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「うるさい、ブス!」
生まれて初めて自分に向けられた悪意ある言葉は間違いなくマティアスからだった。
子供が腹立ち紛れに口にした他愛のない言葉で、そこまで傷つくほどのことでもなかったのだと今は思う。
だけど、それまで両親に叱られたこともなく、遊び相手はいつも侍女かジェラールお兄様とギデオン様だったわたしには大きなショックだった。
でも正直に言えば、あれはわたしも悪かったのよね。
ヴィーとマティアスと一緒に、色彩の庭の奥、深い茂みを覗きこんだときに暗くてよく見えないからと、わたしが光を放ったんだわ。
それから二人の驚いた顔があまりにおかしくて笑ったのよ。
特にマティアスは口をぱくぱくさせていたから「マティアスの今の顔、おかしい」って指までさして。
うん。悪気がなかったとはいえ、失礼よね。
それに二人が驚くのも当たり前だわ。
十歳の子供が詠唱もなしに光魔法を放ったんだもの。
って、あら? そうよ。びっくりよ。
すっかり忘れていたけれど、小さい頃のわたしは光魔法が扱えたんだわ。詠唱なしで。
だから正等科での〝レンブル事件〟のとき、家族の誰もわたしがレンブルを放ったことには驚かなかったのよ。
それが、あの日のショックで光魔法をまったく扱えなくなっていたのね、きっと。
だけど、記憶を失くすほどに傷付いたのはマティアスの言葉じゃない。
それまでずっと優しかったヴィーがあのとき――。
「エリカ? 大丈夫?」
「……リザベル?」
浮かび上がった記憶に思わず呻くと、リザベルが心配そうに顔を覗かせた。
その状況が飲み込めなくてちょっと混乱。
体を起こしながら後頭部に手をやったわたしを見て、リザベルは眉を寄せる。
「頭が痛いの?」
「痛く……ないみたい」
「エリカ、本当に大丈夫?」
ぼんやり答えたわたしに、リザベルはますます心配になったみたい。
でも大丈夫。
リザベルはわたしの友達で、今のわたしは高等科生なのよ。
うん、はっきりしてきたわ。
「まだ起き上がらないほうがいいんじゃないの?」
「ううん、平気。少し混乱してただけ。ありがとう」
ベッドから足をおろしたわたしをリザベルがすぐに支えてくれる。
わたしが寝ていたのは見知らぬ部屋だけれど、きっと王宮の一室よね。
「……殿下は?」
「隣の部屋を歩き回っているわ」
「また……殿下に迷惑をかけてしまったのね。リザベルも、ごめんね」
「何言ってるの。アレが現れたんでしょう? 仕方ないわよ」
「うん……わたしね、思い出したわ。全部」
「思い出したって、王妃様のお茶会でのこと?」
「ええ。あのとき……アレが……貼り付いたの。顔に」
「え? うそ……」
「本当よ。それもかなり大きいのが」
思い切ったわたしの告白に、リザベルは目を丸くした。
想像するとすごく滑稽よね。
だけどリザベルは笑うことなく、顔をしかめた。
「それは……今のわたしでもトラウマになると思うわ」
「でしょう? ぬめっとして、べたっとしてたの! それがあのときヴィーが、――殿下が薔薇を差し出してくれて、喜んで受け取ろうとしたところだったから……」
「なるほど。それで薔薇まで苦手になったのね?」
「たぶん……」
マティアスに意地悪を言われて、東屋に逃げ込んで泣いていたとき、ヴィーがやって来て「エリカさんはとっても可愛いよ」って慰めてくれたのよ。
しかも「この薔薇みたいに」って、おまけつきで。
殿下はあの頃から口が上手かったのね。
わたしはすっかり浮かれて、薔薇の匂いをかごうと顔を近づけて、不運な出来事が起こったんだわ。
それで「ブス」って言葉と現れたアレに混乱して、自分がブスだから意地悪されたんだと思い込んでしまったみたい。
「あ、ありがとう、リザベル」
身だしなみを整えようと立ち上がると、リザベルが制服のベストを渡してくれた。
鏡を見つけてボタンを留めながら、リボンも外されていることに気付く。
「……ねえ、リザベル。わたし、ここまでどうやって来たのかしら」
「それはやっぱり殿下が運んでくれたんじゃない? わたしは侍従にこっそり呼ばれて来たのよ。ここは離宮のさらに離れだから目立たないし、騒ぎにはなっていないわ」
「そうなのね。……良かった。今度は悲鳴を堪えることはできたから。でもやっぱり……恥ずかしすぎるわ」
「エリカの気持ちはわからなくもないけど、とにかく今は心配している殿下に大丈夫だって伝えないと」
「そ、そうね……」
恥ずかしさにしゃがんで頭を抱えたわたしの背中を、リザベルが撫でてくれる。
深く息を吐いて呼吸を整えているところに、ノックの音が響いた。
「リザベルさん、いいかな?」
「はい、どうぞ」
「え? ダメ。待って!」
殿下の声が聞こえて、リザベルが応えたものだから大慌て。
だって、まだ心の準備ができていないもの!
それなのにリザベルは無情にもドアを開けた。
「エリカさんの声が聞こえたような気がしたから、目を覚ましたのかと思ったけれど……」
「ええ、大丈夫みたいです」
「……本当に?」
「あれは……ほら、元気な証拠ですわ」
「そうか……」
隠れる場所がなくて、とっさにベッドの足元で小さく丸くなってみたけれど、無駄だったみたい。
リザベルの言う〝あれ〟って、わたしのことよね。
ああ、もう無理。どう考えても好感度が上がるわけないわ。
「エリカもすぐにそちらへ行きますので、もう少しだけお待ち頂けますか?」
「うん、そうするよ」
二人の話し声の後にドアが閉まる音が聞こえた。
だけどもう恥ずかし過ぎて顔も上げられない。
前からわかっていたけれど、それでもまさか自分がここまで馬鹿だなんて。
「エリカ、恥ずかしいのはわかるけど、ほら、顔を上げて。せっかくの機会なんだから殿下と話し合ってみたら?」
「い、今?」
「そう、今よ。わたしはさっきメイドに持って来てもらった本を読みながら、ここで待っているから」
今からなんてやっぱりまだ心の準備ができていない。
でもこのままだときっとずっとできないから。
これ以上隠れるわけにも、みんなに迷惑をかけるわけにもいかないものね。
それに今回のことも、あのときのことも、ちゃんと殿下に謝らないと。
「いつもごめんね、リザベル。それと、ありがとう。リザベルがいてくれるから、わたし頑張れるんだわ」
「わたしはエリカの友達よ。エリカがいるからわたしも毎日楽しいの」
「ありがとう、リザベル。大好きよ」
「わたしもエリカが大好き」
リザベルと抱き合って二人の友情を再確認。
にっこり笑うリザベルはとても頼もしくて勇気づけられる。
「じゃあ、当たって砕けるつもりで行くわ」
「……ええ。落ち着いて話し合えば、きっと全てが解決するわよ」
そうね。わたしに必要なのは落ち着くこと。
よし、大丈夫。もう逃げも隠れもしないわ。




