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「ごめんね、エリカさん。迎えに行けなかったどころか、出迎えもすることができなくて」
「いいえ。こちらこそ、お忙しいのにお時間を頂きたいなどと無理を言って、申し訳ありませんでした。こうしてお時間を作って頂いただけで十分ですから。ありがとうございます」
朝一番に、急いで話したいことがあるので時間が欲しいと手紙を出して、夜会の始まる前なら時間を作れると返事をもらったのがお昼前のこと。
今日の夜会自体があまりに急なものなので、殿下も時間調整が大変なのはわかっていたから本当に十分だもの。
それなのに殿下は申し訳なさそうに微笑んで謝ってくれる。
「わたし……東屋でも言いました。殿下にはご自分のために笑ってほしいって。ですから気を使わないでください。殿下は優し過ぎます」
「違うよ、エリカさん。僕は気を使っているわけじゃないし、無理に笑っているわけでもない。もちろん僕はどんな相手にも常に礼儀正しくありたいと思う。ただ今は僕自身が残念な気持ちなんだ。せっかくのエリカさんとの時間が短くて」
「殿下は……」
「うん?」
「いえ。何でもないです」
最初の頃はからかわれているんだと思っていたけれど、殿下の言葉はどうやらいつも本気みたい。
優しくて甘くて、つい誤解してしまいそうになってしまう。
それとも誤解じゃないとか? まさかの両想い?
――なんて。
でもひょっとして……?
そう思うと急に期待が高まって心は舞い上がり、正常な思考まで飛んでいったみたい。
「わたし、殿下が好きです」
気が付けば、口からこぼれていたのは言うつもりのなかった告白。
慌てて口を押さえたけれどもう手遅れで、向かいに座る殿下は一瞬大きく目を見開いた。
「あ、あの、ちがっ、今のは……」
「――ありがとう、エリカさん。僕もエリカさんが好きだよ」
今の告白をどうにかなかったことにしようと言いかけて、殿下の返事に胸が躍った。
だけどそれも一瞬。
いつもの爽やかな殿下の笑顔に、今のがただの社交辞令でしかないとわかったから。
「き、気安く、そんなことを言わないでください。殿下には本当に好きな方がいるのでしょう?」
「本当に好きな? いや、僕は、その……エリカさんは、ギデオンが好きなんだよね?」
「え? それは……」
殿下の社交辞令に苛立ったわたしの抗議はすぐに切り返されて言葉に詰まってしまった。
迂闊な一言からこんなことになるなんて。
昨日あれだけリザベルと計画を立てたのに全て台無し。
でもきちんと話をするって決めたんだもの。
「わたし……ギデオン様が好きでした。ずっと、小さい頃から。初恋だったんです」
「……うん」
「ですが先日……ギデオン様とお話をして、気付かされたんです。その気持ちが、もう過去のものだって。もちろん今でもギデオン様のことは大好きです。好きですけど……それはジェラールお兄様やレオンスお兄様に対する好きと同じようで……」
そこまで言ったものの、驚いた顔の殿下を目にして続けられなくなってしまった。
あれだけギデオン様のことを好きだと主張していたんだもの。当たり前だわ。
ここで改めて殿下が好きだと告白するのは早過ぎるのかもしれない。
やっぱり最初の計画通り……。
ううん。ここで逃げるなんて情けないわ。
頑張れ、わたし。
「殿下には今まで酷い態度をとってばかりで、こんな……こんなことを言うのは厚かましいと思います。でも、だけど、す、好きなんです! 殿下のことが!」
言った。言ってしまった。
今度こそ誤魔化しようがないくらいに本気で。
また爽やかな笑顔で「ありがとう」って返ってくるかもしれない。笑われるかもしれない。
だから何を言われてもいいように覚悟して、ぎゅっと目をつぶって反応を待った。
それなのに何もない。
不思議に思って恐る恐る顔を上げると、まるで時間が止まってしまったかのように殿下は固まっていた。
予想と全然違う反応にどうしたらいいのかわからなくなる。
だけど目が合った瞬間、殿下の顔が真っ赤になった。
「……殿下?」
「ごめん! ちょっと待って!」
そっと呼びかけると、殿下はいきなり立ち上がって窓辺へと向かった。
その背中を見つめながら頭の中にこだます「ごめん」の答えに、つんと鼻が痛くなる。
それでもまだ泣くわけにはいかない。
もう少し。もう少し頑張れ、わたし。
「す、すみません。こんなに早く……気持ちを押し付けるつもりはなかったんです。ですからどうか気になさらないで――」
「気にするよ! 気にするに決まってるじゃないか!」
振り向いた殿下の勢いに驚いて、言葉が喉でつかえてしまった。
込み上げていたはずの涙も引っ込んで、ただぽかんとしてしまう。
殿下は我に返ったのかはっとして、また真っ赤になった顔を手で覆った。
「ごめん、大声を出したりして。ちょっと信じられなくて……嬉しくて……どうしようもない……」
初めて見る殿下の動揺した姿に、わたしまで顔がかっと熱くなる。
そして今の言葉が頭に染みてくると、今度は胸が熱くなった。
何度か大きく息を吐いてから、ゆっくり戻って来る殿下の顔はまだ少し赤い。
「僕も、エリカさんが好きだ。本当に、本気で。ずっと前から、好きなんだ」
わたしの傍で膝をついた殿下はまるで物語の王子様みたいで、低くかすれた声で告げられた言葉も最初は信じられなかった。
きっとまた社交辞令なんだとその表情を探る。
だけどからかいはどこにもなくて、それどころかとても真剣で、その緊張が伝わってくる。
「本当は何度も忘れようと思った。忘れたと思った。でも無理だった。それなのに、エリカさんがアンドール家の人間だからとか、国のためだとか、あれこれ理由を並べ立てて自分を誤魔化していたんだ。我ながら情けないな」
「い、いいえ、そんな……わたしもつい勢いで言ってしまっただけで、本当は怖くて……告白するつもりはなかったんです。ですから、おあいこです」
って、わたしは何を馬鹿なことを言ってるの。
小さい頃から何度も夢に見た場面のはずなのに、全然上手くいかない。
世の中の女性たちはこんな大切なときにはどうしているの?
胸はどきどきして、ふわふわして、夢の中にいるみたいで、頭はぼうっとしたまま。
殿下は優しく微笑んで、そんなわたしの左手を握って指輪をそっと撫でた。
「この指輪……このままずっとしていてくれるかな?」
「は、はい」
頼まれなくても外したりなんてしない。
今ではわたしの宝物だもの。
だから大きく頷いたのに、なぜか殿下の表情は曇ってしまった。
「今日は……いや、この先もきっとエリカさんは僕の婚約者として何度も嫌な目に遭うと思う。だけど、必ず守ると約束するよ」
「殿下……」
力強い殿下の言葉に浮かれ気分だったわたしも現実に戻った。
そうよ。わざわざ殿下に時間を頂いたのは、こんな心配をかけないようにしたかったからなのに。
それでも殿下の優しさに心はふわりと温かくなって、自然と顔がほころんでしまう。
「ありがとうございます、殿下。ですが、ご心配には及びません。殿下との婚約を望んだのはわたしですから、覚悟はできています。それに、わたしにはまだ名前以外に何の力もありませんが、少しでも殿下の力になれればと、なりたいと思っております。本当は今日、そう伝えたくてお時間を頂いたんです」
殿下の手を握り返して今の精いっぱいの気持ちを告げると、なぜか殿下はぱっとわたしの手を振りほどいて立ち上がった。
「ちょっと……いや、その、もう侍女を呼び入れたほうがいいよ」
殿下はわたしから目を逸らして、呼び鈴を鳴らさずに直接控えの間へ繋がるドアに向かう。
どういうこと? 何かわたしは失敗したの?
マイアを部屋に呼ぶと、もう二人きりじゃなくなるのに?
ひょっとして髪型が崩れているとか? アイラインが滲んでる?
「わたし……どこかおかしいんでしょうか?」
「いや、今日のエリカさんもすごく綺麗だよ。だからこそ、侍女はいたほうがいいんだ」
ソファから立ち上がり、自分を見下ろしてチェックしたけれどドレスに乱れた様子はない。
そっと髪の毛を触りながらしょんぼり呟くと、返ってきたのは恥ずかしくなるような賛辞。
やっぱり殿下は口が上手いと思う。それに訳がわからない。
それでもわたしは殿下が好きで、殿下はわたしが好き……なのよね?
これって、ひょっとしなくても両想いってことだわ。
ああ、どうしよう。何だか思いっきり叫びたい気分。