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「エリカさん、今日も図書室にいらっしゃるんですか?」
「……ええ、迎えの馬車が来るまでね。どうかしたの、フェリシテさん?」
殿下とフェリシテさんが教室で話をするようになってから、お役御免とばかりにわたしは今まで通りの生活に戻っていた。
魔法光学については、入れ替わり立ち替わり興味を持った面々が加わって、話し合いというより討論になっているらしい。
お陰でわたしの放課後は図書室で時間を潰したり、リザベルに付き合ってもらってギデオン様の研究室を訪ねたりと充実している。
ノエル先輩とはあの日以来、お会いしていなくて少し拍子抜け。何を言えばいいのか、色々と悩んでいたのに。
そして、ギデオン様は相変わらず優しいお兄様止まりで、片想いに進展はない。
いっそのこと告白してみようかしら。
でも、断られたあとが気まずいわよね。それどころか、わたしを傷付けないために無理に応えてくれるかもしれない。そっちの方がよっぽど悲しいわ。
そうね。やっぱりこの気持ちはまだ秘密。どうにか好きになってもらえるように頑張ればいいのよ。
魔法技だって努力したお陰で、基礎的なものなら扱えるようになったもの。
いつかギデオン様も振り向いて下さるかもしれない。うん。片想いだって悪くないわ。これぞ青春よ。
「エリカさん、聞いていらっしゃいます?」
「え? あ、ごめんなさい。ちょっとぼうっとしちゃって」
いけない、いけない。
また自分の世界に入って、フェリシテさんの話を聞いていなかったわ。
「……あの、今度のことではとてもお世話になったので、お礼をさせて頂けないかと思っているんです」
「いいのよ、お礼なんて。それほどのことは何もしていないわ」
「いいえ。十分にして頂きました。それで、もしよろしければ、急なんですが明日のお昼からお出掛けしませんか?」
「明日?」
「はい。実はトレルノ通りに新しく出来たパティスリーが明日、プレオープンするんです。そこに一緒に行けたら嬉しいなって思って……」
真っ赤になったフェリシテさんの声はだんだん小さくなっていく。
ああ、どうしましょう。これは憧れのお友達デートの予感。しかも新しく出来たパティスリーだなんて!
まあ、新しいも何も、パティスリーには行ったことがないんだけど。
お出掛けにはいつも家族が一緒だったし、お母様は外での食事を嫌がるから。
あら? でも……。
「まだプレオープンなのでしょう? わたしが行ってもいいのかしら?」
「はい、もちろんです。実はそのパティスリーは父の経営するベッソン商会の店舗部門が手掛けているんです。ですから、正直に言えば、グランドオープン前にエリカさんにお店の評価を頂きたくて。それで、もし良ければお友達に広めてもらえたらって……。ごめんなさい。お礼といいながら、利用するようでずうずうしいですよね……」
「まさか! そんなことはないわよ。わたしの意見が参考になるとは思えないけれど、是非ご一緒させて頂きたいわ」
「本当に? 嬉しい!」
フェリシテさんとは結局、会話らしい会話はちゃんとできなくて、頭が良すぎるから、わたしとは付き合えないんだろうって勝手に思っていたけれど、偏見だったみたい。
お友達とお出掛けなんて、お兄様の付き添いありでリザベルと王立劇場へ観劇に行ったことが一度あるだけだから、ちょっと緊張するわ。
ちゃんと会話できるかしら。おうちに帰ったら、〝場面別会話用例集″を読み返さなくちゃ。
それに何を着て行けばいいの? ああ、こんなことならこの間ドレスを新調しておけば良かった。
「それでは明日、我が家の馬車でエリカさんのおうちまでお迎えに参りますね」
「あら、わざわざ申し訳ないわ」
「いいえ。こちらからお誘いしたのですもの。ですが、もし我が家の馬車ではご迷惑なら――」
「もちろん大丈夫よ! 楽しみにしているわ!」
それから詳しい時間を決めてフェリシテさんと別れると、浮かれた足取りで研究科棟へと向かった。
図書室に向かうつもりだったけれど、予定変更。
このわくわく感を早く誰かに話したくて、ジェラールお兄様に目標を定める。
もう迷うことなくお兄様の研究室前まで来ると、いきなり中からドアが開いた。
「ギデオン様!?」
「……やあ、エリカちゃん。こんにちは。ずいぶん楽しそうだね?」
「こ、こんにちは。そうなんです。明日、お友達とお出掛けすることになって……」
「そうか。それは良かったね。だけど街には治安が悪い場所もあるから、気を付けて行くんだよ。じゃあ、ジェラールは中にいるから。またね」
「はい。また……」
どうぞと手振りで促されて研究室内に入ると、ギデオン様は優しく微笑んでドアを閉めてくれた。
思いがけずギデオン様にお会いできて嬉しい反面、すぐにお別れで残念。
(ああ、物足りない。もっとギデオン様とお話したかったわ……)
浮かれていた気分もすっかり冷めて、室内へと振り返ったけれど誰もいない。
不思議に思ってお兄様がいつも使っている机に近づくと、珍しいペンダントが目に入った。
(黒曜石?……いえ、魔法石かしら……?)
窓から差し込む光がまぶしくて判別がつかない。
もっとよく見たくて、ペンダントへと手を伸ばしたその瞬間――。
「それに触るな!」
背後からの鋭い声に、びくりとして手が止まった。
「ご、ごめんなさい、お兄様。わたし……」
初めて聞くお兄様の怒った声に、体が震えて上手く言葉が出てこない。
何かとんでもないことをしてしまったのかもしれないと思うと、体から血の気が引いていく。
ジェラールお兄様はそんなわたしを見て、はっと我に返ったように表情をゆるめ、慌てて駆け寄ってきた。
「違うんだ、エリカ。ただちょっと驚いて過剰に反応してしまっただけで、エリカが悪いわけじゃない。怒鳴ったりして、ごめんよ」
そう言ってお兄様はわたしを優しく抱きしめてくれるから、堪えていた涙が溢れてしまった。それにまたお兄様が驚いて謝ってくれる。
お兄様が悪いわけじゃないのに。怒られて泣くなんて、まるで子供みたいで情けないわ。
「わたしが悪いのよ、お兄様。勝手に触ろうとしてしまったんだもの。大切なものだったのね」
「エリカより大切なものなんてないよ。だから……ほら、泣きやんで?」
ハンカチでわたしの涙を拭いてくれるお兄様の大げさな言葉がおかしくて、ふふっと笑いがもれる。
「お兄様、そういう言葉は恋人のためのものですわ。だから早く恋人を見つけて下さい」
「手厳しいな。こんな朴念仁でもいいっていう、奇特な人が現れないんだよ」
困ったように笑うお兄様は疲れているのかお顔の色は悪いけれど、とってもかっこいい。
恋人ができないのは、その気がないからだわ。三男だからって気まま過ぎるのよ。
でもデュリオお兄様がもうすぐ結婚されて落ち付いたら、きっとお母様は黙っていないと思うわ。
「それで、何の用だったんだい?」
「え? ああ、ううん。何でもないの。ただお顔を見たかっただけ」
ようやく落ち着いてソファに腰を下ろしたところで、お兄様にそう問われて曖昧に答える。
お出掛けのことをおしゃべりする気分じゃなくなってしまったけど、こうしてお兄様とお話できるだけで楽しいもの。
ギデオン様にもお会いできたし、今日はついているわ。
まあ、ちょっと失敗してしまったけど……。
「ねえ、お兄様。あのペンダントの石は魔法石ですか?」
「あ、ああ、……うん。そうだよ。やっぱり興味がある?」
「ちょっと珍しいなと思ったんです。魔法石をペンダントにするなんて。しかも、黒色の魔法石は初めて見ました」
「……そうだね。一般に流通している魔法石は乳白色だからね。でも、最近は青や緑色の貴重な魔法石も取引され始めているんだよ。アンドール侯爵家の領地には良質な魔法石の産出地もあるから、エリカも知っておいた方がいいかもね。ただ、そのペンダントは預かっているものだから、触らせてあげられないんだ。ごめんね」
「いいえ。わたしが悪いんですから、もう謝らないで下さい」
また謝罪合戦が始まりそうだったので、座ったばかりのソファから立ち上がる。
きっとお兄様は大切な研究の途中だったでしょうし、わたしも明日着て行くドレスを選ばないといけないから、もうお暇しないとね。
「お兄様、突然訪ねてしまって、すみませんでした」
「え? もう帰るのかい? まだ来たばかりなのに」
「何も言っていないので、あまり遅くなるとトムに心配をかけてしまいますし、お兄様のお邪魔もできませんから。ありがとうございました」
「うーん、わかったよ。今度はゆっくり遊びにおいで」
「でしたら、お兄様がおうちに帰って来て下さい」
「はは。そうだね」
別れ際にはいつものやり取りになって、わたしは笑顔で研究室から出ることができた。
馬車寄せまでは、わたしの荷物を持ったルイが送ってくれる。
「ルイ、いつもありがとう。それに、噂のことも。お兄様には心配をかけたくないから助かるわ。お兄様のお耳に入ってしまう前に、早く何とかしたいのだけれどね……」
「もったいないお言葉を頂き、恐縮でございます。ですが、エリカ様がお気になさる必要はございません。あのように悪意に満ちたデタラメな噂など、すぐに消えてなくなります。実際、侍従達は子供騙しの噂だと、皆信じておりませんから」
気遣いに溢れたルイの言葉に感謝の笑みを向けて、待っていた馬車に乗り込む。
確かに、未だにお母様のお耳に入った様子はないから、夫人達の間ではまだそれほどに広まっていないみたい。
ひょっとして、このまま落ち着くかもしれないわね。ロレーヌさんとのいざこざ以来、悪意ある新しい噂もないし。
だけど、どうもしっくりこないのよね。うーん。
まあ、わからないことを悩んでも仕方ないし、楽しいことを考えようっと。
初めてのお友達デート。初めてのパティスリー。
ああ、楽しみ!




