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「ぼ、僕達と言いましても、実際にはそのようなものは存在しませんでして、殿下が庇って下さったことはとても有り難いのですが、わたしには……」
思わぬ言葉に驚いて、わたしがしどろもどろに応えていると、殿下はくすくす笑い出した。
ひょっとして、またからかわれたの?
ちょっとむっとしつつ、その表情を探ってみてもよくわからない。
いったい何なの?
「いや、笑ったりしてごめん。だけど、先ほどまでのエリカさんとあまりに違うから、つい……」
「……先ほどの、やっぱりお聞きになっていたんですか?」
「僕はちょっとだけね。教室を出る時にドアの留め具で隙間を作ったやつがいたんだろう。それで声が洩れていたんだよ」
防音が施されている教室内の会話が聞こえるはずはないのにと不思議だったけれど、そういうことね。
なんて姑息なの。本当に男子って最低。
その気持ちがまた顔に出ていたのか、殿下は堪え切れない様子で吹き出した。
「野次馬根性に男子とか女子とかは関係ないよ。いつでもどこでも何にでも、知りたがって首を突っ込みたがる人間はいるんだから」
「だとしても、最低です」
「うん、男子って最低だよね? ちなみに、さっき誰かが言っていたよ、「女子、こえー!」って」
はあ? 何よ、それ。
盗み聞きした男子にも腹が立つし、勝手なことを言う男子にも腹が立つけれど、殿下にはもっと腹が立つわ。
さっきまで怒っていたはずなのに、今は明らかに面白がっているもの。
もう付き合っていられない。
「面白かったようで何よりですわ、殿下。ではこれで帰らせて頂いてよろしいでしょうか? これ以上遅くなると、御者が心配いたしますので」
「ああ、それは大丈夫だよ。マティアスがエリカさんは少し遅くなると伝えてくれているはずだから」
「……何のために?」
持ってもらっていたままだった鞄を受け取ろうとして差し出しかけた手が止まる。
驚いて見上げた殿下の顔にもう笑いはなかった。
どうしてそんなにころころ変わるの? やっぱり殿下は訳がわからないわ。
「実はエリカさんにお願いがあるんだ」
「お願い?」
「そう。今晩にでも侯爵家に伺ってお願いしようと思っていたんだけどね。どうか僕と正式に婚約して頂きたい、と」
「は? 冗談は――」
「もちろん本気だよ。エリカさんが僕のことをどう思っているかはわかっているし、不本意な立場に追いやってしまうこともわかっている。それでも頼みたいんだ」
信じられない言葉にわたしの口がぽかんと開いた。
すぐに気付いて慌てて閉じたけれど、わたしの間抜けな顔にまた笑うそぶりもなく、殿下は応えを待っている。
「で、ですが……わたしには無理だと……」
「ああ、確かに。でもあの時に比べて今のエリカさんは変わったよね? まあ、根本的なものはそう簡単には変わらないだろうけど、土壇場での適応力はあるみたいだから大丈夫じゃないかな。先ほどのような演技力を発揮してくれれば問題ないよ」
いいえ。問題は大ありよ。
わたしが夢見ていたプロポーズはこんなものじゃないもの。こんな埃っぽい学習準備室に半ば閉じ込められた状態で事務的に言われるなんて。
そもそもこれはプロポーズなのかしら。
もちろん違うに決まっているわ。だって、結婚してほしいって言われたわけじゃないもの。
「婚約、ということですが……どうしてそこまで、なぜわたしなのですか? 他にもきっと――」
「いや、今の状況でエリカさんの他に適任者はいないんだ。先ほども話題にのぼっていた通り、妃殿下はバルエイセンから婚約者候補とやらを呼び寄せようとしている。それに伴い、また多くのバルエイセンの者がこの国に入り込むだろう。だが、このところ陛下はお体の調子が思わしくなく、王太子殿下には妃殿下を阻止するだけの力がない。だから、そうならないためにも、エリカさんというアンドール侯爵家の力を借りたいんだ」
「……すみませんが、わたしには何が何だかさっぱりわかりません」
確かに陛下もお年だからそろそろ退位されるのではないかとの噂は聞いたことがあるけれど、そこまでお悪いのかしら。
妃殿下のご実家の影響力を阻止することが難しいほどに?
でもバルエイセンよりもこの国の方が圧倒的に国力は強かったわよね?
それなのにどうして一臣下でしかないアンドール家に頼らなければならないの?
色々な疑問が頭の中をめぐるけれど答えは見つからない。
わたしにもわかるような説明を待っていると、殿下はゆっくりと口を開いた。
「たとえば……以前も言ったと思うが、ベッソン商会はこの国で大きな発言力を手に入れている。それも元は妃殿下の後押しがあったからなんだ。魔法石を扱う権利をベッソン商会が得たのは妃殿下派の力があってこそだからね。そして気が付けば、諸外国からの魔法石の仕入れに関してはベッソン商会が独占してしまっていた。それだけでも問題なんだが彼らは巧妙に……いや、まあ、とにかく僕がエリカさんと婚約することによって、彼らの思惑を阻止することができるだろう。エリカさんが相手なら、サジュマン伯爵夫人の予想とは違って妃殿下も反対することはできないんだから」
殿下は何かもっと言いかけて、結局は話をまとめてしまった。
気にはなるけれど、たぶんわたしには理解できないだろうから諦める。
今回のお話は要するに、わたしと婚約することで殿下はアンドール侯爵家の後ろ盾を得て妃殿下とその派閥に対抗しようってこと?
前から思っていたけれど、殿下は妃殿下のことをまるで赤の他人のように話すのよね。
ノエル先輩のことなどで色々と確執があるのかもしれないけれど、実の親子なのに気の毒だわ。
まあ、余計なお世話ね。
わたしだって今、家族崩壊の危機に瀕しているんですもの。全てわたしのせいで。
本当はこのお話を受けるべきなんだと思うわ。
この国のためにも、お母様達を安心させるためにも。
でも、やっぱり無理。だってわたしはギデオン様が好きなんだもの。
「殿下、お話はわかりました。ですが、わたしには――」
「ギデオンのことが好きなんだろう? だが、それとこれは別で良いんじゃないかな」
「べ、べべ、別に! わたっ、わたしはっ! 良くないです!」
何で!? どうして知ってるの!?
まさかお母様が殿下にまで話したの!?
い、いいえ、さすがにそんなわけないわよ。昨日の今日ですもの。
混乱してあたふたしていたわたしは、殿下がじっと見ていることに気付いて我に返った。
お、落ち着かないと。
ここは冷静になって対処するべき場面だわ。
一度大きく深呼吸をして見返すと、殿下の顔には苦い笑みが浮かんでいた。
「エリカさんの一番の欠点は感情を上手く隠せないことだね。みんな思い込みが強すぎて気付いていないけど、ちょっと見ていればわかることなのに。まあ、ギデオンは敢えて気付かないようにしているんだろうけど。だからあいつのことは早く諦めた方がいいよ。このまま想い続けていても、つらいだけなんだから」
「か、勝手なことを言わないで下さい! そんなことわからないじゃないですか!」
「わかるよ。恋だの愛だのって感情は独りよがりの身勝手なものなんだから。僕達のような立場のものには邪魔でしかない。それにほら、初恋は実らないって言うじゃないか。そう思って忘れてしまえば、誰も傷つかないよ」
やっぱり無理! たとえお芝居だとしても、こんな最低な人と婚約なんてできないわ!
そう思って初めて、殿下との婚約に少しだけ傾いていたことに気付く。
でももう知らない。わたしが関わらなくても、きっと優秀な殿下ならどうにでもできるわよ。
「わたしはたとえ邪魔だと言われようが、恋も愛も大切にしたいんです! さようなら!」
自分のどこにそんな力があったのか、怒りに任せて殿下から鞄を奪うとドアの前から押しのけて走り出した。
ええ、わたしは廊下だって走るし、恋だってするわ。
それが侯爵令嬢として相応しくない振舞いだったとしても知るものですか。ふん!
角まで来ると、殿下が追って来る気配がまったくないことに安心して歩みに変えた。
また誰かとぶつかっても困るものね。
冷静な自分に戻れたことにほっとして、待ってくれていた馬車に乗り込む。
すっかり遅くなってしまったけれど、帰ったらちゃんとお母様に謝るんだから。
馬車の中ではグレースさんやロレーヌさん、殿下のことも考えないようにして、ぶつぶつと謝罪の言葉を繰り返した。
だから屋敷に戻った時、いつものようにお母様が出迎えてくれなくて拍子抜け。
どうやら怒っているわけじゃなく、珍しく自室の居間にお父様といると聞いて、知らせに行こうとした執事のクレファンスを止めた。
ここは自分から出向いて謝るべきだもの。
着替えも後回しにして鞄をクレファンスに預け、階段を駆け上る。
前室に入ったところで呼吸を整え、居間へと繋がるドアをノックしようとして、手を止めた。
ドアはわずかにあいていて、ぼそぼそとした話声の中に「エリカ」と聞こえてしまったから。
いけないとわかっているのに。さっきは最低だと思った行為を自分がしてしまうなんて。
「――だから、エリカが可哀そうで……」
「ああ、だが私達には何もしてやれん。あの時、あれだけ結婚はしないと泣いたエリカに結婚したいと思うほどの相手ができたのだから、本来なら許してやりたいが……。よりにもよってギデオン君とはな」
「でも、エリカは昔からギデオンさんにはとても懐いていましたもの。あのことがあって、お部屋に閉じこもってしまうようになっていたエリカが、再び笑うようになったのもギデオンさんのお陰と言ってもいいほどに。ギデオンさんはエリカのお相手として、本当なら申し分のない方だったのに残念だわ」
二人の会話はわたしとギデオン様のことで、恥ずかしくなってしまった。
でも何かがおかしい。
本来なら許すって、残念だなんて、どういうこと?
今すぐ問い詰めたくなるのを必死に抑えて、二人の会話にさらに耳を澄ます。
「――彼ほど将来有望な若者はいないというのに、残酷なことだな」
「ええ、まさか失力症だなんて……。発症してからもう三年になるかしら?」
失力症? 病気なの? ギデオン様が?
思わず声を上げそうになって唇を噛みしめ、そっと後ろに下がる。
そしてどうにか音を立てずに廊下に出ると、急いで図書室に向かった。
どこかで聞いたことがあるけれど、どんな病気かはわからない〝失力症″を調べたくて、何度か目を通したことのある医学書に手を伸ばす。
急いでページをめくり、目当てのページを探し当てて指で字を追った。
「うそ……」
書かれていたことが信じられず、書架から別の医学書を取り出す。
それでも内容は同じ。
『失力症:非常に稀な病で原因は不明。突然、脱力感に襲われ日常生活も困難な状態に陥る。症状は一日ほど続き、また突然回復するのが特徴。病の進行と共に、発作の頻度も多くなり、やがては起き上がることも困難になり、発症から三年ほどで死に至る。現在のところ、治療法はない』
また別の医学書を手に取り、ページを繰って絶望する。
――発症から三年ほどで死に至る。
まさか。信じられない。信じたくない。
心は信じることを拒絶しているのに、頭の隅でそういえばと考えている自分がいる。
ギデオン様が我が家に遊びに来られなくなったのが三年前。
静まり返った図書室に低い声が響いて、自分が泣いていることに気付いた。
でもそれからはよく覚えていない。
ただ、一条の光もない闇の中をずっと彷徨っているような、そんな夢を見ていた。




