第7話
1
小さい頃、私には大好きなお父さんがいた。
私のお父さんは、なんというか、いつも余裕がなくて
ちょっとしたことで、私やお母さんを怒鳴ってくるような人だった。
「誰のおかげで生活できてると思ってんだ!
お前のことなんていつだって捨てられるんだぞ!」
怒鳴っている時、お父さんはよくそんなことを言い、
私を家から追い出そうとしたものだった。
けれど、お父さんは優しいから
泣きながら家にいたいと懇願すると、
いつも家にいることを許してくれた。
それだけではなく、
お父さんはいつも無償で
食べ物を与えてくれたし、
服も与えてくれたし、
眠るためのスペースも与えてくれた。
「こんなにいろんなことをしてもらえる子供は普通いないんだぞ。
少しでも俺に反抗的な態度取ってみろ。
もうお前には何も与えないからな」
お父さんは何かにつけてそう言っていた。
私はそうやって脅される度に
いつか本当に捨てられるんじゃないかと不安になった。
もし捨てられたら、私は1週間も経たないうちに
お腹を空かしたまま死ぬことになるだろう。
そして死んだら、こうやって考えることも
何かを感じ取ることもできなくなってしまうのだ。
そこまで想像して、私はいつもひどく心細い気持ちになった。
だから、お父さんがご飯を分け与えてくれるときには、
いつも救われたような気持ちになったし、
何度も何度もありがとうございますと言って頭を下げていた。
2
私はお父さんが大好きだったので、
どんな時にお父さんの機嫌が良くなるのか日常的によく観察していた。
お父さんの機嫌が良いと、私もすごく安心して心が落ち着くのだ。
だから、お父さんにはなるべく機嫌が良い状態でいてほしかった。
たくさん観察した結果、お父さんはある時に
異様に機嫌が良くなることが分かった。
それは、私に暴力を振っている時だ。
当時、お父さんは仕事で嫌なことがあると
よく私を殴ったり蹴ったりしていた。
お母さんはいつもそれを止めようとしてくれたけど、
お父さんには力で勝てず、
最終的に私はいつも為されるがままに殴られていた。
最初の頃、私はお父さんに暴力を振られるのが怖くて仕方なかったけれど、
暴力を振っている時がお父さんにとって一番楽しい時間なんだとわかってからは、
私は、それを我慢できるようになった。
だって、お父さんに暴力を振られている間は、
私は愛されているのだと信じることができたから。
私がお父さんを大好きで、お父さんも私を愛してくれているのなら、
私はこの家にいても問題ないはずだと思っていたのだ。
3
けれど、そうやって頑張って作り上げた安全地帯は、
私が7歳になった時に急に崩壊した。
お父さんが休日、パチンコに行った帰りに交通事故で死んだのだ。
ああ、終わった、と私は思った。
お父さんがいなくなったということは、
私とお母さんは生活ができなくなるので、
近いうちに野垂れ死ぬことになるんだと私は絶望した。
けれど、お父さんが言っていた話とは違い、
お父さんがいなくなった後も、私の生活は続いた。
ずっと家にいたお母さんが今度は仕事に行くようになり、
お母さんが稼いだお金で、私は生き続けることができた。
その頃になってようやく、
私はお父さんにずっと嘘をつかれていたのだと気づくことができた。
お父さんの脅しは、すべて私を服従させるための嘘だったのだ。
それがわかった時、私はひどくやるせない気持ちになった。
4
「花火、お母さんね、この人たちと新しい家族になりたいって思ってるの」
父が死んでから1年経ったある日、お母さんは私にそう言って、
1人のおじさんと1人の男の子を紹介した。
ファミレスで外食するとしか聞かされていなかった私は、
着いていきなりそんなことを言われたのでびっくりした。
「黙っててごめんなさい。でも、再婚したいって言ったら花火は絶対
嫌がると思ったから、せめて1回こうやって会う機会を設けたかったの」
とお母さんは言った。
確かにお母さんの言っていることは正しい。
再婚して新しいお父さんができたら、
またそのお父さんを大好きにならなきゃいけないだろうし、
機嫌を伺ってびくびくしながら毎日過ごさなきゃいけないだろう。
だから、私はお母さんに再婚してほしくなかった。
けれど、最近お母さんが仕事で毎日疲れ切っていることも知っているので、
お母さんのことを思えば、再婚した方が良いことも私はわかっていた。
だから、前もって再婚の話をされても
私は表立って反対はしなかったと思うのだ。
「君が花火ちゃんだね。こんにちは。僕は涼風実って言います。
できれば今日、少しだけでもお話しできるとうれしいな」
眼鏡をかけたおじさんが穏やかな笑みを湛えて言った。
その優しそうな微笑みに私は前のお父さんのよそ行きの笑顔を思い出した。
私は知っている。
どんなに優しそうな人だろうと、心の奥底には化け物を飼っていることを。
前の父も家の外ではいつもにこにこしていたが、
家族の前では怒鳴ってばかりいた。
この人もこれから家族になったら私への態度を豹変させるんだろう。
だから、どんなに優しく話しかけられても気を抜いちゃだめだ。
私はにこっと笑顔を作る。
「私もいろいろお話したいです。これからよろしくお願いします」
と元気よく返事をすると、おじさんはほっとしたように体を脱力させた。
「うん。こちらこそよろしくね」
と言って、彼は私の頭に手を伸ばす。
私はつい、顔がこわばってしまった。
近づいてくる手を見て、
叩かれるんじゃないだろうかと怖くなったのだ。
けれど、すぐに笑顔を作り直して
大丈夫、大丈夫、と自分に言い聞かせた。
ファミレスはたくさん人がいるし、私たちはまだ初対面だ。
暴力を振られることはまずないだろう。
仮に暴力を振られたとしても、それはチャンスだ。
その暴力を受け入れれば、
きっとおじさんも私を受け入れてくれるだろうから。
そんなことを思っているうちにも、おじさんの手がどんどん近づいてくる。
私の頭に触れるまであと数cmもない。
心臓の音が速くなるのを感じながら、私はぎゅっと目を閉じた。
けれど、その手が私の頭に触れるより先に、
「待って。お父さん」
と言って、隣にいた男の子がおじさんの手を制止させた。
「どうした?楓?」
とおじさんが首を傾げる。
楓と呼ばれた男の子は何か考えるような素振りを見せた後、
「俺、お腹空いちゃって‥‥‥。ご飯、頼んでもいい?」
と言った。
おじさんは「ああ」と言って伸ばしていた手を戻した。
そして
「確かにそうだな。まずご飯を頼んじゃおうか」
と言い、メニュー表を開いた。
これを頼もうか、あれを頼もうか、と2人で話し始める。
見たところ、私に触れるつもりはもうなさそうだった。
ほっと胸を撫でおろす。
十中八九暴力は振られないと分かっていても、
私はかなり緊張していたようだ。
安堵のため息を吐いていると、ちらっと男の子がこちらを見てくる。
なんだろうと思って見つめ返すと、
彼はすぐに私からメニュー表へと目を逸らした。
5
ファミレスに来て1時間が経った。
この1時間、お母さんとおじさんは楽しそうに会話をしていた。
お母さんがときおり、今まで見たことがないような優しい表情をするので
少し呆気に取られてしまった。
お母さんは本当にこのおじさんのことが好きなようだ。
もしかしたら、
今回のおじさんは本当に裏表のない優しい人なのかもしれない。
けれど、怖いという気持ちはどうしてもなくならず、
警戒を解くことはできなかった。
ずっと笑顔を作っていた私は
少しだけ休憩したくなり、
ジュースを注ぎにいくという口実で1度席を離れた。
ドリンクバーマシンへと向かい、グラスにコーラを注ぐ。
空だったグラスがコーラで満たされていくのをぼーっと眺めながら、
「‥‥‥疲れた」
と呟いた。
口にした瞬間、体が一気に重くなった。
前のお父さんが死んでから、家では1人でいることが多かったので、
気を張らずに過ごす毎日に体が慣れてしまっていた。
1時間気を張っていただけで、私はもう気力の限界を迎えていた。
再婚したらこんなに疲れる時間を毎日過ごさなきゃいけないのだろうか。
そう考えると、途方もない気持ちになってくる。
大丈夫だろうか。
私はちゃんと新しい家族と上手くやっていけるだろうか。
グラスがコーラでいっぱいになっても私はしばらく動けなかった。
すると、ふいに
「疲れたの?」
と背後から声がした。
はっとして、私は後ろを見る。
そこには、おじさんの隣に座っていたはずの男の子がいた。
どうやら彼もジュースを注ぎに来ていたみたいだ。
全然気づかなかった。
‥‥‥まずい。多分、独り言を聞かれた。
さっきまで私は楽しんでるふりをしていたのに、
本当は全然楽しんでいなかったんだとばれちゃったかもしれない。
もしそうなら彼は今、私の事を嘘つきの嫌な奴だと思っていることだろう。
どう返答しようかと焦った頭で考えるが、
まったく良い言葉が浮かんでこない。
何も返答できずにいると。
「ん?」
と彼は首を傾げた。
このままじゃいけないと思い、私は咄嗟にまた笑顔を作る。
「ぜ、全然疲れてないですよ。どうしてそんなこと聞くんですか?」
「え?でもさっき疲れたって‥‥‥」
「あ、あ~。確かに言いましたけど‥‥‥。その‥‥‥」
そこで言葉が途切れてしまう。
だめだ。
やっぱり上手く誤魔化せそうにない。
どうしよう。
このままだとこの男の子がおじさんに告げ口するかもしれない。
そしたら私はどうなってしまうんだろう。
黙ったまま肩を縮めて俯いていると、
彼はこちらの様子を数秒伺ってから、
「ちょっと待っててくれる?」
と言った。
「……え?えと、はい」
私はわけもわからないままうなづいた。
すると彼はニコッと微笑んで
お母さんとおじさんのいるテーブルに走って戻っていった。
何をするつもりだろうと思っていると、
「ねえ、おとーさん。あのね‥‥‥」
と彼はおじさんに声をかけた。
嫌な予感がして、心臓がきゅっと締め付けられた。
もしかして、彼は私のことを告げ口するつもりなんじゃないだろうか。
私は慌てて「待って!」と言おうとした。
けれど彼は、私が口を開くより先に
「俺もう疲れちゃった。今日はもう帰りたいな」
と言葉を続けた。
「‥‥‥へ?」
驚いて変な声が出てしまった。
さっき話しかけられた感じだと、彼は疲れているようには見えなかった。
私が気づかなかっただけで、実は彼も疲れていたんだろうか?
男の子の言葉におじさんは顔をはっとさせた。
そしてすぐに腕時計を見る。
「もうこんな時間だったのか。
確かに子どもが外にいていい時間じゃないな。
そろそろ帰るか」
と言った。
「茜さん。今日はここらでお開きでいいかな?」
おじさんがお母さんに聞く。
「ええ。そうね。そうしましょうか」
とお母さんも同意をして、そこで解散になった。
何はともあれ、私は帰れることに安堵した。
「それじゃ、先に失礼するね」
と言って、おじさんと男の子がファミレスを出ようとする。
するとそこで、男の子は一旦おじさんの手から離れて私の方へと近づいてきた。
そして、
「名前、花火だったよね?」
と聞いてきた。
「は、はい。そうです」
と私は言った。
「花火は、何歳?」
「えっと、8歳です」
どうしてそんなこと聞くんだろうと疑問に思ったが、
とりあえず私は素直に答えた。
すると彼は、
「それじゃ、家族になったら俺がお兄ちゃんだ。
やった。俺、お兄ちゃんって憧れてたんだよね」
と言って笑った。
しばらく喜んだ後、彼は私の方に向き直り、親が子供をあやすように
「あのね。妹は、お兄ちゃんにいっぱい頼っていいんだよ。
だから、辛いことがあったら遠慮なく話していいんだからね」
と言った。
「‥‥‥」
そんなこと言われると思っていなかった私は、
訝しげに彼を見つめた。
一体何が目的でこんなことを言ってくるんだろう。
頼られることで彼に何の得があるんだろうか。
と私は考え込んでしまう。
しばらく何も言えずにいたが、
彼はそれを気にする様子もなく、
「それじゃあね」
と言って満足げにおじさんのところへ戻っていった。
「‥‥‥あ。は、はい。さようなら」
言うことだけ言って去っていった彼に拍子抜けしつつ、
私は慌てて手を振る。
本当に、一体何だったのだろう。
彼がいなくなった後も、私はしばらく
頭がぐるぐるして変な気持ちが止まらなかった。
6
帰り道、お母さんの運転する車に揺られながら
私は楓と呼ばれていた男の子の言動を何度も思い出していた。
おじさんが私に触れようとしたときにそれを止めたこと。
おじさんに疲れたと言って帰ることを催促したこと。
なんとなくだけど、その2つとも彼は私のためにしてくれたんじゃないか、
と思い始めていた。
もしそうだとしたら、彼は何のために私に優しくしたんだろう。
考え込んでいると、
「どう?花火。いい人だったでしょ?」
とお母さんが聞いてきた。
「う、うん‥‥‥」
「‥‥‥私、また結婚しちゃってもいい?」
と不安そうな顔をする。
「‥‥‥うん」
と私はうなづいた。
お母さんのことを思えば否定なんてできるはずもない。
再婚相手がどんな人だろうと、私は成り行きに任せるしかないのだ。
まだおじさんの本性も、あの楓と呼ばれていた男の子の本性もよくわからない。
正直、不安で不安で仕方なかった。
けれど‥‥‥。
(妹は、お兄ちゃんにいっぱい頼っていいんだよ)
帰り際に男の子に言われた言葉を思い出す。
なぜかそれだけで、私の未来に対する不安は少しだけ和らいだ。
別に彼の言葉を真に受けたわけではない。
あんな都合の良い言葉、絶対に嘘に決まっている。
それはわかっているつもりだ。
それでも、
「あの人は、どんな人なんだろう‥‥‥」
と自然と口から言葉が漏れた。
彼がどんな人なのか知りたい。
今はその好奇心だけで、なんとかやっていけそうな気がした。




