15
「おはよう、エリカ」
「リザベル……おはよう」
昨日はあれから真っ直ぐに帰ることなんてできなくて、部活中のリザベルに泣きついたのよね。
リザベルはすごく真剣に聞いてくれたけど、最後にマティアスに向かって啖呵を切ったところでは大笑い。
でもその後はちゃんと慰めて励ましてくれた。
殿下達が大人を巻き込むことはないだろうってことと、ルイザ先生に関しては生徒達に嫌われているから気にする必要はないって。デボラさんやフェリシテさん達のことは注意深く様子を見ましょうって。
それでどうにかわたしも落ち着いたけれど、やっぱりみんなとは顔を合わせずらい。
本当は学院を休んで一日中部屋に籠っていたいぐらいに。
だけどもう子供じゃないから。
あの時のようにお父様やお母様達にまた心配をかけてしまうわけにはいかないもの。
それで自分を叱咤してどうにか登校したものの、一人で教室に入るのは怖かった。
だからこうして、リザベルが馬車寄せでわざわざわたしを待っていてくれたことが嬉しくて、胸がいっぱいになる。
「ありがとう、リザベル」
「何のこと? まあ、とにかく行きましょう」
「……ええ」
いつもの笑顔にいつもの調子のリザベル。
リザベルが友達でいてくれるなら、もう学院中から嫌われたっていいわ。
でもリザベルまで悪く言われるのはいや。だから、頑張らなくちゃ。
そう決意したのに、昼休みにジェレミーから聞かされた残念な噂。
「わたしが、フェリシテさんを?」
「うん。クラスメイトの四人を従えてってね」
ジェレミーから聞いた話に、リザベルとわたしは顔を見合わせた。
わたしとデボラさん達がフェリシテさんを囲んで罵っていたっていう噂がこんなに早く広がるなんて、どう考えてもおかしい。
「デボラさん達はもちろんのこと、被害者のフェリシテさんが昨日のことを言いふらすとは思えないわ。コレットさんもそんなタイプには見えないし、まさかルイザ先生ともねえ……」
リザベルの呟きにわたしも頷いた。
やっぱり誰かがわたしを見張っているのかしら? そんな気味の悪いことが本当にある?
だとしたら、その後のことは?
「ねえ、ジェレミー。噂はそれだけ? 研究科生のことや、ヴィクトル殿下とマティアスさんのことは?」
「いいや、他には何も。殿下達と何かあったの?」
心配するジェレミーにリザベルが簡単に説明すると、彼まで笑い出した。
ちっともおかしくなんてないのに。
それにしても、もしこれが他の噂と同じ誰かの仕業だとしたら、もうどうでもいいなんて言えない。
こうして仲良くしてくれるリザベルやジェレミーに迷惑をかけないためにも、何か手を打たないと。
そう決意した時、視線を感じて振り向くとロレーヌさんと目が合った。
すぐに逸らされてしまったけど。
「……今日はロレーヌさん、デボラさん達とは一緒じゃないのね」
「トカゲのしっぽ切りじゃない?」
「え?」
そこで予鈴が鳴ったので話は中断。
教室に戻りながら、リザベルが以前言っていたことを考える。
――犯人は令嬢の中の誰か、またはその関係者。
あの時は「まさか」との思いが強かったけれど……。
「――いたっ!」
教室に入ろうとしたところで誰かの背中にぶつかって、思わず声が洩れる。
考え事に夢中になるあまり、前をよく見ていなかったわ。
「ごめんなさい」
「……最低だな」
鼻を押さえながら謝罪したわたしに、振り向いた彼からの一言。
またこの人なの? 入口で立っていたそちらにだって非はあるでしょうに、最低なのはどっちよ! 謝って損したわ!
「礼儀も守れない人よりは、ましだと思いますけど?」
かなり背の高い相手をどうにか見下せるように、顎を精いっぱい反らす。
するとマティアスはぴくりと頬を引きつらせ、それからわたしを睨みつけて席に向かった。
無視するなんて、やっぱり礼儀がなっていないわ。
気が付けばクラスの注目の的になっていたけど、構うものですか。
でも、後ろでくすくす笑うリザベルには抗議したい。少しは助けてよ。
どうも最近、ぶつかり運が悪いわ。そんな運があるのかわからないけど。
たぶんギデオン様のことで幸運を使ってしまったからね。
まあ、それでギデオン様と幸せになれるのなら、安いものだもの。
そう思っていたわたしに、二日後、信じられない幸運が訪れた。
* * *
「エリカ・アンドールさんはいるかな?」
「ギデオン様!?」
教室の入り口でわたしを呼ぶギデオン様の姿に驚いて、必要以上に大きな声が出てしまった。
慌てて口を押さえたけれど、今さらよね。
みんなの視線を浴びながらギデオン様のもとに駆け寄る。
「すみません、ギデオン様」
「ん? 何が?」
「大きな声を出してしまって……その……」
「ああ、気にしなくていいよ。エリカちゃんと噂になるのは光栄だって言ったよね? そもそも驚かせたのは僕だよ」
廊下の突き当たりにあるホワイエに向かいながら、注目を集めてしまったことを謝罪すると、ギデオン様は優しく微笑んで首を横に振った。
そうか、研究科生のギデオン様が高等科の校舎にいれば、目立つのは当たり前よね。しかもこんなに格好良いんですもの。
それにしても次の授業が教室移動じゃなくて良かった。すれ違っていたら、ショックは大きかったに違いないわ。
「せっかくの休み時間に、ごめんね」
「いいえ。もちろんかまいませんわ」
それどころかすごく嬉しいです。
いっそのこと時間が止まればいいのにと思ってしまうほど。
そうすれば、ずっとギデオン様のお顔を見ていられるもの。
あ、でもわたしの顔をずっと見られるのは困るわ。驚いたばかりに鏡でチェックしていないけど、大丈夫かしら?
「――でね、ちょっと心配になったんだけど、大丈夫かい?」
「え? 大丈夫に見えませんか?」
嫌だ、どうしよう!? マスカラ? アイライン? 鏡は……あっ、机に置いてきてしまったわ! なんてこと!
「うーん。大丈夫には見えるけど、噂っていうのは無責任なものばかりで、気にしないでいようと思っても難しいからね。だから困ったことがあれば、遠慮せずに頼ってほしいな」
「……ありがとうございます」
ギデオン様はわたしの噂を聞いて、わざわざ高等科まで来て下さったんだわ。
それなのにマスカラなんて心配して、話を聞いていなかった。わたしって本当に馬鹿。
「あの、噂ってそんなに広がっているんでしょうか?……研究科にまで……?」
「ああ、それは心配いらないよ。ただ僕は気になっていたから、侍従のアルドに情報を拾うように頼んでいたんだ。彼らは噂話には通じているしね。それと、ルイには口止めしておいたから、ジェラールは知らないよ」
「本当に……ありがとうございます」
良かった。お兄様は知らないんだわ。
もし知られたら心配をかけるもの。でもお母様やお父様に知られてしまうのは時間の問題かしら。そうなると学院をやめないといけなくなるかもしれない。
そのことを考えていなかったわたしって、救いようのない馬鹿ね。
「お礼なんていらないよ。まだ何もできていないんだから。それに僕が勝手に、エリカちゃんに夢中になっているだけだからね」
最後の言葉をことさら強調して、ギデオン様はテーブルの上のわたしの手に手を重ねた。
突然のことに思考は停止してしまって、それなのに心臓はびっくりするくらい速く打っている。顔だけじゃない、全身がカッと熱い。
きっと今のわたしは燃え上がる魔法石のように真っ赤だわ。
口から飛び出しそうなほど賑やかな心臓を落ち着かせるために、一度大きく息を吸って吐いて、それからちらりとギデオン様を見た。
その表情は穏やかで温かくて、やっぱり瞳に星はない。
いつもの優しいギデオン様は、わたしを冷静にしてくれた。
「ギデオン様にそこまでして頂かなくても……」
「何を馬鹿なことを。ブランショ伯爵家の彼には及ばないけれど、想うだけなら自由だよね?」
震えを抑えたわたしの小さな声は、ギデオン様の断固とした声にかき消えてしまった。
そこで予鈴が鳴り、ギデオン様は立ち上がるわたしに手を貸してくれ、教室まで送ってくれた。
去っていく大きな背中を見送っていると、振り向いたギデオン様は困ったように笑って、手ぶりでわたしに入るように促す。
ギデオン様はわたしの知る誰よりも完璧な紳士だわ。
どこの誰ともわからない人と噂になるのは〝はしたない″けれど、紳士から求愛されるのは淑女として名誉なこと。
だからギデオン様はわざわざ高等科まで来て、求愛しているふりをしてくれたんだわ。
今ある不名誉な噂も、次期伯爵家当主のジェレミーとギデオン様、二人の紳士に求愛されていることに比べれば、大した問題じゃないもの。
廊下の向こうにいるギデオン様にわたしも笑って手を振って、教室に入る。
もうみんなの視線も気にならない。
リザベルは興味津々で待っているけれど、話は次の休憩時間ね。
だからそれまでは、一人で幸せに浸っているわ。