました」
「本当に? 早いね」
放課後の第一図書室はやっぱり人気がなくて、でもひょっとしてと昨日と同じ書架の間に進んで行くと、シェフェール先輩がいた。
書架に寄りかかって読んでいたのはなんだか難しそうな本。
わたしの大好きな小説が並ぶ書架とは反対側の書架には、難しそうな本ばかりが並んでいるのよね。
まったく興味がなくて目を向けたことはなかったけど、そういえば何度かここで先輩とすれ違っていたかもしれない。
「ところで、どうしてそんなにこそこそしてるの?」
「それは……図書室だから……」
「ああ、確かに〝私語厳禁″だね。てっきり僕は、今朝から校内で広がっている噂を気にしているのかと思ったよ」
先輩は注意書きの張り紙を指さしてにやりと笑った。
そういえばそれもあったわね。わたしとしては、受付に座っている先生に知られないようにと気を使ったんだけど。やっぱり恋人が自分以外の異性と話しているのは、あまり見たくはないんじゃないかしら。
「ああ、別に気にしなくていいよ。あれはその場のノリみたいなものだったから」
「あの……」
「心は読めないよ。ただ、君は思っていることが顔に出るみたいだね」
「ええ!?」
驚くべき先輩の言葉に、ここが図書室だということも忘れて声を上げてしまった。
慌てて口を押さえたけれど、顔を隠すべきだったかしら。
先輩はくすくす笑っていたけど、わたしの後ろに目をやると笑いを引っ込めた。
「今日はお友達と一緒なんだね。そんなに警戒されるとショックだな」
「あ……」
振り返るとリザベルがいて、わたしもちょっとびっくり。
足音がしなかったんだもの。
リザベルは部活に顔を出してから来るって言ってたから、もう少し遅いかと思ってたわ。
「別に警戒していたわけではありませんわ。今日はたまたまここで待ち合わせていたんです」
取り繕ったわたしの言葉に先輩は片眉を上げた。
やっぱり白々しかったかしら? でも本当に警戒していたわけじゃないもの。
「初めまして、先輩。リザベル・アジャーニと申します」
「僕はノエル・シェフェール。どうぞよろしく」
リザベルはスカートをつまんで軽く膝を折り、先輩は左足を下げて頭を下げた。
一瞬目を合わせてから堅苦しい正式な挨拶を交わす二人を見て、思わず首を傾げる。
どうしたの? その、まるで戦闘開始前のような意気込み。
「僕のことはノエルと呼んでくれないかな? エリカ君もね。あ、エリカ君って名前で呼ばせてもらっていいかな? とにかく、シェフェールとか、先輩とか他人行儀で好きじゃないんだ」
「気安いお言葉をありがとうございます。ですが、シェフェール先輩とは他人ですから。わたしも、エリカも」
「君はずいぶんはっきりものを言うんだね。きっと仲良くなれると思うな」
「まあ、思い違いも甚だしいですわ」
「あ、あの、二人とも笑顔が怖いんですけど?」
驚くほど明るい笑顔で会話は交わされているけど、どう考えても不穏よね。
どうにか割って入ったものの、このあとどうすればいいの?
あら? でも、こういうのって恋愛小説でよくあるパターンじゃない? 最初はいがみ合っていた男女がそのうち大恋愛に発展したり?
「しないわ」
「ええ? そんなのまだわからないじゃない」
「わかるよ」
「そうかしら? なんだか息ぴったりなのに」
初対面でこんなに息が合ってるのにもったいない。
二人にわたしの考えていたことがなぜわかったのかなんてことは、もう今さらよね。
そんなにわかりやすいかしら? リザベルはともかく、先輩とは昨日初めて話したばかりなのに。
「さあ、エリカ。何か本を借りるなら、さっさと借りて帰りましょう。これ以上ここにいたら、お嫁にいけなくなるわよ」
「ええっと、じゃあ……」
リザベルに急かされて、昨日借りた小説の続きを手に取る。
先輩はもう何も言わずにリザベルに引きずられるように立ち去るわたしに向かって手を振った。
お返しにわたしも手を振ったところで書架に邪魔され、先輩の姿が消える。
「ねえ、リザベル」
「何よ?」
「結局、あなたは何をしにきたの?」
「……噂の先輩とやらの確認よ」
「へえ~」
「何よ?」
「何でもないわ」
ダメ。顔がにやけてしまいそう。
だって、これってあれよね? やっぱり恋が芽生えたんじゃない?
今までにないリザベルの態度に妄想が止まらないわ。
どうしよう。どきどきする。
と、そこで受付の先生と目が合い、表情を引き締める。
ひょっとしてにやけていたのを誤解された? あ、でも結局は同じよね。
あら? そもそもなぜこんな心配をしなければいけないのかしら。
やっぱり大切なリザベルを〝女たらし″の先輩に奪われるなんて許せないわ。
「リザベル、やっぱりダメよ」
「何が?」
「シェフェール先輩はリザベルに相応しくないわ!」
「その前段階であり得ないから」
廊下に出てからリザベルに訴えたら、あっさり返されてしまった。
でもでも、ダメだとわかっててもままならないのが恋心ってものだから。
もし、この先リザベルが傷つくことになっても、わたしが支えるわ。だって、親友だもの!
リザベルは強く決意を固めたわたしを胡散臭そうに見てたけど、何も言わずに大きくため息を吐いた。
「わたし、リザベルが大好きよ!」
「ありがとう、わたしもエリカが大好きよ」
「ありがとう!」
廊下で抱き合うわたし達を、すれ違う人達は不審げに見ていたけど構わないわ。
だってわたし達の友情は永遠だもの。
「じゃあ、わたしはこのまま部室に行くから、エリカは気をつけて帰ってね」
「ありがとう。ダンス頑張ってね!」
手を振り、リザベルと別れたわたしは超ご機嫌だった。
だからにまにましながら小走りで廊下を進み、角を曲がる時もよく前を見ていなかったのよね。
曲がった瞬間、目の前に立ちはだかった人影に驚いた時にはもう遅くて覚悟を決める。
「廊下を走るな、危ないだろうが!」
ぶつかる! と思ってぎゅっと目をつぶったわたしの耳に聞こえてきたのは、苛立った男子の声。
おそるおそる目を開けると、ヴィクトル殿下の困ったような笑顔が見えた。
(あら? ぶつかってないわ……)
ただ自分の体には何かが触れていて、見下ろせば男子の腕。
その腕にそってゆっくり視線を動かせば、目に入ったのは不機嫌そうなマティアスさんの顔。どうやら声の主はこちらね。
「呆けてないで、何か言ったらどうだ? お前は謝罪もできないのか」
何なの、この人。さっきから。
怯えるか弱き女子にこの態度。泣くわよ。泣いちゃうんだから。
泣かないけど。
「殿下、ブリュノーさん、大変失礼いたしました。もう前を見ずに突進したり致しませんから、どうか放して下さいません? でなければ、悲鳴を上げますわよ?」
未だにわたしの胸の辺りを押さえているマティアス……呼び捨てでいいわ、こんな奴。とにかく奴に微笑みかけると、マティアスは慌てて腕を放した。
やれやれ。内気な乙女の体に触るなんて、あり得ないぐらい失礼だわ。
パンパンと汚れてもいない制服の前身ごろを叩くと、マティアスは顔をしかめた。ふん!
と、殿下が大きく吹き出した。
「ごめっ……笑ってるのは、マ、マティアスに、対してだから……」
「殿下……」
あら、何? この空気。この、〝俺達は親友です″って空気。
嫌だわ。もしわたしにリザベルがいなければ嫉妬していたところだわ。
まあとにかく、男同士の友情を見せつけられてもおもしろくもなんともないから、さっさと帰って本を読まなくちゃ。
もちろん、今日は絶対早く寝るんだけどね。
「エリカ・アンドールさんだよね? 同じクラスの。こいつ……マティアスが失礼な態度でごめんね。よかったら、ラウンジでお茶でもどう? 驚かせたお詫びにごちそうするよ」
「いいえ、結構です。わたしも悪かったのですから。殿下にお怪我がなくて幸いでしたわ。では、ごきげんよう」
「……そう? じゃあ、またね」
「ブリュノーさんも、さようなら」
「ああ」
そこは「ああ」じゃなくて、「さようなら」でしょうに。まったく、礼儀がなってないんだから。きっと公爵家の嫡子として甘やかされて育ったのね。
それにしたって、殿下もさりげなく女の子をお茶に誘うなんて、嫌だわ。シェフェール先輩に負けないくらい〝女たらし″なんじゃないかしら。怖い、怖い。
そう思いながら殿下達とすれ違いしばらく進むと、急に歩けないくらいに体が震えてきて壁にもたれた。
わたし、王族相手によくあんな態度がとれたものだわ。
今までの自分からは想像ができないほどに強気だったけれど、これも〝イザベラ″効果かしら。
まあ、それはそれで良かった気もする。だってここは学院内で、相手は同級生だもの。
真っ直ぐに立って、何度か深呼吸。
よし、もう大丈夫。なんだかけちが付いちゃったけど、早く帰って本を読まなくちゃ!