53
「――エリカさん、……エリカさん?」
昨日はあまり眠れなかったから、このまま寝てしまいたい。
ちょっと安定感が悪いけれど。
それなのに殿下の声が頭の中に入ってきて、ゆっくり眠れそうにない。
仕方なく目を開けると、訳がわからない状態。ここはどこ?
わたしは森にいたはずなのに、こんなに明るいのはどうして?
とにかく起き上がろうと動くと、押し殺した低い声が体の下から聞こえた。
「――って、で、殿下!?」
「うん。元気そうで安心したよ。でもひとまず下りてくれると助かるかな」
「すっ、すすすみません!」
まさか、まさか、なぜこんなことに!?
どうしてわたしが殿下に抱きつくように寝ているの!?
これじゃあ、わたしが押し倒したみたいじゃない!
慌てて手足を動かして、ばたつくような、這うような格好で横になった殿下から離れた。
殿下はふうっと息を吐いて起き上がると、座ったまま何度か深呼吸をしている。
わたしはといえば、そんな殿下と顔を合わせることができなくて、隣に座り込んだまま目の前の地面を見つめた。
このまま穴が開いてしまえば、その中に隠れてしまえるのに。
「僕達は深淵に踏み込んだはずなんだけどな……」
殿下は座ったままぼそりと呟いて、辺りを見回した。
そうよ。そのはずなのよ。
なのにここは明るい光に満ちていて、彩色豊かな絨毯が広がるように色とりどりの花が咲き乱れている。
って、ぼんやり見入っている場合じゃないわ。
こんな状況に陥ったのはわたしがパニックになってしまったせいなんだから。
殿下は闇へと転がり落ちるわたしの手を掴み、そのまま抱き寄せて庇ってくれたのよ。
思い出すと恥ずかしくて申し訳なくて、やっぱり穴でも掘って隠れてしまいたくなったけれどそんなわけにはいかない。
「あの、殿下……申し訳――」
謝るだけでは何の解決にもならないことはわかっている。
それでも謝罪しようとしたわたしの言葉を殿下は片手を振って遮った。
そして真っ直ぐにわたしへ向き直ると、困ったような笑みを浮かべた。
「ごめんね、僕のせいなんだ」
「……何のことですか?」
「エリカさんがカエルを――いや、失礼。アレを怖がるようになってしまったのは僕のせいなんだよ」
聞きたくない単語を耳にして思わず顔をしかめてしまったみたい。
殿下は言い直してくれたけれど、続いた言葉はよくわからなくて、わたしは首を傾げた。
「それにアンドール侯爵家の見事な薔薇園がなくなってしまったのも僕のせいだね」
「……薔薇園が?」
「そうだよ。エリカさんはあの日以来、薔薇を見ると気分が悪くなってしまったらしい。それで心配した侯爵夫人は庭をまるごと造り変えてしまったんだ。でも今はそれほどではないと知って安心したよ」
「あの日以来……?」
お母様がお庭を大改造されたのは確か……五年前だわ。
あれはわたしのためだったの? 薔薇を見ると気分が悪くなるから?
でもどうして殿下がそれを?
答えを得ようとして顔を上げ、殿下の琥珀色の瞳を目にしてはっとした。
あの時――あのお茶会の時にわたしは意地悪を言われて東屋に逃げ込んで泣いていたのよ。
それから、その日ずっと一緒に遊んでいた男の子がそばに来てくれて――。
「エリカさん」
「……はい?」
「立てる? どこも痛めてないといいんだけど」
優しい言葉とは逆にどこか緊張した殿下の声がわたしのぼんやりした頭に入り込んだ。
殿下はいつの間にか立ち上がっていて、その右手には剣が握られている。
「……殿下?」
何が起こっているのかわからなくて不安になったわたしに、殿下は警戒しながらも左手を差し出して立たせてくれた。
そして少し先の茂みから一瞬視線を外してさっとわたしの全身に目をやる。
「――わたしは大丈夫です」
殿下の心配を察してどこも痛めたところはないと伝えると、殿下は小さく頷いてわたしを庇うように背に引き寄せた。
瞬間、茂みが揺れて、とっさに殿下の上着の裾をぎゅっと掴む。
それが邪魔にしかならないことに気付いてすぐにぱっと放したけれど。
再び茂みががさがさ動くと殿下の体が強張った。
だけど、茂みからひょっこりと顔を覗かせたのはウサギ。
「まあ! なんて可愛い!」
とても恐ろしい魔獣が現れるのではないかと思っていたわたしはかなり拍子抜けしてしまった。
だからつい喜んでしまったけれど、殿下に緊張を解いた様子はない。
「油断しないで」
確かに。この状況では何が起こるかわからないものね。
油断してはダメだわ。
気を引き締め直して動向を見守っていると、ウサギは茂みからぴょんと飛び出した。
「あら?」
ウサギの全身を目にして驚きの声が上がる。
ぴんと立った長い耳に、ルビーのような瞳に、真っ白なふわふわの毛。
そして機嫌良さそうにぱたぱたと振られる長いしっぽ。
「この辺りのウサギはしっぽが長いんですね」
「いや、もっと怪しもうよ。どう考えてもおかしいから。ここが深淵だとすれば、あのウサギもどきは魔獣だよ」
「でも……全ての魔獣が危険だって決まっているわけじゃありませんよね?」
「……」
殿下はまだ警戒しているけれど、わたしは大丈夫だと思うわ。
だって、あんなに可愛いんだもの。
ウサギは――ウサギもどきは、しっぽを振りながらつぶらな瞳でわたしを見つめ返した。
それは何かを訴えるようで……。
「殿下、あのウサギ…もどき、何か言っています」
「は?」
「たぶん……あっ、行きましょう」
ウサギもどきが駆け出した方向に一緒について行こうとして、殿下に引き止められる。
「エリカさん、落ち着いて。あのウサギもどきは何も言っていないし、ここからむやみに動くのは危険だよ」
「……でも、ずっとここにいるわけにもいきませんよね? みんなも心配しているでしょうし、どうにかして戻る方法を見つけないと」
「それはそうだけど、もう少し状況を把握して――」
言いかけた殿下が急にむっと眉を寄せる。
どうしたのかと振り向くと、ウサギもどきが馬鹿にしたような視線を殿下に送っていた。
「あのウサギもどき、僕を馬鹿にしていないか?」
「……気のせいでは?」
にっこり笑って否定してみたものの、どうもそんな気がする。
かと思えば、ウサギもどきはわたしに愛想良くしっぽを振ってくれた。
そしてまた殿下に視線を向けてため息を吐く。
って、ため息?
『臆病者には用はないんだよ。そもそも俺達はあんたを呼んでないんだから、邪魔者はおとなしくしてろ。さあ、エリカ。そんなやつ放っておいて、行こうぜ』
「え?」
今度ははっきりとウサギもどきの声が聞こえて、思わず殿下と顔を見合わせた。
殿下の顔には信じられないといった表情が浮かんでいる。
これって幻聴じゃないってことよね?
「……あの、行くってどちらへ?」
『エリカが望む場所だよ』
「望む場所? みんなのところへ案内して下さるのですか?」
『ん? あれ? エリカは治癒石が欲しいんじゃないのか?』
「治癒石?」
『ああ。生き物の病気や怪我を治す石だよ。それを探しに森へ来たんだろう?』
「ええ」
『じゃあ、ついて来いよ』
「わかったわ!」
思いがけない嬉しいお誘いに、今にもスキップしそうな勢いで足を踏み出した。
それなのに、また殿下に腕を掴まれて引き止められてしまう。
「殿下?」
「おかしいよ、エリカさん。この場所も、ウサギもどきの姿も、それが人間の言葉を話すのも、何もかもおかしすぎるけど、治癒石だって? そんなの話が上手すぎる」
「でも……」
殿下の言うことはもっともで、今までわたしの軽率な行動で何度も迷惑をかけてしまったのだから、ここは従うべきなのよ。
だけど、あのウサギもどきは望みの場所へ連れて行ってくれると言っているのに。
それが嘘だというの? じゃあ、それは何のために?
殿下を説得できるだけの言葉が見つからなくて、ただ見つめるだけしかできない。
そんなわたしの後ろから、ふんっと鼻を鳴らす音が聞こえた。
『ホント、どうしようもねえやつだなー。あんたら人間が疑うのはどうしてだ? あんたら自身が相手を欺くから、同じように相手を疑うんだろう? そんな考えで俺達のエリカを汚すなよ』
「……俺達?」
顔をしかめた殿下がウサギもどきに詰め寄るように一歩前へと進み出た。
ウサギもどきは二本足で立ち上がると、胸を張って殿下を睨みつける。
えっと。これは良くない空気のような気がするわ。
ここはわたしが何とかするべきよね。
「あっ、あの、あなたのお名前を伺ってもいいかしら?」
『おっと、こりゃ失礼。俺としたことがうっかりしていた。俺の名前はウザキのロン。ロンって呼んでくれ』
「ありがとう、ロン。わたしはご存知のようですけど、エリカ。そしてこちらが……ヴィーよ」
『ふーん、ヴィーねえ。まあ、勝手に俺達の縄張りに入って来たことは、エリカを守るためなんだろうから許してやるよ。それに今の失礼な態度もな』
ちらりと剣に目を向けて高飛車に言うロンを殿下は目を眇めて見たけれど、何も返さなかった。
ただ静かに剣を鞘に納める。
良かった。とりあえずは大丈夫よね?
ほっと息を吐くと、ロンが四本足に戻り、ぴょんぴょんと飛び跳ねて先に進んだ。
『さあ、行くぞ!』
「ええ」
ロンのかけ声に応えて殿下の手を握る。
殿下はちょっとびっくりしたみたいだけれど、すぐにわたしの手を強く握り返してくれた。
「でん……ヴィー、行きましょう!」
ここは深淵。現実とは思えない場所。
何がどうなっているのか、ロンが何なのかはよくわからない。
だけど、今は前に進むしかないもの。




