第4話
1
俺は5歳の頃、実の母に殺されかけたことがある。
真っ暗な寝室で、1人布団をかぶって目を閉じていると、
母が寝室にこっそり入ってきて、俺の首を絞めてきたのだ。
必死に抵抗したのだが母の手の力は恐ろしく強く、
俺の力じゃびくともしなかったのを今でも覚えている。
結局なすがままに首を絞められつづけ、
視界が滲んで真っ暗になりかけたところで、
父が寝室に入ってきて、俺を助けてくれたのだった。
その後、どのようにして事態が収束していったのか、
俺はまだ小さかったのでよく覚えていないが、
1つだけ未だに頭に焼き付いて離れないことがある。
それは、首を絞めるのを父に阻止されたときに母が言い放った言葉だ。
「あんたなんか産まなきゃよかった!そしたら私は幸せになれたのに!」
流れ出る涙を拭きもせずに
憎悪に満ちた瞳を俺に向けて母はそう言ったのだった。
2
後日、実は母は浮気をしていて、
その浮気相手との結婚を本気で考えていたという話を聞かされた。
けれど母は子供がいることを理由に浮気相手に結婚を断られていたらしい。
そんな理由で母の怒りの矛先は俺に向くことになったというわけだ。
10年以上前、遥か昔の話だが、
俺は今でも、時々あの日の夢を見ることがある。
暗闇から、不健康なくらいに白い両手が伸びてきて俺の喉元を掴むと、
その両手がそのまま力いっぱい俺の首を絞めてくる夢だ。
俺はその夢を見るたびに
どうしようもなく悲しい気持ちになって母に聞くのだ。
「俺が死んだら、お母さんは俺を愛してくれましたか?」
と。
3
◇◇◇◇◇◇
しばらく、ぼーっととりとめのないことを考えていると、
「おにーちゃん。猫触らないの?」
と声をかけられて、俺ははっとした。
周りを見渡し、状況を把握する。
そこかしこに設置されている金属製のキャットタワー。
そのキャットタワーに乗るたくさんの猫たち。
部屋中を漂うコーヒーの香り。
そうだ。俺は猫カフェに来ていたんだ、と思い出す。
隣にいた花火は俺からの返答がないので
まだきょとんとした表情で俺を見ていた。
「あ、ああ。触る触る。ほらほらおいで~猫たち~」
と言って猫を手招きする。
しかし猫は全く寄ってこなくて、俺はがっくりした。
そんな俺を見て、花火が得意気な表情で
「だめだね。お兄ちゃん。猫の扱いが全然わかってないね」
と言った。
俺はその言葉に少しむっとする。
「お前はわかってるっていうのかよ」
「まあね。見ててよ」
花火はそう言うと、急に四つん這いになってそろりそろりと移動しはじめた。
そして部屋の隅にいる猫ににじり寄っていく。
その様子を他の猫カフェ利用客(主に男性)がちらちらと見ていた。
元々スタイルの良い花火が、
四つん這いという胸の大きさやお尻の形を強調する姿勢取っているので、
目を奪われたのだろう。
かくいう俺も男の本能には逆らうことが出来ず、
つい花火の様子に見入っていた。
花火は
「にゃー。にゃー」
と猫の鳴きまねをする。
猫が花火の方を向いてこてんと首を傾げた。
手ごたえを感じた花火がまた
「にゃ~~~」
と四つん這いのまま鳴く。
すると猫は花火を母猫だと勘違いしたようで、
まったく警戒せずに、花火の胸に飛び込んでいった。
「おっと!」
驚きつつ、飛び込んできた猫を花火は両手で抱きとめる。
甘えた声を出して、
猫は妹の大きくてふかふかな胸に顔をこすりつけていた。
そんな猫を花火は慈愛に満ちた表情で撫でる。
そして
「ふふん」
と鼻を鳴らしながらこちらを見た。
本来、ここは悔しがるべきなのだろうが、
花火と猫のやり取りが思いのほかエロティックだったので、
俺は悔しさを忘れて、ごくりと唾を飲んでいた。
なんだろう。この感じ。
ちょっと猫が羨ましいな。
そう思っていると、
「ん?」
と花火は首を傾げた。
俺のリアクションの薄さに違和感を感じたようだ。
「どうしたの?お兄ちゃん。もしかしてお兄ちゃんも頭撫でてほしいの?」
「え……」
まるでこちらの思考を読んでいるかのような鋭さに、
俺は動揺してしまう。
けれど、すぐに咳ばらいをして平静を装った。
「そんなわけないだろ。その猫がかわいいからじっと見てたんだ」
と言うと、
「ふーん」
と花火は何か察したようにニヤニヤする。
そして抱きしめていた猫を離して俺の方に近づいてきた。
「な、なんだよ」
と俺が少し警戒して言うと、
花火はゆっくり手を伸ばして、俺の頭を撫でてきた。
不敵な笑みを浮かべて
「あれあれ~。この猫は触っても全然抵抗しないな~。かわいいな~」
とからかってくる。
「え!?い、いや。ちょっと……」
やめろというはずが、言葉が萎んで消えてしまう。
多分、蛍に振られたばかりで愛に飢えていたせいもあるだろう。
花火がふざけてやっているのはわかっていたが、
思いのほか幸せな気持ちでいっぱいになって、
俺は何も言えなくなってしまった。
頭撫でられるのってこんな気持ちいいんだ。と思っていると、
花火は俺の頭から手を離し、
「はい。おしまい。どう?今の彼女っぽかった?」
と言った。
なるほど、と俺は思った。
建前上今日は、花火が俺を元気にするために
疑似デートをしてくれているという設定
(多分、本当の目的は俺への仕返しである)なんだった。
今のちょっと攻めた行動もその一環というわけか。
……どうせ演技なら、もう1回くらいやってくれないかな。
なんて邪な考えが浮かんでくる。
しかし、俺は自分の威信にかけて何とかその邪心を振り切った。
「俺の元カノはそんなからかうようなことはしてこなかったよ」
と言うと、
「じゃあ、もっと優しい感じで撫でてあげよっか?」
と花火が言う。
「……へ?」
俺は間の抜けた声を出してしまった。
優しい感じってどんな感じだろう。
正直めちゃくちゃ気になる。
けど、素直にやってくださいってお願いしたら、
俺は何か大切なものを失ってしまう気がする。
ぐう。どうしよう……。
しばらくの葛藤のあと、
すんでのところで俺は踏みとどまった。
腕を組んで気丈な態度で
「い、いらない」
と言うと、
花火はあははと笑いながら
「別に我慢しなくてもいいのにー」
と言った。
4
それから2時間俺と花火は存分に猫カフェを堪能してくつろいだ。
最後の方になると俺も猫の扱い方がわかってきて、
いっぱいもふもふ出来るようになった。
この2時間で俺の荒んだ心はずいぶん癒されたような気がする。
猫ってすごいなと思った。
5
「あれ?花火どこに行ったんだ?」
トイレで用を足してから猫カフェを出た俺は
先に外に出ていたはずの花火が見つけられず、おろおろしていた。
しばらくあたりを見回していると、
「おねーさん。こんなところで何やってんの?」
とどことなく鼻につく、作ったような甘い声が聞こえてきた。
声のする方へ顔を向けると、金髪のチャラそうな男子大学生が
花火に声をかけている。
多分、ナンパだ。
声をかけられた花火は青ざめた顔で過剰なくらい怯えている。
普段とは全く違うその態度に俺は驚いてしまった。
「あれ?ひょっとして無視?さすがにそれはひどいんじゃないかな~」
金髪男は少し不機嫌そうに言った。
花火がびくっと体を震わせる。
そして、
「え、えと。その……」
としどろもどろに言った。
本当にどうしたんだ?と俺は思った。
さっきまで俺をからかっていた人間とは
思えないくらいにおとなしいじゃないか。
花火って知らない男の前だと、こんなにへなちょこになるのか?
「あはは、大丈夫だよ。取って食ったりしないからさ。
ほらちょっと、あっちの喫茶店で休んでいかない?
俺金出すから」
弱気な花火の態度を見て、押したらいけると思ったのか、
ナンパ男はぐいぐいと花火に詰め寄った。
「い、いや。その、人を待っていまして……。
だ、だから、その……」
ぼそぼそと花火が言う。
けれど男は花火の言葉をよく聞かずに
「ん?ああ。まあ、いいからいいから」
と言って、強引に手首を掴んだ。
まずいな、と俺は思った。
この様子じゃ、このまま押し切られて
花火がどこかに連れてかれてしまいそうである。
それとも、花火としてはそっちの方が良いんだろうか?
煮え切らない態度を取っているのも、
本当は俺とのデートをやめてナンパ男と遊びたいからなんじゃないだろうか。
急にそんな疑念が湧いてきて俺はモヤモヤした。
よく見てみると、ナンパ男は結構イケメンだし、
話し方も流暢で俺より面白そうだし、
服にも気を遣っていておしゃれだった。
昨日、蛍に捨てられたばかりなのに、
俺は花火にも見捨てられるんだろうか。
そんなことを考えていたら、ぎゅっと胸が苦しくなった。
そうしてる間にも、花火がどんどんナンパ男に引っ張られていく。
居ても立ってもいられず、俺はナンパ男のもとへ走っていた。
そして、腕を掴んで、
「やめてください!」
と叫んだ。
急に出てきてそんな行動を取った俺に、花火は大きく目を見開く。
ナンパ男は驚いた様子で
「は?だ、誰だよあんた」
と言って俺の手を振り払おうとした。
けれど、俺は意地でもその腕を離さなかった。
「俺は花火の……、か、彼氏です!」
兄ですというはずが、冷静さを欠いてそんな返答をしてしまう。
変なことを言っている自覚はあったが、それでも俺は言葉を止めなかった。
「だ、だから……、だから、俺から花火を奪わないで!!」
言ってから自分でもびっくりした。
今日、ちょっと優しくされただけのはずなのに、
俺は結構花火に依存しているらしい。
俺、どんだけ余裕がないんだ。
ナンパ男は俺があまりに必死なので若干引いていた。
そして、俺の手を振りほどいて、
「ふ、ふん。彼氏がいるなら最初っからそう言えよ!ったく!」
と不満げに言葉を吐き捨ててその場を去っていった。
6
ナンパ男がいなくなり、2人きりになると、
花火は俺を無言でじっと見つめた。
なんとなく責められているような気がして、俺は顔を伏せた。
多分花火はナンパ男と遊びたかったはずだから、
無断でナンパ男を追い払ったことを良くは思ってないだろう。
それに兄にこんなに依存されていることを知って、
今めちゃくちゃ引いているに違いない。
……俺は、これから一体何を言われてしまうのだろうか。
考えただけでもサッと血の気が引いてくる。
びくびくしながら花火の言葉を待っていると
「お兄ちゃん」
と花火が俺を呼んだ。
恐る恐る顔を上げて、上目遣いで花火の顔を見る。
すると、花火が真剣な顔で
「お兄ちゃんは、私が他の人のところに行っちゃうの嫌なの?」
と聞いてきた。
……顔が青ざめていくのを感じる。
そんなのさっきの俺の発言や態度でわかりきっているはずなのに、
どうしてあらためて聞いてくるんだろう。
とりあえず、「そうだよ」とは言えそうになかった。
そんなこと言ってしまったら、花火は困った顔で
(えーと、お兄ちゃん。さすがにそれはやばいと思うよ?
ちょっと引くっていうか、怖いっていうか。
……ごめん、ちょっとこれからはもう私に近づかないで。
今日はこれで帰るから。じゃあね)
とか言ってくるに決まってる。
容易に想像がつく。
ここは嘘をつこう。
そんなことないって一言言えば、多分花火もほっとするだろう。
そう思って、俺は笑顔を作ってなるべく何でもない風を装ってから
ゆっくり口を開いた。
「い、いや……そんなことは……」
しかし、そこまで言いかけて、言葉が止まってしまう。
「そんなことは……、そんなことは……」
どうしても最後まで言うことが出来ない。
俺は思った。
もしここで嘘をついて、
本当に花火がさっきのナンパ男のところに行っちゃったらどうしよう、と。
本当のことを言って引かれるのも怖いけど、
嘘をついて花火が本当にいなくなってしまうのはもっと怖かった。
どっちを選んでも辛いなら、
いっそ本当のことを言った方がいいんじゃないだろうか。
そう思い、俺はごくりと唾を飲んで覚悟を決めた。
そして、
「そんなこと……ある……かも」
と言った。
すると一瞬、花火の目がきらっと輝いた気がした。
妹は少しずつ体を寄せてきて、腕をぎゅっと抱きしめてくる。
「は?え?」
と困惑していると、
「次は焼肉屋だったよね?」
と聞いてきた。
「あ、ああ。そうだけど。っていうか、俺のこと引かないのか?」
「引く?なんで?私はお兄ちゃんの本音が聞けて嬉しいよ」
「そ、そうなんだ……」
予想外過ぎる反応に俺は驚くとともに、じわじわと胸が温かくなった。
良かった。引かれなくて。
「よーし、焼肉屋にしゅっぱーつ」
と花火がテンション高めに言って、進行方向を指さす。
「ちょ、ちょっと。このまま歩くのか?」
抱きしめられたままの右腕を指さして俺は言う。
「うん。だってこっちの方が彼女っぽいでしょ?」
と花火は言った。
「ま、まあそうかもしれないけど……」
「うん。それじゃ行こう行こう」
と言って花火が笑顔で歩き出した。
7
歩いている途中、花火は猫のように俺の腕に顔をすりすりしてきた。
しばらくすりすりしていると、頬のガーゼがペロッと剥がれて
青黒いアザが見えた。
花火は
「おっとっと……」
と言いながらガーゼを貼り直し、また俺の腕に抱きついてきた。




