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コレットさんと待ち合わせの街に到着してから三日。
今日はかなりの暇を持て余し中。
お兄様が朝から行政官の方に呼ばれてお留守で、その間は旅亭から出ないようにと言いつけられているのよね。
この街ではわたしが殿下の婚約者だということはすでに知られていて、ちょっとお出掛けしただけで騒ぎになってしまうから。
やっぱり殿下の婚約者って大変。エリカ・アジャーニは自由だったのに。
ああ、退屈。
これで壺を磨くのも三回目だわ。
こんなに磨いているんだから、きっとわたしの恋も叶うわよね。
しかも殿下から恋の叶う魔法石だってもらったもの。
ギデオン様に告白する勇気はないけれど、念を送れば通じるかも。
よし、頑張ろう。
せっせと壺磨きを再開してふと気付く。
もうお昼も過ぎたのにお兄様はまだ戻って来ない。
それに何だか街全体が静かな気がするし、まさか何かあったのかしら。
ひょっとしてコレットさんから何の連絡もないことと関係があるのかも。
そう思い至ると退屈どころじゃなく、壺を置いて部屋の中をそわそわと歩き回った。
一度誰かに様子を見に行ってもらった方が……。
「エリカお嬢様、殿下がいらっしゃいました」
「殿下が? 今?」
マイアから告げられた訪問者にびっくり。
この街に到着したとの知らせもなかったのに、いきなりいらっしゃるなんて。
急いで身支度を整えて招き入れると、お兄様と一緒に入って来た殿下は旅装のままでとても疲れて見えた。
大丈夫かしら?
予定外にエサルドの街で多くの処理をしなければならなくなったから無理をしたのよね。
そもそもわたしがあんなふうに騒ぎを起こさなければもっと穏便にできたのに。
「殿下、お茶は如何ですか? 昨日この街で求めたもので、とても美味しいんですよ」
「ああ……うん。もらうよ」
せめてくつろいでもらおうと、リラックスできるお茶を選んで淹れる。
その間、静かに待っていた殿下はカップを渡すと、軽く香りをかいでから口へと運んだ。
そうそう。このお茶は香りがいいのよね。
ついでに淹れてさしあげたお兄様は一気に飲み干してしまったけど。
「あのね、エリカさん……」
やがてカップを置いた殿下は何か言いかけてためらい、わたしから目を逸らしてしまった。
そのらしくない仕草に不安が募る。
やっぱり何か良くない知らせがあるんだわ。
「殿下、何か問題が……?」
「コレットさんのことなんだが……彼女は今、サントセ村にいる」
「え? ええ。叔母様を訪ねて……でも、もうこちらに向かって……コレットさんに何かあったんですか!?」
こんなに到着が遅れているのは何かが起こったからなんだわ。
もっと早くに気付くべきだったのに、呑気に待っていただけなんて。
「いや、コレットさんは……よくわからない」
「よくわからない?」
「実は……サントセ村は今、封鎖されているんだ」
「封鎖? 村が? いったいどうして……」
「黒ラド病だよ。サントセ村で黒ラド病が発生してしまったんだ」
「そんな……」
苦々しい表情の殿下から告げられたのは、思ってもいなかったこと。
黒ラド病の感染力はそこまで強くはないけれど、致死率がとても高くて、過去に流行した時にはたくさんの村や町が衰亡してしまったって習ったわ。
今でも治療法はなくて、感染を広げないための対策をするしかないって。
でもその対策が封鎖?
「あの……村を封鎖して病気を広がらないようにするのはわかります。ですが、どうやって治すのですか? 封鎖してしまったら、食料に困るんじゃないですか? 看病する人だって必要でしょうし……」
わたしも小さい頃はよく寝込んだからわかるわ。
病気がどれほど苦しくて心細いものか。
いつもお母様がそばにいてくれたから安心できたし、お父様やお兄様がお見舞いに部屋に来てくれるとすごく嬉しかった。
ご飯だって、食べたいもの食べたくないものがあって、ついつい我が儘を言ってしまったもの。
「……致死率の高い感染病は発症者が確認され次第、長が近隣への警告と共に地域ごと封鎖する。そして近隣地域も病の潜伏期間ごとに定められた期日の間は全ての人員の移動を禁じる。これを破った者は即刻処刑す。――これは王法であって、僕達には何もできない。村と村を繋ぐ道に全快の旗が揚げられるのをただ待つしかないんだ」
「でもそれじゃ、村の人達は……」
見捨てるの?
その言葉を口にすることはできなかった。
どんなに残酷なことでも、それが国にとっては最善の策だから。
だけど今のわたしにはできることがある。だからこのまま黙って待っていることなんてしないわ。
「今朝になって知らせを持って来た者――サントセ村に通じる村の手前で引き返して来た者が言うには、揚がっていた旗は黄色だったそうだ。ということはまだその村に発症者はいない。それが一昨日のことだから、長官達の見通しではその村ではこのまま感染者は出ないだろうということだ」
「僕が昨日道中で受けた報告によると、もう一方の村でもまだ感染は確認されていないそうだよ。コレットさんに手紙を出してからの時間を考えても、どうやら近隣への感染だけは防げたように思う。残るはサントセ村だが――」
「わたしが行きます」
「え?」
「わたしがサントセ村に行きます」
お兄様と殿下の説明を聞いて、わたしの決意はますます強くなった。
その勢いのままに口にしたけれど、上手く伝えられない。
「エリカ、馬鹿なことを言うな。お前が行ってどうするんだ? 確かに何もせず待つしかないのはつらいが、黒ラド病の潜伏期間は長くて二日、死に至るのに十日前後。ひと月もあれば病の終息を知ることができるんだ。だから――」
「でも待つ必要はないでしょう? 治癒石があるんですもの。ですから、わたしは誰に止められようとも石を持ってサントセ村に行きます」
「確かに治癒石は有効な治療法になるだろう。だけど、エリカさんが行く必要はないよ。誰かに託せば――」
「そんな無責任なことできません! それにわたしはもう治癒石を飲んでいるのですから、感染の危険もないんです」
「だけど絶対大丈夫だという保障はないだろう? それに石を届ける以外にエリカさんに何ができる? エリカさんに病人の看病ができるとは思えない。邪魔になるだけだよ」
「それは……やってみないとわかりません。いえ、やってみせます!」
殿下やお兄様を相手に説得するのは難しい。それに本当はわたしにできるか自信なんてない。
でもここで引くわけにはいかないわ。
だからもう一度説得しようと両手をぎゅっと握りしめて力を込める。だけど、わたしよりも先に口を開いたのはお兄様。
「エリカがそこまでして村の人達を助けたいという気持ちはよくわかる。それは殿下も私も同じだからな。だが、お前は殿下の婚約者として重要な立場にあるんだ。それなのに今まで十分に無茶をしてきた。だからもうこれ以上の無茶はさせられない。お前は早々に殿下とこの地を離れ、王都に戻るんだ」
「ですが――」
「村へは私が行くから心配するな。治癒石なら私も飲んだんだ」
「お兄様……」
わたしを守ろうとしてくれるお兄様の言葉は正しい。
だけどそれを受け入れるわけにはいかないわ。
「いいえ、お兄様。やっぱりわたしが行きます」
「エリカ――」
「村の人達には一刻も早く治癒石が必要なのに、今からだと馬を飛ばしても二日はかかってしまうでしょう? ですが、わたしなら一瞬で行けますもの」
「一瞬で?」
「ええ」
はっと息をのんだ殿下に軽く頷いてから、訝しげに眉を寄せるお兄様に向き直る。
もうわたしは虫が怖くてお兄様の後ろに隠れていた子供じゃないわ。
「森でわたしと殿下が深淵から戻ることができたのは、本当はこの魔法石のお陰なんです。コレットさんの持つ魔法石と共鳴して引かれ合ったお陰で……。お兄様、秘密にしていてごめんなさい」
「レオンスにも秘密にしておくべきだと言ったのは僕だ。秘密というものは知る者が少なければ少ないほどいいからと言ってね」
「それはもちろんです。エリカも気にするな。当然の判断だ」
秘密にしていたことを謝罪したわたしを殿下が庇ってくれたけれど、お兄様はまったく気にしていないみたい。
ほっと息を吐いてペンダントを胸元に戻す。
殿下はそれをじっと見ていたけれど、目が合うと困ったように微笑んだ。
「……本来ならば、僕が行くべきなんだ」
「殿下――」
「うん。わかってる。僕の立場でそれは許されない。だから、今できる最善はエリカさんにサントセ村へ行ってもらうことだろう。ただ……エリカさん一人ではなくレオンスも同行させてくれ。それでいいね?」
「はい。お兄様がそれでよろしいのでしたら」
「もちろんいいに決まってるだろ。では、急ぎ用意した方がいいな」
そう言ってお兄様が立ち上がると同時に、控えの間からマイアが入って来た。
その顔は決意に満ちている。
「エリカお嬢様、どうかわたしもサントセ村に連れて行って下さいませ」
「マイア!?」
「皆さまのお話を立ち聞いてしまったことは大変申し訳なく思っております。ですが、お咎めはのちほどいくらでもお受けいたしますので、どうかわたしもお連れ下さい。幸いわたしは治癒石を頂きましたし、病人の看護もできます。きっとエリカ様とレオンス様のお役に立ちます」
「あなたを咎めることなんて何もないわ。でもね、マイア……」
突然のことに何て返せばいいのかわからない。
もちろんマイアが一緒に来てくれるならすごく心強いけれど、殿下に言われた通り絶対に感染しないとは言えないもの。
数日前、マイアに治癒石を飲むように勧めたのはちょっと疲れて見えたからで、あの時はこんなことになるとは思ってもいなかったから。
それに共鳴石で三人も移動できるのかもわからないわ。
「私はマイアを連れていくことに賛成だ。きっと助けになる」
「うん、僕もそう思うよ。それに三人で移動できるかは、やってみないとわからないだろう?」
「レオンス様、殿下、ありがとうございます!」
お兄様と殿下の後押しに、マイアが嬉しそうに応えた。
……そうね。やってみなければわからないことはたくさんあるもの。
「わかったわ。ありがとう、マイア。本音を言うと、とても心強いわ」
「ありがとうございます、エリカ様! どうぞお任せ下さい!」
不安はあったけれど、いつもの調子に戻った頼もしいマイアの笑顔に勇気づけられる。
うん。きっと大丈夫。三人で村へ行けば、少しでもみんなの助けになるはずよ。
「――エリカさん、ちょっといいかな?」
「はい?」
動きやすい服装に着替えようと立ち上がったわたしを殿下が呼び止める。
お兄様やマイアは準備のために素早く部屋を出て行ってしまった。
「エリカさん、そのペンダントを貸してもらえる?」
「え、ええ……」
不思議に思いながらもわたしの前に立った殿下にペンダントを外して渡す。
すると、殿下はペンダントをまたじっと見てから、懐を探って何かを取り出した。
「このペンダントをこれと交換してほしいんだ」
そう言って殿下は小さな革袋から手のひらに指輪を振り出した。
金色の台座に輝くのは碧色の石。
「殿下、この石は……」
「ああ、シンからもらったものだよ。少しいびつな形をしているから時間がかかってしまったけれど、ようやく出来上がったんだ。これなら肌身離さず着けていられると思ってね」
差し出された指輪は午後の陽光に淡く輝いてとても綺麗。
つい見入ってしまったけれど、ふと我に返る。
「あの……すごく素敵ですね。でも、なぜ交換を?」
「このペンダントならエリカさんもすぐに思い浮かべることができるだろう? だからもし困ったことがあれば、この指輪で思い出してほしいんだ」
「……わかりました。ありがとうございます、殿下」
殿下の気遣いに応えて素直に指輪を受け取ると、さっそく左手の中指にはめてみた。
金色に輝く指輪は大きさに少し余裕があるけれど、抜け落ちるほどではなくて心配はいらないみたい。
「……綺麗だね」
「ええ、本当に」
指輪の美しさに自然と顔がほころんで、殿下の言葉に笑顔で頷いた。
殿下はもう交換したペンダントに視線を落として身に着けている。
そうだわ。わたしも殿下に渡すべきものがあったのよ。
「殿下、少々お待ち下さい」
「うん?」
急いで控えの間に入り、化粧箱から薬包を取り出して居間へと戻る。
「これをお持ち下さい、殿下」
「これは?」
「治癒石です。ちょうど小さじ一杯分ありますから」
「ああ、ギデオンの分だね。うん、確かに預かったよ」
「いいえ、違います。それは殿下に持っていてほしいんです」
「……僕?」
「はい」
「……ギデオンの分はどうするの?」
「ギデオン様は……大丈夫です。サントセは小さな村だとコレットさんから聞きました。ですから、十分に足りると思います」
殿下に渡したのは試飲のために砕いて細粉した時のもの。
余りものだけれどこうしてすぐに渡せて良かったわ。殿下はこの国にとってとても大切な方だから、何かあっては困るもの。
ギデオン様には王都に戻ってからちゃんと渡すつもり。
もしかしてなんて考えない。
殿下はよくわからない表情で薬包を見ていたけれど、やがて顔を上げてにっこり笑った。
「ありがとう、エリカさん。これはお守り代わりに大切に持って帰るよ」
「――エリカ、準備ができたから行くぞ。お前もこの荷物を持ってくれ。これには治癒石が入っているからな」
「あ、はい。もちろんです、お兄様」
殿下が受け取ってくれたところで、いくつもの大きな荷物を持ったお兄様が戻って来た。
わたしも慌てて衣裳部屋に入ってドレスを着替える。
それからお兄様に手伝ってもらって重い背嚢を背負った。
「エリカさん、念のためにこれも持って行ってくれるかな。僕の名で書いた認可証だよ。簡単な物だけど、もし誰かに咎められたらこれを見せればいい」
わたしが着替えている間に、殿下は証書を準備してくれたみたい。
殿下はこうしていつもわたしを助けてくれる。どうやって返せばいいのかわからないくらい。
「ありがとうございます、殿下。これも、お守りですね」
どうにか笑って証書を受け取ると、冗談めかして左手の指輪を見せた。
本当は不安もあって怖いけれど、殿下から二つもお守りをもらったんだから大丈夫。
だけど殿下は急に真顔に戻って、わたしの左手を掴んだ。
「……殿下?」
「もし……エリカさんがつらければ、すぐに戻って来ていいんだ。僕はどんなエリカさんでも受け止めるから」
痛いほどに握られた手は、殿下の心配の表れ。
だから精一杯の笑顔で応えて不安は見せない。
「ご心配には及びませんわ。わたしは大丈夫ですから」
「……そうだね。まあ、レオンスとマイアがついているから安心だよ」
にやりと笑う殿下はやっぱり意地悪で、いつもなら怒るべきところ。
でも今は不思議と安心してしまう。
「行ってきます」
「うん、気を付けてね」
マイアと手を繋ぎ、お兄様に抱き寄せられて、右手で指輪を握る。
目の前に立って笑う殿下は、やがて碧色の光に滲んで消えた。




