第一話 絶望の底から
森を南西に抜けてすぐのところにある境の村。イリスはそこの宿屋の個室で窓の向こうを見つめていた。
突如放たれた災厄の炎は今や周辺の森とその背後にそびえる山までも焼き尽くし、更にはこの村までも火の海へ呑み込もうとしていた。避難してきたイリス達は宿屋へ一時的に休ませてもらい、村人のほとんどは消火活動にあたっていた。
森の上空は赤く染め上がり、とても明るい夜だ。
────ラルバさんとお姉様は今どうしているだろう?
あのとき、ステラという少女がまだ残っている事を知ったラルバは自ら劫火の中に飛び込んでいってしまったのだ。いくらイリスとルークが名前を呼んでも、彼が戻ってくることはなかった。
その後にイデアも「先に逃げてて」と言い残して炎の中へ消え、そのまま行方不明。イリスは、ルークを背負ったフォルテに無理やりここへ連れてこられたのだ。
そして、行方知れずのままになっているのはイデアとラルバだけではない。黒猫のノックスと小鳥のピッコロだって今朝から姿を現さないままだ。
ピッコロはその気になれば逃げ出せそうだが、イリスが生まれたときから側にいたノックスは猫にしてはとてつもなく高齢だ。この火の海から逃げられるとは到底思えない。それでも、ラルバ達やピッコロ達が無事であるようにと心から願っていた。
「……外を見ておられるのですか」
背後の声に振り返ると、いつの間にか部屋の中にフォルテがいた。
「……フォルテ、なんでお姉様とラルバさんを止めてくれなかったんですか」
二人が走り去った後に駄々っ子のように何度も言った台詞をここでも繰り返す。彼を責めたってどうにもならないとわかっているのに……。
だが、もしもフォルテが力づくでも止めてくれていたなら。どうしてもそう考えてしまうのだ。
「申し訳ございません。ですが、もしも私が奴らの立場で、あのステラという少女がイリス様だったとしたら……私も奴らと同じことをしたでしょう。私にとってイリス様が命よりも大事なものであるのと同じようにステラもまた、彼らにとって命よりも大切なものだったのかもしれません。あの男が血相変えるくらいですから」
フォルテは表情一つ変えることも無く、淡々とそう言った。
物心ついてからずっと一緒にいるイリスでさえ、フォルテが何を考えているのかわからないときがある。イリスが絡むと人が変わったように気性が激しくなるのだが、基本的には寡黙な男だ。どんなときも険しい表情を崩さず、ただイリスの傍にい続ける。
きっと、と彼女は思う。フォルテはイリス以外には興味ないのだ。だからラルバやイデアに限らず、自分で助けたルークをはじめとする多数の村人が死んだって彼は何も思わないし、傷ついたり悲しんだりもしないのだ。
だからこそ、イリスは少し苛立っていた。色々ありすぎて疲れていたのもあったかもしれない。
「フォルテは……単にあの方達がどうなろうとどうでもよかっただけでしょう?」
フォルテは無言だった。それがまるで、彼がその事を認めているかのように思えて余計に腹が立ってくる。
「黙ってないで何か言ったら────」
イリスがそう言いかけたときだ。突如外から凄まじい音が響いた。
外に目をやると、猛烈な大雨が地上に絶え間なく降り注ぎ、灰色の雲が赤い空をぶ厚く覆っていた。今日は雲一つない快晴のはずだったのだが────神様が願いを聞き入れてくれたのだろうか。
雨は災いを一気に浄化していくように、煙を上げて踊り狂う炎をみるみるうちに鎮めていく。明日の朝までには鎮火し、後には灰だけが残るだろう。
イリスは呆気にとられてその光景を見つめていた。フォルテも彼女の後ろで窓の向こうを注視している。
「何の音だい? ……ってここは?!」
部屋のベッドのうちの一つで眠っていたルークが飛び起きた。彼も疲れていたのか、森を抜けるまでの間に眠りに落ちてしまっていたのだ。
「お目覚めになられたんですね。ここは境の村の宿屋の一室です。そしてこの音は……雨の音です」
「そうですか……」
うつむきがちにルークが呟いた後、何かに気づいたように部屋を見回す。
「ラルバとあの女の人は? ステラちゃんはどうなったんですか!?」
「あの人達は……」
イリスはその続きに一瞬ためらったが、「行方不明、です」とぎこちなく付け加えた。
「そんな……」
「すみません。二人を止めることができなくて……」
「いいや、あなたは何も悪くない。この事態を予め知っていながら、阻止できなかった僕が全部悪いんです」
「……知っていた?」
フォルテの問いにルークはぽつりぽつりと語り始める。
「僕には、予知夢を見る力がありました。早いものは数日以内、遅いものでも一年以内には確実に起こる出来事を夢という形で知る事ができるのです。いつその出来事が起こるのかはわからないし、必ず見られるとも限りませんが……」
「つまり、その力で村が滅びることを知っていた。そういうことか?」
「ええ。そういうことです。この夢は二、三ヶ月前に見ました。そのときブバリアという街にいた僕は、急いで故郷へ向かいました……とにかく、現実になってしまう前に帰って、皆に避難を促すつもりでした。それかあの禍々しい竜を倒すつもりだった」
ルークの言葉に力が入った。泉のような青みがかった瞳がかっと見開かれる。
「あの竜とは何度かこの夢の中で戦ったことがあります……でも、いつも勝てないんだ! しまいには違う夢で喰われてしまった。それが僕の運命になってしまったんだ」
「喰われるって……そんな」
「夢を、運命を現実にするわけにはいかなかった。阻止しなければならなかったんだ。でも、でもっ……!!」
血液と一緒に溢れ出るものを無理に止めているかのように、ルークは右足を強く押さえる。
しばらくして、次にルークの口が開くときには元の穏やかな声に戻っていた。
「村に戻ったときには既に手遅れで、もう皆死んだ後かと思いました……
でも、ステラちゃんが家の窓から怯えきった様子で竜を見上げているのを見つけて、この子だけでもと思って立ち向かったけど……やはり駄目でした。あなた方が助けてくれなければ、僕も死んでいたでしょう。そしてラルバ……僕の悪友だったんですが……彼の顔を見たとき、本当に驚いたし嬉しかった。彼の家はとうに崩れ落ちていましたから、真っ先に焼け死んだと思ったんです。なのに……僕がステラちゃんを助けられなかったばかりに」
それを最後にルークの言葉は途切れた。
大事なものを失ってしまった悲しみか、無力な自分への怒りか、あるいはその両方か。
ルークはうなだれ、握りしめた拳の関節は白くなっていた。
「この雨が止んだら……ラルバさんとお姉様、それからステラちゃんも捜しに行きましょうか」
ルークはうなだれたまま、こくりと頷いた。
*
結局、雨音がしなくなったのは明け方になってからのことだ。
朝からノックス達を捜しまわり、鳥の怪物には連れ去られ、更に炎の中を逃げて疲れきっていたはずなのに、イリスはついに一睡もすることができなかった。それはルークも同じようで、ずっと窓際で焼野原と化した森を眺めていた。ちなみに、フォルテは部屋の隅にうずくまったまま動かなくなっている。
「……そろそろ朝ですね」
静けさに満たされた仄暗い部屋の中、ルークがおもむろに口を開いた。
「そうですね」
イリスは素っ気無く返す。時間が経ったせいか混乱やフォルテに対する怒りは無くなっていたが、代わりにどうしようもない気だるさと空しさが彼女を支配していた。
「行きますか? いつまでもここでじっとしているわけにもいかないだろうし」
「……でも、足は大丈夫なんですか? なんならもう少し待っても……」
「僕は大丈夫ですから気にしないでください。これ以上あなた方に迷惑をかけたくない」
曇っているせいか空はまだ灰色がかった群青色をしている。皆も眠れなかったのか、家の窓にはぽつぽつと薄黄色の明かりが灯っている。
三人は無言で歩いていた。驚く程穏やかな夜明けで、昨日降りかかった災いが全て嘘のようだ。
────本当に嘘だったらどんなに幸せだったか。
イリスは森を散歩するのが好きだった。優しいそよ風が駆け抜け、木々の間からは空の欠片が見えて、動物や虫のさざめきが聞こえる。良い事も悪い事も温かく包んでくれる────そんな森が彼女は大好きだった。
だが、もうそこに森はない。死んだのは人間だけではないのだ。木も、花も、虫も、動物も皆火に怯え、焼けつく痛みと煙の中で苦しみながら息絶えていったのだろう。そういえば、火を放った竜はどうなったのだろうか。もしかして、彼も自らの炎に焼かれて死んだのだろうか。
なんて平等で、なんて残酷なんだろう。イリスはただそう思った。
大雨のせいで一本道は細い川になっている。おかげで彼らは踏み固められていないその脇を歩くしかない。
土はぬかるんでいてイリスは何度も滑りそうになったが、その度にルークやフォルテが支えてくれた。
ふと、先頭のルークが立ち止まったものだから危うくイリスは正面からぶつかるところだった。
「どうしたんですか?」
「……何かが向こうに見えます」
一点を凝視したまま何も言わないルークの代わりにフォルテが答えた。
イリス達とフォルテは親子くらいの身長差があるので、彼には二人の頭を飛び越えた向こうの景色が見えるのだろう。
イリスもルークの肩から覗き込むように向こう側を見る。
荒地に忽然と現れた存在。道からは大幅に逸れ、倒れた木に囲まれているが……
「あれって……まさか」
「間違いない。ラルバ達だ!」
普通なら倒木は飛び越えればいいだけの話だが、あのときはきっと木が炎の壁の如く燃え上がってそんな事できなかったはずだ。あわれなことに、彼らはきっと逃げる途中で炎に囲まれてしまったのだ。
「お姉様!」
「ラルバ!」
それぞれの名を呼び駆け寄る。
ラルバは仰向けで、その数歩先にイデアがうつぶせで倒れていた。雨のせいか二人は全身ずぶ濡れになっている。だが、何かおかしい。
「……火の海の中にいたにしては不自然です。真っ黒焦げでもおかしくなかったのに。雨のおかげでしょうか?」
「息もある。傷もひどくないようだし……奇跡だ。ステラちゃんはいないけど……」
イリスは初めてルークが笑ったのを見た。笑顔の中に悲しみが少し見え隠れしているが、ラルバだけでも無事でよかった。そんな感じだろうか。
「う……うぅん?」
イデアが身体を動かした。
「お姉様、私が分かりますか? 妹のイリスです!」
顔を少し近づけてそう呼びかけた瞬間。
「あの女の人はっ!?」
「きゃっ!」
イリスはのけぞり、そのまましりもちをついてしまった。おかげで手もスカートも泥だらけだ。
「あら? イリスそこにいたの……ところで、女の人見なかった?」
「女の人ですか?」
泥を払い落としながら聞き返す。あの状況で女の人?
「ええ……帽子を被っていて、眼鏡をかけた女の人……しかも自分の足で歩いてなかったの。何かに乗っているようだったわ」
「お姉様……夢でも見られたんじゃ?」
「違う。火に囲まれて、ラルバ君も倒れちゃって、私の意識も朦朧になってもう駄目だってときに突然現れたの。たしかに見たのよ。信じて」
イデアは普段嘘をつくような人間ではない。むしろ彼女はどちらかといえば嘘は嫌いなタイプだ。
では、イデアは本当に見たのだろうか。だとするならその女の人は一体何者……? ただの人間ではないだろう。
「切羽詰った状況では幻を見る事もあるだろう。そんなものさっさと忘れろ」
ゆっくり歩いてきたフォルテがあっさり一蹴した。
「そんな、フォルテ……」
「あの、もしラルバさんの目が覚めたら聞いてみてはいかがでしょう?」
だが、それに対してイデアは目を伏せて言いにくそうに答える。
「それは……多分、無理だと思う」
「え? 何故です?」
ルークはラルバを揺すりながら必死に問いを投げかけている。だが、それに対してラルバは首を振りながら感情のないお面のような顔でこう繰り返すだけだった。
「わかんない。わかんないよ……」