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あの男シリーズ

生きたことを活かす

作者: イプシロン

 生活。もう長いこと、この男はそうした問題で苦悩し続けている。

 朝起きて、昼働いて、家帰って、飯くって、風呂入って寝る。それを生活と呼ぶのだろうか? そんなものの繰り返しに意味などあるというのか……。有るといえばあるし、無いといえばない。そんな問答をずっと続けていたのだ。

 世の中広し。当たり前と言われていることを当たり前に出来る人もおれば、そうでない人もおる。夕起きて、夜働き、朝帰って、飯食って風呂入って寝る。そういう人もいる。そこそこの数、おるらしい。

 昼起きて、ぼっとして、夕寝して、それとなく起きて、夜ぼっとして、なんとなくまた床に入る。明け方近くに奇妙な夢を見て眼を覚まし、這うように布団を出る。またぼっとして、果敢はかなくも夢のことを考える。そうしたもの思いには格別な意味があるわけではない。


 この男、長いこと仕事もしていない。駄目な男だ。いけ好かない奴だ。見ていて腹が立つ輩だ。やれ病気だ、それ具合が悪い、ほれみたことかと、言い訳をする。みっともないこと甚だしい。だが、一応いい分はあるらしい。

「何がしたいのか、わからないのです……」。それが、男の口癖だった。

 それで、男は考えた。生活について。考えに考えた。もう無理だというくらい考え続けた。朝となく、夜となく、明けもなく、宵もなく。

 もっとも、この男には、長い事そんなものはありはしなかった。春の桜も、夏の青葉も、秋の紅葉もみじも、冬の枯木も眼に映らなかったのだ。今がいつで何なのかさえ分かっていなかった。

 腹が減って外に出れば、チリチリと音を立てる、小銭すらまともに数えられなかった。支払いを済ませた気になって、白いポリ袋を受け取ろうとすると、店員がぼっと立っている。

「なんでだろう?……」

 なんのことはない。払いが足りていなかったのだ。仕方なく財布を漁るが、小銭が足りない。台に置いた小銭をひとつひとつ摘まんで引っ込めて、もさりもさり、と財布にある札の枚数を勘定して、それを一枚取り出す。一枚だけ出すなら数える必要はない。当然こんなだから、受け取ったつり銭が合っているのかなど、あらためもしない。さっきかぞえた札の数さえ覚えていない。であっても、男は生活のことは考えつづけた。どうやら、そういうことらしい。

 

 ある日、男は小説を書きはじめた。物好きなものだ。いい気なものだ。恥知らずにも程がある。あーでもない、こーでもない。解ってもいないことを捏ねくりまわしては、好き勝手なことを書いたらしい。口だけは達者なこの男、意外といい文章を書いたらしい。ちょっと褒められたりしていい気になって、どんどん書いた。ろくでもない小説をだ。酒も飲まずに酔っていやがる。「あとがき」だのをツマミにして、大風呂敷を広げては悦に入った。困ったものだ。

「見ちゃーいられない。おい、誰か、止めてやってくれ!」

男は、夢かうつつかもわからない世界に身を置いていて、そんな声を聞いたらしい。だが一向に改めない。あーでもない、こーでもない、あれがどうなって、これがこうなって、これはこうだから、こうらしいぞ! と、――えらく長い小説も書いた。閉口するばかりだ。


 だがそんな男にも限界はあったらしい。いい加減に疲れ果てて、男は外に出た。なんのことはない。たまたまやらなければならない用事があっただけだ。嫌々ながら車を下がらせ、人を避けさえ、怪訝な目つきで街ゆく人を見やりながら足を進めた。男は思った。

「なんかが違うね……」、と。

 それから男は車を避け、人に道を譲り、優しげな眼差しを道行く人に向けた。だが、何が違うのかはわからなかった。

 仕方なく、男は暇つぶしに古書店の扉を押した。派手な背表紙の漫画が置かれた棚を見上げながら、床を蹴っていた足は、文庫本の棚の前で止まった。

「ふんふん、ふーん」

 鼻歌交じりに面白げな本を探す。ない。微妙。うーむ。これは! ……でもねー。この男、妙に慎重なのである。たかが百円を惜しむのだ。かと思えば、空腹に耐えられずに豪華な弁当を買ったりもする。やっていることに一貫性が無いのだ。寒い夜なのにチンしてもらわずに弁当を買って帰るのだ。変わった男である。ようするに怠惰癖が抜けないのだ。

「ふふふのふーん、と」

飽きずに本棚の前を行ったり来たりする。男は何度か扉が音を立てているのを耳にした。

「足が痛い」

 いい気なものだ。自分の好きで来て、のんべんだり、としているというのに。

 どの棚も二、三回眺め尽くして、男は二冊の本を手に取った。広くて清潔そうな台の上に、手にしていた本を置いた。エプロンをした店員の掌の上に、銀貨を二枚置いた。チロリーンとレジが音を立てていた。それから男は、ご丁寧にもポリ袋に入れられた本を引っさげて、ニンマリしながら店を出た。男が買ったのは太宰治という男の本だった。


 外はすでに暗がりであった。男は信号のある十字路で足を止めて、群青色の空を見上げた。進めという意味の緑色のまあるい光の束があった。

「綺麗だね」

 男は柄にもなくそう胸の中で呟いた。それから、視線をぐるりんと廻らして、店の看板やら硝子張りのパン屋の中を覗いたりしながら、家路についた。人のいないパン屋が、妙にぬくぬくとした気持ちを湧かせた。

「買い物……していこうかな……」

 すぐに気の変わるこの男、なんとなくいつも立ち寄る食料品店に向かった。色々な人がそれぞれの理由をもって、カゴに品物を入れていた。レジに並びながら、男は考えた。

「この人はこれから晩酌だね。あの人は何すんだろ? 水だけか……わからん。あ、あの人は晩御飯だね。あらまー随分買い込むんだね……」

 男は飽きもせずに、そうして列に並んで物見遊山を繰り返していた。男が家についたとき、自分が何を買ってきたかなど覚えてもいなかった。だが、紺色の手提げ袋に入れられた、二冊の本のことだけは忘れていなかった。


 こんなような生活をしている、この男が、ある晩気づいたのだ。

「あれ? 生活してる中で、見て、聞いて、感じたことってさ、全部小説のネタになるんじゃない?」、と。

 それからその男は、生活という文字をじっと眺めて考えた。

「あーそうか、生きたことを活かすっちゅーことか。……やっぱ生活って大事やな。しゃんとせんとだね……」

 今更そんなことに気づいたのかと、言ってはいけない。世の中は広いのだから。男は沢山いるのだから。でもこれは信じるに値するものだといえるだろう。でなければ、こんな阿呆な小説は書かないのだから。

 この男の性分でもって、あーでもない、こーでもない、と付け足すならば、きっとこう言っただろう。

 生きたことを活かして、そこから何かを習って、心になじませていく。

 そうすっと、これはつまり、生活習慣になる。これは凄い発見だ――と。

 困った男である。やれやれ、である。


          ――完――

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