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寝室から隣の部屋に入るのにノックをするのもおかしな気がするけれど、ひとまずノックをしてそっとドアを開けた。
するとソファからさっと立ち上がった殿下が近づいてくる。
「エリカさん、めまいは? 医師は呼ばなかったけれど、今からでも呼んだほうがいいかな?」
「い、いいえ。大丈夫です。ご心配をおかけして、すみませんでした。それにご迷惑をおかけしてしまって――」
「いいよ、そんなこと。今回は頭を打たなくて本当に良かった」
言いながら殿下はポケットからリボンを取り出して渡してくれた。
どこにいったのかと思っていたけれど、殿下が持っていてくださったのね。
「ありがとうございます」
「いや……その、勝手にリボンを解いてボタンも外したんだ。ごめん」
「謝罪の必要はありません。不可抗力ですもの。気にしませんわ」
「それは気にしてほしいというか……」
「え?」
「――とにかく、アンドール侯爵には知らせたから、もうすぐいらっしゃるんじゃないかな」
「……わざわざありがとうございます」
もうすぐお父様が来るかもと聞いてがっかり。
本宮からここまでどれくらい時間がかかるのかしら。
それにわたしはどれくらい意識を失っていたのか気になるわ。
「あの、茶話会は大丈夫でしょうか?」
「ああ、それは大丈夫。みんなには適当に言っておいたから、今ごろは学院に戻る途中だと思うよ」
「そうですか……。何から何までありがとうございます」
自分の不甲斐なさが情けなくて深く頭を下げたわたしの手に温かな手が触れる。
はっと顔を上げれば、殿下は困ったように微笑みながら、わたしをソファに座らせてくれた。
だけどすぐ隣に座った殿下が気になって、何を言おうとしていたのかわからなくなる。
だって手は握られたままなんだもの。
頑張れ、わたし。とにかく落ち着いて。
一度大きく息を吸って吐く。
すると、あのときどれだけ迷惑をかけたのかを思い出した。
「殿下、あの、わたし……思い出したんです。…全部」
「――思い出した? まさか、おばあ様の…王妃陛下のお茶会のことを?」
わたしの告白に殿下ははっと息をのんだ。
握られたままの手には力が込められて殿下の緊張が伝わる。
「はい。わたし、あのとき……たくさんヴィーには、殿下にはお世話になったのに――」
「ヴィーでいいよ。二人のときは」
「……ヴィー?」
「うん。今の呼び方はあのときみたいだね」
ふっと殿下の手から力が抜けて、その顔にかすかな笑みが浮かぶ。
その笑顔にどきどきしてしまって胸が痛い。
「わたし、森へ向かうときにも、ヴィーと呼ぶように言われたのに……。今まで全然思い出せなくて失礼なことばかり言ったりしたりしてしまいました。本当に申し訳ありません」
「違う。謝るのは僕のほうだよ。あのときエリカさんはとても怖い思いをしたのに、僕は何もできずに怪我までさせてしまったんだから」
「あれは……ヴィーのせいではありません。ヴィーはそれまでずっとわたしの我が儘に付き合ってくれたんですもの。あの……幸せのウサギ探しまで付き合ってくれて……」
あの日、退屈していたわたしを連れ出してくれたのはノエル…先輩。
色彩の庭の奥、花の小路に現れる白いウサギを見ることができれば幸せになれるよと教えてくれて。
それでどうしてもヴィーと一緒に見つけたくなったのはわたしの我が儘。
大人に囲まれて笑うヴィーはちっとも楽しそうじゃなくて、去っていくノエルを見送るときにはとても寂しそうで、そんなヴィーに心から笑ってほしかったから。
あの日のヴィーの笑顔を思い出して目を上げると、わたしを気遣うような笑みが返ってきた。
「殿下は……もっとご自分のために笑ってくださればいいのに」
「うん?」
「殿下はいつも周りの人たちを気遣ってばかりです。人当たりのいい笑顔も、意地悪な笑顔もたくさん見ました。でも、殿下ご自身のための笑顔はほとんど見たことがありません。だから……どうすれば殿下は笑ってくれますか?」
「エリカさん……」
「殿下にはもっと笑ってほしいです。楽しんでほしいんです。そして、幸せになってほしいんです」
そのためにも殿下は本当に好きな人と一緒になってほしい。
周囲を誤魔化すためにわたしが必要なら協力だってするわ。
こんなに早く失恋するなんて悲しすぎるけど、自己憐憫に浸ってる場合じゃない。
きっと立ち直ってみせるんだから。
握られた手を握り返してどうにか微笑んでみせると、殿下はびっくりするくらい優しい笑みを返してくれた。
まるで心から笑っているみたい。
「あのときと一緒だね」
「え?」
「あのとき、エリカさんは僕が楽しめるように、幸せになれるように、一生懸命にウサギを探してくれたんだ。途中でマティアスも加わってね」
「でもヴィーは乗り気じゃなかったのに……」
「あの頃の僕は全てを諦めていたから。本当は興味津々だったくせに、素直になれなかっただけなんだ。あのときはありがとう、エリカさん。それに、ごめん」
「ですから、殿下が謝罪なさる必要は――」
「いや、あるよ。今回のことだってあの石が――共鳴石が、あいつを呼び寄せてしまうことはわかっていたのに、うっかりしていたんだから」
「……共鳴石?」
「そうなんだ。以前、あのペンダントを――」
どうしてここで共鳴石が出てくるのか訳がわからない。
何がなんだかわからずに訊き返すと、殿下は頷いて答えてくれようとした。
だけど続いた言葉を遮ったのはがさがさと何かをこするような音。
「今のは?」
「ごめん、エリカさん。実は……アレを捕まえているんだ」
「え……」
さあっと血の気が引いていくのが自分でもわかる。
そんなわたしを励ますように、殿下は握ったままの手にぎゅっと力を入れた。
「アレが苦手なのは知っているけれど、あいつもすごく反省しているみたいだから、言い訳を聞いてあげてくれないかな?」
「言い訳?」
どうにもわたしの頭は働いていないみたいで、意味がさっぱりわからない。
アレがどうして言い訳なんてするの?