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「エリカさん、一昨日もあれほど無茶はしないようにと言ったのに、本当に何て言うか……うん」
長官の腕を放すと、殿下は残念そうに呟いた。
別に濁さなくてもはっきり言えばいいのに。
今さら傷ついたりなんてしないんだから。
「レオンスも、お前がついていながら何をやっているんだ」
「はっ、申し訳ございません――」
「貴様もこいつらの仲間か! ベレ様に危害を加えるなど、許し難き狼藉! 今すぐ牢に放りこんでやる!」
ようやく我に返ったのか、痛みに倒れた長官を助け起こしながら、隊長が叫んだ。
それを合図に警備士達が剣に手をかける。さらに採掘師達まで。
「おいおい、相手の力量もわからず剣を抜くなど寿命を縮めるだけだぞ? 特に今回は相手が悪い。さっさと引いた方が身のためだ」
「う、うるせえっ! このハッタリ野郎――っ!?」
余裕たっぷりのお兄様の言葉に怒った採掘師の一人が剣を抜こうとした。
その瞬間、風が走り採掘師を吹き飛ばす。
「な、何だ!?」
「まさか今の、風魔法じゃ……」
「ぶ、無礼者! もう許さん! もう許さんぞ! 貴様らは――特に貴様は縛り首にしてやる!」
警備士や採掘師達が慄くなか、一人テンポの遅れた長官が殿下を指さして喚いた。
だけど殿下は片眉をかすかに上げて不快感を示しただけ。
「何をやっとる! 早くあやつらを捕まえんか!」
「し、しかし……」
今の風はたぶんお兄様の魔法。何か小さく呟いていたもの。
さすがに警備士達も何が起こったのか理解したらしく、お兄様に対して不安そうな目を向け、長官の命令にためらっている。
「ベレ長官。そろそろうるさく喚くのはやめてもらいたい。耳障りだ」
「な、何を貴様――」
「私はあなたが今までに執行した愚策、横領、収賄、その他違法行為について、王宮へ持ち帰り訴追するつもりであったが、今の振舞いを見てもこれ以上あなたを野放しにはできない。この数日間、すいぶん簡単に集めることができた証拠を以て、この場であなたを罷免すべきだろう」
突然の殿下の告発と処断の言葉に一瞬呆然とした長官は、わなわなと激しく震えだした。
それでも長官は何度か深呼吸を繰り返すと、威厳を取り戻すかのように精いっぱい背を反らして殿下を睨みつける。
「貴様は先ほどから何を偉そうに! ここは王太子妃殿下のご領地であるぞ! その妃殿下の名代様から私はこの地の行政長官として任命されたのだ! よって私を勝手に罷免することなど、できぬ! いや、むしろ貴様は名代様に、しいては王太子妃殿下に逆らう反逆者だ! 縛り首などぬるい! 今すぐこの場で首を刎ねてやる!」
「そうか……。あなたが私の顔を覚えていないとは、いささかショックだな。わたしはあなたに王宮で一度お会いしている。それに、各地の庁舎がそうであるように、このエサルドの庁舎にもわたしの似絵が飾ってあったのだが……」
処刑宣告に恐れることもなく殿下がわざとらしく嘆くと、長官は目を細めて見やり、すぐにひいっと息をのんだ。
「で、ででででっ、でんっ――!」
ひいひい喘ぎながら必死で声を絞り出す長官を、みんなが眉を寄せて見守っている。
緊迫したこの状況で笑ってはダメだと慌てて口を押さえたのに、お兄様はぶはっと吹き出した。
ずるいわ。わたしだって笑いたいのに。
ちらりと見ると、当の殿下さえも笑いを堪えるように唇を噛んでいた。
「も、申し訳ございません! どうかお許しを!」
「ベレ様!?」
「如何なされたのですか!?」
「ベレ様、いったい何が!?」
呼吸を乱したまま長官がいきなりその場で膝をつき頭を深く下げたので、隊長達は驚愕して問いかけた。
街の人達も採掘師達も何が起こったのかわからずに唖然としている。
「お前達も早く膝をついて頭を下げろ! この方は、王子殿下――ヴィクトル王子殿下でいらっしゃるのだぞ!」
「は? 王子殿下?」
「まさか……?」
「お前達、早く頭を下げぬか! この愚か者!」
「いや、膝をつく必要も頭を下げる必要もない。皆、そのままで」
わけもわからず長官の命令に従おうとした人達を殿下は手を振って押し止めた。
そして未だ膝をついたままの長官を冷ややかに見下ろす。
「ようやく思い出してくれたようで嬉しいよ。だが、それとあなたの振舞いとは別だ。先ほども申した通り、あなたを罷免することに変わりはない。新しい長官が赴任するまではわたしの政務官に代理を務めてもらうつもりだ。その上で、引き続きこの街に関する疑惑を調査していくので証拠隠滅を防ぐためにもあなたには……行政官達には今すぐに庁舎を出てもらい、しばらくはあなたの屋敷に留まってもらう」
「ですが……私は……ここは殿下のお母君でいらっしゃる妃殿下のご領地でございます。領地運営に関しまして、領主以外の口出しは無用。それが以前よりの決まりにございます。ですので、いくら王子殿下のご命令でも、私共はお受け致しかねます」
異議を申し立てる長官は徐々に自信を取り戻したのか、ゆっくりと立ち上がり殿下を真っ直ぐに見つめた。
むしろ最後の方は嫌味っぽかったわ。
すると殿下は今までにないほど厳しい顔つきで冷やかに告げた。
「確かに、あなたの言うように本来は領地の運営に領主以外の者が口を挟むことは許されない。だが、例外はもちろんある。国王陛下と陛下の勅命を受けた政務官、そして大政大官の命令に関しては領主と言えども受け入れざるを得ない」
「大政大官……」
「まあ、空位であることが多くあまり知られてはいないが、僕は先日エリカさんとの婚約を機に陛下から任命されたんだ」
ふっと力を抜いた殿下の言葉がみんなに浸透していく。
そういえばそうだったわ。
お父様からそう知らされて殿下にお祝いを言うと、「ただのお飾りだよ」って笑っていらしたから、あまり実権はないのかと思っていたのに。
本当はすごく偉いのかしら? ひょっとして王太子殿下よりも?
いえ、まさかね。
「そういうわけで、この決定が覆ることはない」
「そんな……」
今度はがくりとくずれて膝をついた長官を見て、今まで黙って見ていた採掘師が一人、二人とその場を離れ、すぐに全員が逃げ出した。
それを追うのは人垣に紛れていた商人……のような格好をした騎士達。
むむむ。どうやら騎士達は何人も街に滞在していたみたい。
お兄様は騎士達に任せきっているのか気にすることもなく、諦めた様子の警備士達に指示を出し始めた。
そして殿下はまだ状況が飲み込めていないらしい街の人達へと目を向ける。
「これからしばらくは街の行政が滞ることを許してほしい。だが、くだらない条例は今すぐ廃止するよう政務官に命じているゆえ、すぐにその通達がなされるだろう。急を要する案件は、政務官達が滞在している〝タヌキの耳亭″を訪ねてくれ。今までずいぶん苦労をかけていたようで、すまなかった。この国を守るべきものとして謝罪させてほしい」
「い、いえ! そのようなめっそうもない!」
「王子殿下にこのようにお目にかけて頂けただけで、十分でございます!」
「もう、どれほど感謝差し上げればいいのやら……本当にありがとうございます!」
「まさか殿下がいらっしゃるなんて……」
殿下の謝罪に慌てふためく街の人達は、それでもすごく喜んでいてわたしも嬉しくなってくる。
だけど殿下はゆっくり首を振ってわたしを引き寄せた。
「正直に白状するなら、僕はエリカさんを安心させたかっただけなんだ。この街の不穏な噂を聞いてとても心配していたからね。実際に調べてみると、すぐに手を打つべき問題ではあったが……。とにかく、感謝ならエリカさんにしてくれないか」
そう言うと、殿下はわたしの手を取って軽く口づけた。
一瞬のことで手を引く間もなかったけれど、顔が一気に熱くなり、自分でも真っ赤になっているのがわかる。
だから意地悪く笑う殿下にだけわかるようにちょっと睨んでから顔を逸らした。
本当はいつもの笑顔に安心したけれど、それは秘密。
だって、腹が立つんですもの。
「お嬢様、本当に何から何までありがとうございます! それに、ご婚約おめでとうございます!」
「え?」
「少し前に王都からのお客さんが、王子殿下がご婚約なされたって噂していたのを聞きました。お相手がとても立派な侯爵様のご令嬢だから、これでこの国も安泰だろう、って……侯爵様!?」
殿下の言葉と行動に一番に反応したのはテスだったけれど、婚約までお祝いされてちょっとびっくり。
するとテスはにこやか笑って話し続け、それから自分の言葉になぜか驚いた。
「お嬢様は、侯爵家の方なんですか!?」
「あ、ええ、そうよ。ごめんなさい、名乗るのが遅くなって。わたしはエリカ・アンドール。これが本当の名前なの」
今さらだけれど、軽く膝を折って淑女らしい挨拶をする。
それなのに、みんなの顔は引きつり青ざめた。
どうして? まさか、ばっちりだったはずのアイラインが滲んでる?
それなら後ろで控えてくれているマイアが何か言ってくれるはずだけど……。
「アンドール……侯爵って、あの……」
「この国一番の大貴族なのに、とても公正なお方だって……そのアンドール侯爵様のご令嬢……?」
「こんなに気さくに接してくれていたお嬢様が?」
助けを求めてマイアへと振り返ろうとして、ざわめくみんなの声が聞こえた。
お父様は有名人みたい。まあ、それも当然よね。
とても優しくて温かくて素敵な、わたしの自慢のお父様だもの。えっへん。
誇らしさに視線をみんなへと戻すと、壺を売ってくれたご主人がいきなりがばっと頭を下げた。
「本当に申し訳ありません、お嬢様! わたしは大変失礼なことを致しました! お嬢様はこの街のことを心配して下さっていたのに、あのような壺を売りつけるなど……」
「気になさらないで、ご主人。それにわたしはとても感謝しているのよ。こんなに可愛いカメオまで頂いて、さっそく着けたの」
胸元に留めたブローチを見せてにっこり笑うと、ご主人は目に涙を溜めてまた深く頭を下げた。
ずいぶん涙もろい方みたい。
「お嬢様……ありがとうございます! そして、おめでとうございます! お二人の末永い幸せを心より、心より願っております!」
「ヴィクトル殿下、エリカ様、ご婚約おめでとうございます!」
「頂いたサインは絶対大切にします!」
「おめでとうございます! お二人がいらっしゃるならこれほどに安心なことはありません!」
涙もろいご主人の言葉を合図にしたように、次々とお祝いの言葉が寄せられた。
それからもたくさんのお礼とお祝いの言葉を頂いたけれど、わたしも殿下に言わなければいけないことがあるわ。
だから旅亭へと戻る道すがら切り出した。
「殿下、あの……」
「うん、何?」
「ありがとうございました。色々と」
「色々って?」
「い、色々です」
「色々ねえ……。まあ、いいよ。もう慣れたから」
にやりと笑う殿下はやっぱり意地悪で、だけど言い返せない自分が悔しい。
次こそは、殿下に迷惑をかけないようにするんだから。
そんな決意を胸に旅亭に戻ると、街で何が起こったのか先に伝わっていたみたいでちょっとした騒ぎになってしまった。
それは翌日の出発間際まで続いててんやわんや。
だって、宿代はいらないとか、宿泊台帳を家宝にするとか、壁にサインをとか。
そして街を出る時には盛大な見送りがあって、みんなが別れを惜しんでくれた。
街を訪れる時よりも荷物がかなり多くなってしまったのは、みんながお土産にとたくさんの品を下さったから。
まだまだこれから大変でしょうけれど、いつの間にか集まっていた殿下の部下の方達がいるから大丈夫よね?
だから笑顔で手を振ってお別れ。
さて、しばらくは馬車の中だからしっかり壺を磨きましょうっと。