113
「火が、消えた?」
ぽつりと呟いたのはマティアス。
小さくなっていたオレンジ色の炎がふっと消えて、白く細い煙がゆっくりと立ち上っている。
「どうかな。炭に火が残っている可能性は高い。まだ油断しないほうがいいだろう」
厳しい意見は殿下。
だけどみんなもマティアスさえも頷く。
そこに場違いなほど明るい声が響いた。
『エリカー! ありがとーう!』
小さな影が勢いよく近づいてきて、わたしに飛びつく。
もちろんそれはロンだったけれど、きれいな白色の毛はすっかり灰色に変わっていてしまっていた。
まあ、灰色に変色してしまっているのはロンだけじゃなく、たくさんの魔法石も、わたしたちも同じだけど。
『ありがとう、エリカ! もう火は消えた。念のためにシンたちが探っているけれど、火種は今のところないって!』
「本当に?」
『ああ! エリカのおかげだ!』
「いいえ、わたしだけじゃないわ。みんなよ。ロンもシンたちも、ありがとう」
『俺たちはいいんだ。自分たちの森だからな。それから、まあ、お前たちもありがとうよ』
「おい、ずいぶん雑だな!」
ロンの言葉にみんなが沸いた。
それからマティアスの突っ込みでその場にどっと笑いが起こる。
みんな疲れ果てているはずなのに、その表情は明るく、すぐに殿下の指示に従っててきぱきと動き始めた。
「エリカさん、ひとまず宿へ帰ろう。疲れただろう?」
「あの、でも……」
何人かの騎士はお兄様とともにその場に残って監視を続けるらしく、ちょっと心配。
そんなわたしのためらいを察したのか、殿下は安心させるように微笑んでくれた。
「彼らは大丈夫だよ。確かに魔力は消費してしまっているが、鍛えているからね。回復も早い」
「そうだぞ、エリカ。気にするな。それよりコレットさんと一緒に宿に帰ってゆっくり休んでくれ。私は二人のほうが心配だよ」
「――わかりました。それではお兄様、皆さま、あとはよろしくお願いいたします」
お兄様に促されて、残る騎士たちに頭を下げる。
そんなわたしに騎士たちは慌ててしまって、かえって気を使わせてしまったことを反省しながら殿下に支えられて馬に乗った。
コレットさんはマティアスの馬に乗せてもらっている。
今はもう、みんながみんな煤まみれで煙臭くて、開き直って殿下と一緒に村へと戻った。
体はすごくすごく疲れている。
本当は今すぐお風呂も入らず眠ってしまいたい。
それでも村に近づくと出迎えの人たちがいっぱいで、わたしも殿下も微笑みを浮かべ手を振り応えた。
「エリカさん、ごめんね」
「わたしは大丈夫ですから」
殿下が何に謝っているか、わざわざ訊いたりなんてしない。
これはわたしが選んだ道だもの。
だけど殿下は選ぶこともなく定められたこと。
それなのに逃げることなく真っすぐに向き合う殿下をわたしは心から尊敬している。
そしてわたしは、少しでも殿下を支えたい、助けたい。
今はまだ全然その力はなくても、これからきっと。
そう思ったのに、旅亭に着くなり殿下と別れて、気を効かせてくれた旅亭の奥様に部屋へと案内されてお風呂へと入れられた。
それから部屋付きのメイドにかいがいしく世話をされて気が付けばベッドの中。
殿下やコレットさんがどうしているかなんて、考える間もなく眠ってしまったみたい。
次に目を開けたとき――。
小鳥がちゅんちゅんと囀る声が聞こえて、ほっと胸をなで下ろしながらベッドから起き上がり、時計を見て驚いた。
もうお昼前!
慌ててベッドから飛び出ると、気配を察したのか部屋付きのメイドが顔を覗かせて、「すぐにお支度のご用意をします!」と言ってまた引っ込んでしまった。
どうやらわたしはこの旅亭で一番いいお部屋を占領してしまっていたらしく、隣の控えの間でコレットさんは眠ったとか。
それだけでも申し訳ないのに、殿下やギデオン様がどのお部屋を使ったのかを考えると気が引ける。
「まあ、エリカさん。そのようなこと気にしないでください。ベッドはとってもふかふかでしたし、何より昨日のわたしなら、泥の中でだって眠れましたから」
くすくす笑うコレットさんの優しい言葉に感謝しながら、みんながいるらしい食堂へ向かう。
ええ、朝食ではなくもう昼食よね。
食堂には殿下とジェラールお兄様、そしてギデオン様が同じテーブルに着いて何か話し込んでいた。
だけど、わたしの気配にみんなが気付いて顔を上げる。
「エリカさん! まだ無理して起き上がらなくても――」
「大丈夫です、殿下。遅くなりまして申し訳ありません」
「何を言ってるんだい。体だって丈夫じゃないのにエリカは誰よりも頑張ったんだから」
「そうだよ、エリカちゃん。食事はまだだよね? すぐに用意させるけど、部屋で食べるほうがいいかな?」
「いえ、こちらで……」
殿下が立ち上がって迎えてくれ、みんなも立ち上がって優しい言葉をかけてくれた。
それがかえって申し訳ない。
忙しそうな旅亭の方たちにさらに手間をかけるのも申し訳なくて、食堂でと言ったけれど逆に気を使わせてしまったかも。
すぐに用意された軽い食事を食べながら、付き合ってくれているコレットさんの話に耳を傾ける。
マティアスは森の見張りの交代に行っていること。
万一を考えて、これからひと月は見張りを置くことになったこと。
そのために近隣の街に応援を要請したこと。
見張りは盗掘を防ぐためでもあるみたい。今はまだ熱を持っていて焼け跡に踏み入ることはできないけれど、あと二日ほどすれば採掘師の方たちが焼け残った魔法石の回収に向かうらしい。
食事が終わるころになると、プラリスから手配してくれていたらしい身の回りの品が届けられたので、一度部屋に戻って着替えることになった。
わたしは村長さんの娘さんの若いころの服のままでもよかったのだけれど、殿下の婚約者として身だしなみを整える必要があるので仕方ないわよね。
着替え終わると、今後の話があるからと殿下の部屋へと呼ばれて向かった。
やっぱり重要な話は食堂ではできないもの。
部屋には戻ってきたレオンスお兄様もいるけれど、休まなくて大丈夫なのかしら。
「少し早いけど、明日にはこの村を発つことになった。プラリスは我々を受け入れるにはまだ難しいだろうから、少し無理をすることになるけれど、次の街のガイナに向かうよ。そこで態勢を整えて王都に帰還することになる」
「わかりました」
殿下の話はわたしとコレットさんに向けたもの。
もうすでにお兄様たちと話し合って決めたことだろうから、わたしは素直に従うだけ。
どうやら森が火事になってしまった話はかなり広がっているらしく、また鎮火に当たった殿下たちの話も伝わっているので、きっとこの先あちこちで歓迎されることになるだろうと。
そしてここからが一番大事な話。
陛下には、今回の火事は盗掘師による放火であると正式に報告するらしい。
その盗掘師たちはベッソン商会に雇われていたと。
これにはしっかりとした証拠はないらしいけど、そのあたりはいくらでも上げられるとか。
さらにはベッソン商会を使って暴利を貪っていた存在。
これについてははっきりとした明言は避けるらしい。それだけで、世間は噂して犯人を決めつけるだろうと。
要するに妃殿下派のことよね。
あとはもう一つ、気になることがある。
「あの……ユリウスさんはどうなるのですか?」
わたしの問いかけに一瞬、その場に沈黙が落ちた。
だけどすぐに殿下が厳しい表情のまま教えてくれる。
「……彼はこのまま拘束して王都へ連行するよ。もう前回のような寛大な処置をするつもりはないからね。あとは水面下でバルエイセンと交渉することになるだろう。今回の彼の所業を公にすれば、国内外からのバルエイセン王家への批判は免れなくなる。そして各国はこのケインスタインに同情的になってくれるだろう。それから、森が燃えれば本来どうなっていたか、今後のためにも公表するつもりだから、もう二度はないと思いたいね。それでも火を放つ方法がこの先漏れないようにするために……対処はするよ」
「――わかりました」
殿下がはっきりとは言葉にしなかった真実も含めて、わたしは頷いた。
政治の世界はわたしには難しいけれど、何があっても理解しなければいけないし、飲み込まなければいけないことだから。
怯えたりなんてしない。大丈夫。
その後に続いた話も真剣に聞き、時折笑い、やがて話も終わり、みんなが席を立って部屋から出て行こうとしたとき――。
「エリカさん、ちょっといいかな?」
「はい?」
殿下に呼び止められて振り返ると、そのままみんなは出て行ってしまった。
コレットさんはにっこり笑って、ギデオン様とジェラールお兄様は優しく微笑んで、レオンスお兄様なんてウィンクして。
「ごめんね、エリカさん。時間を取らせてしまって」
「いいえ、わたしは大丈夫です。どうしたんですか?」
すごく忙しいだろう殿下と違って、わたしは明日の出発まで特にしなければいけないことはないはずだし。
そう思って笑顔で答えたけれど、殿下はためらいがちにわたしの手を取り、長椅子へと座らせてくれた。
そして隣に腰を下ろす。
昨日と違って身だしなみも整えているし大丈夫と思いつつ、やっぱり殿下が近くてどきどきしてしまう。
ちっともそんな場合じゃないはずなのに。
「実はね……昨日のあの光魔法なんだけどね、どうやらかなり遠くまで輝きを放っていたらしいんだ。そしてまた奇跡として広まっているらしい」
「奇跡……ですか?」
「うん。それもまた、アンドール侯爵令嬢が起こした奇跡だとしてね。だから、先ほども言ったけれど、王都に帰るまでには前回以上の出迎えを受けると思う。だけどもし、それを望まないのなら回避する方法もあるんだ」
「殿下は……どうなさるのですか?」
「僕はまあ、王子としての義務を果たすよ」
「では、わたしも殿下の婚約者としての義務を果たします。以前も言った通り、覚悟はできていますから。わたしは殿下の力になりたいんです。ですから、この先もご一緒させてください」
こうして殿下が気を使ってくれるのは、わたしがまだまだ頼りないから。
でももう落ち込んだりしない。頑張るって決めたんだもの。
心からの言葉だと示すように微笑むと、殿下はじっとわたしを見つめ、急に長椅子から降りて足元に跪いた。
「……殿下?」
「エリカさん、僕と結婚してください」
「え?」
「今まで色々な言葉を並べ立てて、婚約の申し込みをしたけれど……そうじゃない。僕は、僕には、エリカさんが必要なんだ。この先もたくさんの苦労をかけることもわかってる。だけど傍にいてほしい。だからどうか、僕と結婚してくれないか?」
「――はい。はい、もちろん……わたしも殿下の傍にいたいです。ずっと。苦しくてもつらくても、殿下の傍にいることを諦めたりなんてしませっ――」
思いがけない殿下からのプロポーズは嬉しくて、何度も返事をしてしまった。
感情溢れるままのわたしの言葉は、殿下にいきなり抱きしめられて途切れてしまったけれど。
動悸が激しくて頭の中で鐘が鳴っているように大きな音が響いている。
「エリカさん……ありがとう」
「わたしも、ありがとうございます」
「いや、本当は……王都に戻ったら改めてプロポーズするつもりだったんだ。こんな場所じゃなく、ちゃんと手順を踏んで、思い出に残るような……だけど、なんて言うか、我慢できなかった」
「いいえ。すごく素敵です。わたし、きっといつまでもこの瞬間を忘れられないと思います」
そう。これ以上素敵なプロポーズはないと思う。
いつも意地悪な殿下が、跪いて真っ赤な顔で、それでも真剣にわたしを求めてくれたんだもの。
わたしを抱きしめていた腕がそっと離れ、琥珀色の瞳で真っ直ぐにわたしを見つめる。
「今は手順も何もない、小さな花束さえないけれど、僕の心ならいつでも差し出せる。僕は心から、エリカさんを愛しているよ」
これ以上はわたしの心臓がもたないかもしれない。
それでもなんとか気持ちを返したくて、紡ごうとした言葉は発せられることはなかった。
目を閉じて、殿下の服をぎゅっと掴む。
本で読んだ甘酸っぱい味なんてしなかったけれど、唇に触れる殿下の唇はすごく心地よくて、このまま時間が止まればいいのにと願わずにはいられなかった。
それでも唇は離れてしまって、恥ずかしくて顔を上げられないわたしの頬に殿下の優しい手が触れて、額にもう一度口づけられたことまでは覚えている。
だけどそこまで。
あとのことは心も頭もふわふわしてしまってよく覚えていない。
ただ真っ赤になった顔のまま部屋に戻ったから、部屋付きメイドにすごく心配されてしまった。