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殿下を見送ってから十一日。
気が付けば教室の窓からプラリスの方向をぼんやり見ては、ため息ばかり吐いている。
「そんなに気になるのなら、いっそのこと会いに行けば?」
「え?」
「その指輪を使えば、ひとっ飛びなんでしょ?」
「だ、ダメよ! そういう使い方はしないの」
「そうなの?」
「そうなの! 私欲では使いたくないから。それに、殿下はお仕事中なんだもの。それなのにいきなり会いに行ったりしたら迷惑よ」
「そうかしらねえ? 喜ぶと思うけど……。まあ、エリカがいいならいいわ。それに手紙ではお元気そうだったのよね?」
「ええ。全て順調だって。今頃は帰路についているはずだから、もうすぐ戻ってくるはずよ」
心配してくれるリザベルに笑顔を向けて、次の授業の準備に取り掛かる。
大切な親友なのに内緒にしていることが多くて本当は心苦しいけれど、リザベルも何となく察してくれているのかあまり突っ込んではこない。
「リザベル、いつもありがとう。大好きよ」
「あら、もちろん知っているわ。わたしも大好きだから」
二人で改めて友情を確かめ合うと、すぐそばにいた誰かが鼻で笑った。
振り仰げば、やっぱりマティアス。
殿下に置いて行かれたからって八つ当たりしないでほしいわ。
これ見よがしにリザベルの手を握って、ふんっと鼻で笑い返すと、マティアスはむっと顔をしかめた。
そこで始業の鐘が鳴って、無言の戦いは終了。
最後にひと睨みしてから席に戻っていくマティアスを睨み返すと、リザベルが大きくため息を吐いた。
だけどそれだけで何も言わないのは、わたしもマティアスも苛々してしまっているのをわかってくれているからだわ。
しかも今はわたしたちだけじゃなく、学院全体が落ち着かない。
貴族士族が半数以上を占めるこの学院の生徒たちは、王宮内に流れる不穏な空気が伝わってきているのかも。
何がというわけでなく、何かがおかしいって。
だからって、わたしにもの問いたげな視線をちらちら向けるのはやめてほしいわ。
まあ、直接訊かれても困るけど。
そして、それはマティアスも同様みたい。
ここ最近のマティアスの「話しかけるな」オーラはわたしより酷いもの。
でもひょっとして、マティアスが苛立っているのは別のことが原因かも。
わたしがお母様から昨日告げられたばかりのことを知っている可能性もあるわよね。
殿下が戻り次第、結婚式の日取りを決めることになるって。
わたしもまさかこんなに早くなるなんて思いもしなかった。
もちろん嫌なわけじゃないし、覚悟を決めたつもりでもあったけれど、それとは別に、まだ心の準備ができていないみたい。
だって、もう結婚だなんて全然実感がわかないんだもの。
学院もやめないといけないでしょうし。
せっかくコレットさんやルナさんとも仲良くなれたのに、すごくすごく残念。
だけど友達はどこにいても友達だし、女学院に進んだ子たちとも友情は続いているんだから大丈夫。
うん。頑張るって決めたんだから、うじうじ考えたって仕方ないわ。
殿下の力になれるなら、結婚だって何だってするんだから!
と熱くなって顔を上げると、先生と目が合って慌てて教本を見るふりをする。
あの先生、目が合うと当ててくるのよね。危なかったわ。
とにかくわたしの役目は妃殿下の権勢を削ぐこと。
王太子殿下が退位されて妃殿下が公爵夫人になったとしても、ヴィクトル殿下の生母としての立場は変わらないものね。
それが妃殿下の強み。
でもわたしが王太子妃になれば、女性最高位として上に立てる。
それは色々な意味で怖いけれど、必要なことだから。
もう一つの役目は、ヴィクトル殿下が妃殿下の実子というだけで反感を持ったり、警戒している人たちを納得させること。
わたしと――エリカ・アンドールと結婚することによって、アンドール侯爵が殿下の後見につくと示せるから。
殿下ほど立派な人はいなんだから、その人たちもすぐにわかってくれるはず。
わたしだって初めは誤解していたしね。
先生の話を右から左に聞き流しながらそんなことを考えているうちに終業の鐘が鳴った。
よかった。当てられなくて。
お昼はお弁当を頂いて、いつものようにラウンジで珈琲を飲んだあとは化粧室へと向かう。
鏡でチェックを終えると、あとは用もなくただその場でおしゃべり。
そのとき、コレットさんが誰かを捜しているのか、ドアを少し開けて顔をのぞかせた。
「あ、エリカさん! お家から使いの方がいらしています!」
「え? 家から?」
今までにないことに驚いて急いで化粧室を出ると、少し離れたところにトムがいた。
お父様たちに何かあったのかと、トムに走り寄る。
「トム! いったいどうしたの!?」
「恐れ入ります、エリカ様。至急お戻りになるようにと、奥様より言い付かって参りました」
「お母様が? いったい何があったの?」
「いえ……私にはわかりかねます。申し訳ございません」
「ううん、いいの」
「エリカ、あなたの荷物はあとで届くよう手配しておくから、急いで帰ったほうがいいわ」
「ありがとう、リザベル。コレットさんも、ありがとう!」
リザベルに甘えて、コレットさんにお礼を言って、急いで馬車寄せに向かった。
走りたくなる気持ちを抑えて、先を行くトムについて行く。
それなのに後ろから走る足音が聞こえて、振り向けばマティアス。
「廊下は走らない」じゃなかったの?
「お前も呼び戻されたのか?」
「ええ――」
「じゃあ、のろのろするなよ。こんなことあり得ないんだ。もっと急げ」
はあ!? 何それ!?
そんなことわかっているわと言い返そうとしてやめる。
時間がもったいないわ。
何も返さずくるりと向き直り、とにかく先に進もうと一歩前へ足を踏み出した。――その瞬間、目の前に碧色の閃光が走った。
眩しさに目を閉じ、それからおそるおそる開ける。
すると、トムがわたしを背に庇うように立っていた。
だけどその向こうにいたのは――。
「ロン!」
わたしの声にトムの声が重なる。
『エリカ! 大変なんだ! ――って、トムか? なんだか老けたな?』
「ロン、それはどうでもいい。お前が現れるなんていったいどうしたんだ?」
トムとロンが知り合いだったことに状況も忘れてぽかんとしてしまったけれど、そうよ。それどころじゃないわ。
ロンがわざわざこんなに人が大勢いる場所に現れるなんて。
マティアスとわたしとのやり取りを遠目で窺っていた人たちが、突然現れたウザキに驚いているのがわかる。
『そうだった! エリカ、森が大変なんだ! それに王子も大変だ!』
「殿下が!?」
「ヴィクトルのことか!?」
ロンの言葉でトムを押しのけるようにわたしが前に出ると、その腕をマティアスが掴んだ。
その表情は切羽詰まっていて、どう答えたらいいのかわからず、わたしはロンをすがるように見た。
殿下は無事よね?
「ロン……殿下に何があったの? 森が、どうしたの?」
落ち着こうと思うのに声が震える。倒れそうなくらいに頭がくらくらする。
だけどわたしの腕を掴んだマティアスの強い力を感じて、どうにか正気でいられた。
『森が燃えているんだ。今はまだ俺たちが炎を時の枷の中に閉じ込めてどうにか抑えているけれど、それも時間の問題だ。枷が外れればもう止められない。王子は――ヴィーはどうにか火を消そうとして魔力を使いすぎた。そこに奴らがやってきたんだ』
「奴らって誰だ!? 森が燃えるなんてことがあるのか!? 火は効かないだろう!?」
『違う。森は火に弱いんだ。至る所に炎魔石があるからな。それで火を徹底的に排除していたのに、奴らは知ってしまった。火を点ける方法――あんなむごいやり方を。そして森は燃えても、増魔石も治癒石も燃えない。燃え跡から石を拾えばいいと思ってるんだ。でも奴らは知らない。全ての森は深淵で繋がっている。一度燃え始めたら、世界中の森を焼き尽くすまで火は止まらない。炎魔石が尽きるまで。それは森が尽きるまでだよ!』
最後には叫んで足を踏み鳴らすロンを、呆然として見下ろすことしかできなかった。
ロンの怒りは人間のせい。私欲にまみれた人間のせいで、森が尽きてしまうかもしれないなんて。
わたしは、わたしたちはどうすればいいの?
周囲のざわめきが頭にがんがん響いてちゃんと考えることができない。
とにかく落ち着かないと。
大きく息を吸って、ゆっくり吐き出す。
今、わたしがしなければいけないのは、状況を把握することだわ。
「ロン、殿下は――ヴィーは今どうしているの?」
『ヴィーは、燃え広がる前に火をどうにか消そうと、水魔法を発動させた。だから、今はまだ火の勢いは弱くて時の枷も作用している。だけどそれでヴィーは魔力を消費して、奴らに狙われたとき、ちゃんと防げなかったんだ』
「おい! 奴らって誰だよ! 近衛たちは何してたんだ!?」
『ヴィーの仲間も怪我をした。でもヴィーは一番魔力を消費していた。だから普通なら大した怪我じゃないが、今は弱っている。奴らは……エリカを襲った男がいた。この前、庭で』
「……ユリウスさん?」
『そんな名をヴィーも呼んでいた』
「くそっ!」
信じられない思いで訊いた名前にロンは頷いた。
途端にマティアスが悔しさを吐き出して駆け出す。
「待って! マティアスさん、待ってください!」
「なんだよ!? お前はヴィクトルが心配じゃないのか!?」
「心配です! 心配に決まっているじゃないですか! でも! だからこそ、殿下を助けるために先にしなければいけないことがあるんです! マティアスさんの力が必要なんです!」
「確かなことなのか!? 何をすればいいんだ!?」
「それは……とにかく、わたしについて来てください! ロンも!」
そう叫んで今度はわたしが駆け出した。
早く、速く!
とっさに浮かんだわたしの考えは間違っているかもしれない。
だけどためらっている時間はないもの。
殿下を助けるために、森を失わないために、わたしはやるしかない!