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殿下は笑っているけれど、怒りが伝わってくるのはどうして?
ちゃんと行き先を書いた手紙を置いてきたし、一人でふらふらしていたわけじゃないわ。
それにここはコレットさんの故郷でみんなが顔見知りの村なのよ。
悪漢がうろうろしている王都とは違うもの。
「えっと……エリカさんのお兄さんですか?」
「違います」
戸惑いに滲んだジョルジュさんの問いを殿下は切り捨てるように否定すると、コレットさんへ微笑みかけた。
「コレットさん。僕達は先に帰るね?」
「は、はい」
「では、失礼」
「ちょっ――」
訳がわからないうちに殿下に手を引かれてその場を離れて行く。
唖然としているジョルジュさんとピーターさんに挨拶さえできないなんて。
「ちょっ、でん――っ」
思わず敬称で呼びそうになって慌てて口をつぐんだ。
身分を隠しているから、ここでは名前を使っているのにうっかりしてたわ。
そうこうしているうちに気が付けばコレットさん達は見えなくなってしまった。
コレットさんのお家なのに、コレットさんを残して先に帰るっておかしいわよ。
「放して下さい!」
「ダメだよ。エリカさんはすぐにどこかへ行ってしまうんだから」
「どこかって……ちゃんと行き先は手紙に書きました! それにこんなふうにみんなを残してくるなんて失礼です。薬草だって、ジョルジュさんに持ってもらったまま――」
歩くペースが速くて小走りになっていたわたしは、急に立ち止った殿下にぶつかりそうになってしまった。
息が切れているのは運動不足ではなくびっくりしたから。
何度か深呼吸してすぐ目の前に立つ殿下を見上げると、冷やかな笑顔にぶつかった。
「エリカさんには警戒心ってものがないの? あんな初対面の男を相手にしてよく笑っていられるね」
なるほど。殿下が怒っているのはやっぱりあの王都でのことがあったからね。
だけどあの時とは状況が違うもの。どうしてわからないのかしら。
「でも、あのお二人はコレットさんのお友達ですし、ちゃんと紹介されましたもの」
「へえ? それで可愛いって言われて喜ぶんだ。単純だね、エリカさんって」
「か、可愛いって言われれば、女の子なら誰だって喜びます!」
「そう?」
殿下は馬鹿にしたように応えると、また歩き出した。
何なのよ、もう!
強く掴まれているわけじゃないのに振りほどけない手は、なんだか仲良く繋いでいるみたいで居心地が悪い。
それにだんだん腹が立ってきて前を行く殿下を睨みつけた。
「そんなに怒らないでほしいな」
「え?」
「鼻息が荒いよ」
「ええ!?」
前を向いたままでどうしてわかったのか不思議に思ったわたしに、殿下の一言。
慌てて鼻を押さえたけれど、これって意味ないわよね。
乙女として恥ずかしすぎてちょっと泣きそう。
そんなわたしの気持ちなんておかまいなしに、殿下はまた意地悪な笑みを浮かべて振り向いた。
「人の多い王都でも、みんなが顔見知りのこの村でも、死角はたくさんあるんだよ」
そう言われて、今いる場所に気付く。
いつの間にこんな狭い路地に入っていたのかしら。コレットさんとは通らなかったわよね?
近道なのかなと、先を覗こうとして殿下の腕に阻まれる。
「……殿下?」
「今は違う」
「っ…ヴィー、もう行かないとコレットさんが心配します」
「…ああ、大丈夫だよ。彼女はちゃんとわかっているから」
何を? とは思ったけれど、口には出さなかった。
だって、そんなことよりもこの状況が問題なんだもの。
狭い路地の壁に手をついた殿下の勢いに押されて、気が付けばわたしも壁を背に立っている。
こんなに近いと今の自分がどんな顔をしているのか気になって仕方ない。
それなのに殿下はさらにぐっと近づいた。
「エリカさんは可愛いよ。僕はエリカさんが世界で一番可愛いと思う」
目を合わせられなくて俯いたわたしの耳元で囁かれた甘い言葉。
かっと顔が熱くなったけれど、これは信じてはダメ。
だって殿下はからかっているだけなんだから。
「へ、変なこと言わないで下さい」
「なんだ。喜ばないじゃないか」
深く息を吐きながら体を起こした殿下の顔には笑みが浮かんでいる。
やっぱり冗談だったんだわ。
またまた腹が立ってきて、殿下の体を力いっぱい押した。
「もう! いい加減にして下さい! いつもそうやってからかって、意地悪ばっかり!」
わたしが押した勢いで一歩二歩と殿下が後ろに下がった隙に歩き出す。
だけど路地を出るという所で、殿下にまた手を掴まれて引き止められてしまった。
「意地悪なんてしていない。いつもいつも本気にしないのはエリカさんだろ? ずっと前にも僕は言ったよね? エリカさんは可愛いって。いい加減に思い出せよ!」
今までにない強い口調とは逆に殿下の表情は苦しげ見える。
どうしてそんな顔でそんなことを言うの? わけがわからない。
ううん。わからないのはその言葉だわ。
ずっと前っていつ? 入学してすぐ? 子供の頃?
でもそれだと――。
「エリカ!」
ぐるぐるしていたわたしの思考に割り込んだのはお兄様の声。
瞬間、殿下は手を離した。
駆け寄るお兄様から殿下に目を戻すと、何事もなかったようにいつもの笑顔が浮かんでいる。
「エリカ、女性だけで出掛けたら危ないだろう? しかも野原なんて。ここは森も近いのに魔獣でも出たらどうするんだ」
「……そうなれば採掘師の方達は喜ぶでしょうね。森へ行く手間が省けるんですもの」
「冗談を言ってるんじゃないんだぞ。でんっ……ヴィーだって心配していたんだ」
「ええ、わかっています。今だってお説教されたばかりですもの」
そうよ。そういうことなのよ。
要するに殿下もお兄様と同じように女性だけで出掛けるのは危ないって言いたかったのよね?
殿下は女性はか弱くて守るべき相手だって言われて育ったはずだから。
確か、こういうシーン『レディ・ジューン』でもあったわ。
旅立つ前に幼馴染の男性とケンカしてしまって――。
「で、コレットさんはどこなんだ? まさかまだ一人で野原にいるんじゃないだろう?」
「ああ、いえ。コレットさんはお友達と一緒です。たぶんもうお家に帰っていると思います」
「……そうか」
「では、僕は宿に戻るよ。明後日の早朝には出発だから、明日また詳しい話を詰めよう。エリカさん、いいね?」
「は、はい」
「レオンス、あとは頼んだよ」
「かしこまりました」
お兄様はどうしてコレットさんと別行動をしているのか訊かなかったし、殿下もわざわざ口にはしなかった。
殿下のきびきびとした態度はこの旅で何度も目にした〝王子殿下″のもの。
「エリカ、帰るぞ」
「……はい、お兄様」
今度は一度も振り返ることなく殿下は去って行った。
なんだかすっきりしないけれど、今考えることではないわ。
明後日にはいよいよ森へ行くんだもの。




