最終話
1
◇◇◇◇
涼風花火。
キン、と高い金属音を立てながら、
ナイフが少し遠くの方へと転がっていく。
気づいたら私は男の手を思いっきりはたいていた。
その不意打ちで、彼は持っていたナイフを手離してしまったのである。
「っつ‥‥‥」
彼は右手を押さえながら顔を歪めた。
ひるんでいる隙に、私は蛍さんの前に立つ。
それを見て、彼は蛍さんから私へと注意を移した。
「あ!?誰だお前!?ぶっ殺すぞ!!!」
と大声で怒鳴ってくる。
震える体を頑張って抑えこんで、
「ほ、蛍さん逃げて!」
と私は言った。
相手はどう見ても怒りで我を失っている。
私はこういう状態の人間がどんなことをしてくるかよく知っていた。
このままだと、蛍さんは何分でも何時間でもこの男に殴られ続ける。
蛍さんが痣だらけになったら、
きっとお兄ちゃんは泣いて悲しむだろう。
そんなお兄ちゃんを見るくらいなら、
まだ、自分が殴られた方がましだ。
幸い相手は、はたかれたことに血が上っていて、
今は私のことしか見えていない。
蛍さんを逃がすなら今だ。
「ほ、蛍さん早く!」
と言うが、蛍さんが動き出す様子がない。
後ろを見ると、彼女は腰を抜かしてその場から動けなくなっていた。
そうこうしているうちに、男がずんずんとこちらに近づいてきた。
「俺の話無視してんじゃねーよ!!」
と声を荒げながら、こちらに向かって踏み込む。
ああ、だめだ。蛍さんを逃がせられないと私は思った。
瞬間、男は私の腹に思いっきり蹴りを入れた。
みぞおちに男の足がめりこむ。
私は呼吸ができなくなり、悶絶した。
そのまま体勢を崩すと、
呼吸を整える間もなく、彼が覆いかぶさってくる。
そして、私の両手は彼の左手によって頭の上で押さえつけられてしまった。
どうにかして振りほどこうとしたがびくともしない。
そのまま彼はもう片方の手で拳を振り上げる。
あ、このままだとまずいと思った次の瞬間には
彼に顔を殴られていた。
1発、2発、3発。
「くそ!くそ!くそ!どいつもこいつも俺のこと馬鹿にしやがって!!!」
と男が叫ぶ。
殴られるたびに不快な打撃音が頭に響き、視界が真っ白になった。
私は痛みと恐怖に支配されて、意味もなく足をバタバタさせた。
もちろんそんなことで大男を体の上からどかすことはできなかった。
私の意志とは関係なく、勝手に涙が出てくる。
男は私が泣いていることなどお構いなしに殴り続けた。
4発、5発、6発、7発、8発、‥‥‥。
殴られ続けているうちに、だんだんと私は抵抗する気力を失っていった。
遠のく意識の中でまあいいか、と思った。
どうせ私じゃ、この人には勝てないんだ。
それに私が殴られ続けている限り、蛍さんに危害は加わらない。
それなら彼の怒りが収まるまでずっとこのまま待っていよう。
大丈夫。私は痛いのに慣れているから。
きっと、今回も我慢できる。
私はすべてを諦めて、体をだらりとさせた。
「ちょっ、ちょっとこれさすがにやばくない?」
「だ、誰か早く先生呼ばないと!」
と教室の外から声が聞こえてくる。
知らないうちに、教室の前にはぎっしりと人だかりができていた。
その声に我に返ったのか、
男は12発目の拳を振り上げたところで急に静止した。
そして、私の体を離して立ち上がった。
本来の目的を思い出したらしい彼は、
私から蛍さんへと顔を向ける。
「ひっ」
と小さな悲鳴を上げて、蛍さんが身をすくめた。
彼はのっそのっそと歩いて、蛍さんの方へと近づいていく。
このままだと、今度は蛍さんが暴力を振られる。
そんなことになったら、私がここまで殴られた意味がなくなってしまう。
どうにかして、蛍さんをかばわなきゃ、と朦朧とした頭で私は思った。
痛くて、辛くて、今すぐにでも閉ざしてしまいたい意識をなんとか繋ぎとめて、
私は立ち上がる。
ただお兄ちゃんの笑った顔だけを思い浮かべて、叫んだ。
声の勢いのまま男へ体当たりする。
けれど、私の全身全霊の攻撃を受けても男はよろめくことすらなかった。
足を掛けられて簡単に私は打ち倒されてしまう。
そして仰向けになった状態でお腹を思い切り踏みつけられた。
口から空気が強制的に吐き出され、
「ごっ」と自分でも聞いたことのない声を出した。
息ができなくなり、私は今度こそ立ち上がれなくなった。
私が動かないのを確認すると、
男はそのまま蛍さんへとさらに近づき、しゃがんだ。
「もう1回言ってやる。別れるって言ったのを撤回しろ」
「‥‥‥」
蛍さんは泣きながら、首を横に振った。
男は何も言わずに拳を振り上げる。
「や‥‥‥めて‥‥‥」
満足に呼吸ができないまま、私は声を振り絞って言った。
その声が何かの役に立つわけもなく
蛍さんはそのまま男に殴られた。
私の時と同じように何回も何回も殴られ続けた。
私は絶望した。
こんなに身を削ったのに、私は蛍さん1人守ることができないようだ。
お兄ちゃんの悲しむ顔が思い浮かぶ。
私はお兄ちゃんに褒めてもらうことすらできない。
私は、お兄ちゃんの何になれるんだろう。
私は、お兄ちゃんの何にならなれるんだろう。
‥‥‥きっと何にもなれない。
悲しくて、弱い自分がみじめで、涙が溢れた。
誰か、助けて。
お願いだから、誰か助けて。
声がまともに出せない私は、
そう心の中で念じた。
けれど、教室の外で傍観している生徒たちは
誰もこの惨状を止めには来なさそうだった。
そりゃそうだよね。と私は思った。
わざわざ自分から痛い目に遭おうとする人なんているわけがない。
どんなに絶望的な状況でも、結局自分で何とかするしかないのだ。
しばらく殴り続けた男は蛍さんの胸倉を離して、立ち上がった。
彼女は気を失っているのか、体をぐったりさせていて動かない。
男は床に落ちているナイフを拾いに行くと、
幽霊のように感情を失った目でまたこちらに戻ってきた。
まさか本当にこのまま蛍さんを殺す気なんだろうか。
にわかに信じがたいことだけど、
男の無感情な目を見ているとありえないことではないような気がした。
時間が経って、少し息が整ってきた私は
あるだけの力を振り絞ってもう1度立ち上がった。
男は私を見て、めんどくさそうに小さく息を吐いた。
「だるいな。何回殴られたら気が済むんだ?
お前に構ってる暇ねーんだよ」
と言う。
「蛍、さんを、どうする、つもり?」
私はお腹を抑えながら途切れ途切れに聞いた。
「殺す。俺にはこいつを殺す権利がある。
邪魔するならお前も殺す。
死にたくなかったら大人しくしてろ」
と言い、男は蛍さんの方へと向かっていった。
私はおぼつかない足取りで男に追いつき、
倒れそうになりながら右腕を掴んで渾身の力で噛んだ。
「ぐあぁああ!!」
と男が獣のような声を上げる。
次の瞬間、男に振り払われ、私は転がりながら倒れ伏していた。
激情した男は私の顔や首や脇腹や腰や腕や、ありとあらゆる場所を
乱雑に何度も蹴った。
蹴られる度に私の視界がぐらんと揺れた。
口内のどこかが切れているらしく、
開けた口からは唾液ではなく血が流れていた。
私はとっくに限界を迎えていて、
どんなに力を込めても、もう体は動きそうになかった。
依然として絶望的な状況に変わりはない。
けれど、相手の注意はまたこちらに向いていた。
後は、蛍さんにこれ以上危害が加わる前に、
先生が来るのを祈るだけだ。
私はやれるだけのことはやったと思う。
「さっき俺言ったよな。邪魔するなら殺すって」
男は鬼のような形相で私を見下ろしていた。
私は何も返答しなかった。
「そんなに死にたいなら先に殺してやるよ」
男はナイフを持った手を振り上げる。
ああ、ここで殺されるのか、と私は思った。
ナイフを見つめながら、
私はもう一度お兄ちゃんのことを思い浮かべる。
もし、これで蛍さんが助かったら
お兄ちゃんは私を愛してくれるかな‥‥‥。
私は目を閉じる。
‥‥‥その時だった。
「うわあああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
聞き覚えのある誰かの叫び声が耳に響いた。
それがお兄ちゃんの声だと気づいた時には、
もう目の前の男は視界から消えていた。
あまりにも急な出来事に、私の頭がフリーズする。
それから状況を理解するのに数秒時間を費やした。
どうやら、男がナイフを振り下ろすより先に
お兄ちゃんが教室に入ってきて、捨て身で男に突進したらしい。
倒れた拍子に教壇の角に後頭部をぶつけたらしく、男は気を失っていた。
「‥‥‥お、お兄、ちゃん?」
と私は視線だけをお兄ちゃんに向けて言った。
男が伸びている間に、お兄ちゃんが起き上がる。
そして息を切らしながら私と蛍さんを見て、固まった。
多分、蛍さんが傷だらけの状態で気を失っていることに
衝撃を受けているんだろう。
私は焦った。
「おに、ちゃん。これ、違うの。
私、がんばったん、だけど」
必死で弁明するけれど、お腹を何回も蹴られたせいで、
上手く息継ぎができず、言葉が途切れてしまう。
そうこうしているうちに、お兄ちゃんの顔が悲痛に歪んだ。
その顔を見て、
私の心にも冷たい刃が突き刺さったような気がした。
息がさらに上手くできなくなる。
ああ、だめだ。
やっぱり私は、もっともっと自分を犠牲にして、蛍さんを守るべきだったのだ。
もっと体に鞭打って、男を挑発すれば、
それは不可能なことではなかったような気がした。
何でそうしなかったんだと、私は強く強く自分を責めた。
これでまた、お兄ちゃんに恨まれる。
お兄ちゃんに嫌われる。
「ご‥‥めん‥‥‥なさい」
と私は言った。
お兄ちゃんは私の言葉には一切反応せず、1歩踏み出した。
そして蛍さんには見向きもせず、こちらへ走り寄ってきて、倒れている私を抱き抱えた。
「馬鹿馬鹿馬鹿!!なんであの時電話切ったんだよ!
お前が居場所を教えてくれれば、すぐにここに来れたのに!!」
とお兄ちゃんが大声で喚く。
それから
「‥‥‥う、ううう、ゔぅ」
とうめくように泣いて一層強く私に抱きついてきた。
「‥‥‥え?」
私は状況がよく理解できなかった。
なんで蛍さんではなく最初に私のところに来るんだろう。
こういう時は1番先に蛍さんのところに行くべきだと思うんだけど、
お兄ちゃんにはそこのところの常識がないんだろうか。
それに今ここにはたくさんの生徒がいて私たちのことを見ているのだ。
私を抱きしめたりなんかしたら、
お兄ちゃんはまた、妹と付き合っている変態だって思われかねない。
「お兄、ちゃん。みんな、見てる。
お兄、ちゃんが、悪く、言われちゃう」
と言って、私は頑張ってお兄ちゃんから離れようとした。
けれど、お兄ちゃんは私を離してはくれなかった。
「どうでもいいそんなこと!いいから俺から離れるな!」
と言ってお兄ちゃんは私の体をさすりながら更に泣いた。
ひそひそと傍観している生徒たちの声が聞こえてくる。
周りの人たちはやっぱり私たちのことを変に思っているらしい。
けれど、私は気にするのをやめることにした。
少なくとも今はもうこれ以上お兄ちゃんをつき離すことはできそうになかった。
私は何も考えずに体を預けて、存分にその体温を味わった。
緊張していた体の力が抜けていく。
体中が痛いし疲れたし、もうこのまま眠ってしまおうかな、なんて
私は安心しきった頭で思った。
けれど、視界の端にたまたま男の姿をとらえて、
私の眠気はすぐに飛んでいった。
反射的に男の方へ顔を向ける。
男は、結構前に目を覚ましていたらしく
いつの間にかお兄ちゃんの背後に茫然と立っていた。
ナイフを持ったまま
「お前だ。お前のせいで蛍は‥‥‥」
とぶつぶつつぶやいているのが聞こえる。
私はぞっとした。
「お兄ちゃん!!後ろ!!!」
と私は叫んだ。
けれど、私が声を発したときには男はもう踏み込んでいた。
「お前さえ‥‥‥お前さえいなければぁ!!!」
と言って男がお兄ちゃんにナイフを刺そうとする。
背後から襲われるのを感じ取ったお兄ちゃんは
とっさに背を丸めて、私の体や顔を覆った。
「ぐっ!!」
とお兄ちゃんが歯を食いしばる。
背を丸めて体を小さくしたためか、男が刺そうとしたナイフは、
お兄ちゃんの肩を少しかすめただけだった。
それでもシャツは裂け、肩からじわじわと血がにじみ出てくる。
「はあ、はあ、はあ、くそ、くそ‥‥‥」
と男がつぶやく。
男は血を見て、急に怖くなったのか
その場からしばらく動かなくなった。
と、その時
「おい!何やってるんだ!!その手に持ってるものを離せ!!」
と言って先生が教室に入ってきた。
その声を皮切りに総勢5,6名の先生がずらずらと教室に入ってくる。
男はそのまま複数の先生達に取り囲まれ、
すぐに体を拘束された。
「離せ!俺は悪くない!!」
と男は叫んだ。
けれど、先生たちは男の言葉を無視した。
「駄目だ。こいつ興奮してるぞ。このままいったん外に出そう」
と先生達だけで会話をして、男をそのまま教室の外へと連行しようとする。
「くそ!俺の話聞けよ!悪いのはあいつらだ!俺は悪くないんだ!
くそ!なんで伝わんねーんだよ!!」
先生たちは嫌悪のまなざしで男を見るだけで、何も返答はしなかった。
男は引きずられながらなおも泣き叫んだ。
「あんたらには、あんたらにはわかんないだろうな。
愛されてると思ってた人に裏切られるのがどんだけ苦しいのか。
薄情なあんたらには!!!」
その言葉を最後に男の姿は見えなくなった。
2
静かになった教室で残りの先生が
「状況の説明は後で聞こう。
とりあえずまず怪我人を運ぶぞ」
と言った。
先生の1人が私の前に来てしゃがむ。
それからずっと私を抱きかかえているお兄ちゃんを見て、
「さ、連れていくから、一旦手を離して」
と言った。
お兄ちゃんは気が動転しているのか、首を横に振って
「い、嫌です!」
と言った。
そのまま更に私をぎゅっと抱きしめ後ろに下がる。
「え、えっと、それじゃその子運べないよ。
怪我してるんだから、そのままじゃ危ないでしょ」
と先生が困惑したように言った。
お兄ちゃんは目をごしごしとこすってから、
「‥‥‥花火は俺が運びます。俺のたった1人の妹なんです。
花火にこれ以上何かあったら嫌なんです。だから他の人には任せたくない。
ごめんなさい」
と言った。
それから立ち上がって私を横抱きした。
「いやいや、君も肩を怪我してるんだから安静にしないと。
妹さんは先生がちゃんと運ぶから安心しなさい」
と先生が焦った顔でお兄ちゃんを静止させようとする。
「大丈夫です。本当に、本当に、大丈夫なので‥‥‥」
と言ってお兄ちゃんはそのまま私は抱いて
教室を出た。
私はお兄ちゃんの首に腕を回して体の全部を委ねることにした。
お兄ちゃんは今怪我をしているし、もしかしたら先生に運んでもらう方が、
安全だったのかもしれない。
それでも私はお兄ちゃんに運ばれたいと思った。
たとえ安全面で劣ったとしても、
お兄ちゃんと一緒にいること以上に
私を安心させてくれるものは他に何もないのだから。
3
それから私は保健室に運ばれたらしいのだけど、
その辺りで気を失ってしまったので記憶がない。
次に目を覚ました時には、私は病院の白いベッドの上にいて、
隣でお兄ちゃんが椅子に座りながら眠っているところだった。
後で話を聞いた限りだと、
私は保険医に体を確認されて、お腹の内出血がひどいことから、
大きな病院で診てもらうことになったらしい。
学校から病院に運ばれて、入院することになり、
私がベッドで目を覚ますまでの間、
お兄ちゃんは片時も私から離れることがなかったそうだ。
お医者さんの話を聞いた限りだと、
私は私で身体に怪我を負ったけれど、
お兄ちゃんはお兄ちゃんで、
私のボロボロの姿を見て心にひどい怪我を負ってしまったのだろう、
と言っていた。
本当に大切な人に不幸なことがあると、
往々にして人は心が不安定になってしまうものなんだよ、とのことだった。
4
「なあ、花火。蛍から話は聞いたぞ。お前、蛍のことをかばって
自分から殴られにいってたらしいな」
入院中、私はお兄ちゃんにそんなことを聞かれた。
「えーっと‥‥‥。うん。
蛍さんを守ったら、お兄ちゃんが褒めてくれるんじゃないかと思って」
少し悩んでから、私はそう答えた。
嘘偽りのない言葉だけど、
改めて口にすると子供みたいな理由に思えて何だか少し恥ずかしくなった。
「なんで俺が褒めると思ったんだ?」
とお兄ちゃんは続けて聞いてきた。
「お兄ちゃんは蛍さんのことが好きなんじゃないかと思ってたから」
と私は答えた。
今じゃもう、お兄ちゃんの気持ちがよくわからなくなっちゃったけど、
少なくとも、つい最近まで私はそう思っていたのだ。
お兄ちゃんは静かに「そっか」と呟いた。
それから、何か考えをまとめるように虚空を見つめてから、
「もう、そんなことはするなよ」
と言った。
「俺は、多分まだ花火のことが嫌いだよ。
今こうやって一緒にいるだけでもすごく疲れるし、
イライラするし、そのくせお前にひどいこと言っちゃうと
ものすごい罪悪感感じちゃうし、
お前と一緒にいると本当に俺、すごく辛いんだ」
お兄ちゃんは両手で自分の顔を覆った。
「‥‥‥でも、やっぱり俺にはお前しかいないんだって思う。
お前がいなくなったら俺、どうやって生きていけばいいかわかんないよ。
だからもう、自分を犠牲にしたりしないでくれ。
誰かを犠牲にしてでも、お前は生きててくれ。お願いだから」
そこまで言い切るとお兄ちゃんは体を震わせながら泣いた。
「‥‥‥うん。わかった」
と私は言った。
私の返事を聞くとお兄ちゃんはごしごしと自分の目をこすった。
「それと、今日学校で蛍に告白された」
「うん‥‥‥。え!?」
急にすごい話を放りこまれて、私は声を上げてしまう。
「え、えーっと。それで、お兄ちゃんはなんて答えたの?」
私はあたふたしながら聞いた。
「断った」
とお兄ちゃんは言った。
「確かに蛍と付き合っていた頃は気楽でよかったけど、
でもそれは多分、お前から逃げていただけなんだ。
今回の件でようやくそれがわかったよ。
‥‥‥なあ、花火。俺断ったから」
断ったからな。と念を押すようにお兄ちゃんは言った。
自分の服の裾で目をごしごしこすって、
それでもお兄ちゃんは涙が止まらず、
しばらく泣き続けていた。
私の勘違いかもしれないけれど、
その泣き声の中で、お兄ちゃんは小さく
「だから、お前も‥‥‥」
と言っているのが聞こえたような気がした。
入院は1週間続いて、それから私はいつもどおりの生活に戻った。
5
「おーい。花火。そろそろ家出るぞー」
と玄関からお兄ちゃんの声がする。
「はーい」
制服に着替えた私は急いで階段を降りていった。
ローファーを履くと、
「よし、じゃあ行くか」
と言ってお兄ちゃんが扉を開けた。
あの事件以降、私とお兄ちゃんのいる時間は格段に増えた。
というか、お兄ちゃんが私の登下校や昼休みなどにも
一緒にいようとするようになったのだ。
お兄ちゃん曰く、外には危険な人や物でいっぱいで、
またいつ花火に危害が加わるかわからないから、
なるべく一緒にいたいのだそうだ。
大好きなお兄ちゃんにこんなに過保護に扱ってもらうのはすごく嬉しいのだけど、
その反面、少しだけ複雑な気持でもあった。
だって、これじゃまるで親と子どもみたいだから。
彼氏彼女の関係は解消してしまったわけだし、しょうがないことではあるんだけど、
それでも、こんなに大切にされちゃうと、
私の心はもっとわがままになってしまって、
また彼氏彼女の関係に戻りたいという欲が生まれてきてしまっていた。
たくさんお兄ちゃんを傷つけた私に
そんなことを求める権利はないと分かっていても、
やっぱり私はお兄ちゃんが好きだから、
その気持ちを抑えるのがとても難しかった。
「ん?どうした花火」
登校中、私の様子が少し不自然なことに気づいたようで、
お兄ちゃんが聞いてきた。
「べ、別になんでもないよ」
と私は言った。
「そ、そういえばあれから蛍さんや、あの偽彼氏はどうなったの?」
気持ちをこれ以上悟られないように私は、慌てて話題を提供した。
「ああ。大和は転校するらしい。
まあ、あんだけ騒ぎを起こしたら学校にいづらいよな。
一応蛍とは仲直りできたらしいけど」
「へえー。そうなんだ。よく仲直りできたね」
と私は言った。
「蛍の方が、大和に謝りにいったんだってさ。
それで、大和も蛍に謝ったんだとか」
「‥‥‥お兄ちゃんは大丈夫?
あの人、お兄ちゃんのことも結構恨んでるみたいだったけど」
「多分大丈夫だ。一応俺にも謝罪はあったから。
許さなかったけど」
「え?初耳なんだけど」
「‥‥‥ごめん。どうしてもお前には会わせたくなくて言ってなかった」
お兄ちゃんが眉を下げて私のほうを見た。
「私は別にいいよ。お兄ちゃんにまた何か危害が加わるんじゃないかって
心配になっただけだから。もう襲ってこなさそうならなんでもいい」
「‥‥‥うん」
と言ってお兄ちゃんは私の手をぎゅっと握った。
「俺、格闘技習おうかな」
「どうして?」
「花火のことちゃんと守れるようになりたいし」
と言ってお兄ちゃんはにこっと笑った。
ふと、
『どんなことがあっても花火のことを守ってあげる。
だから安心していいよ』
とお兄ちゃんが昔言っていたのを思い出す。
お兄ちゃんは今も同じことを思ってくれているんだと思い、
私はきゅんとなった。
6
学校に着いた。
最近いつものことなのだが、
学校に着いてもお兄ちゃんはすぐに別れたりせず、
私を教室まで見送ってくれる。
今日も例外なくお兄ちゃんは私の教室の前まで来ていた。
「それじゃ、昼休みにまた来るから」
と言ってお兄ちゃんが悲しそうな顔をする。
私もお兄ちゃんと離れ離れになると思うと寂しくなった。
不意にお兄ちゃんを抱きしめたい衝動に駆られたけれど、
みんな見てるし、そもそも私とお兄ちゃんはただの兄妹で、
付き合っているわけではないので、我慢した。
「うん。それじゃ」
と言って私はお兄ちゃんに手を振る。
そのまま教室に入ろうとしたその時だった。
「あ、花火じゃん。おはよー」
と言って教室の中から優太が現れた。
多分、図書委員の業務の会話をしに来ただけだと思うのだけど、
優太はお兄ちゃんの存在に気づいた瞬間、
あ、まずいと顔をひきつらせた。
「あ、え、えと、お疲れ様です」
と言って兵隊のように直立する。
嫌な予感がして、私はお兄ちゃんを見た。
お兄ちゃんは顔を険しくさせていた。
私は寒気がした。
きっとお兄ちゃんは今、あのデートの日のことを思い出して、
ものすごくもやもやしているはずだ。
これでまたお兄ちゃんが冷たくなったらどうしようと私は不安になった。
「お、お兄ちゃん。多分図書委員の業務連絡で話しかけてきただけだから!
私、普段優太と全然話してないから!!」
私はお兄ちゃんに見捨てられたくなくて、必死で弁明した。
けれど、あまりに必死すぎたため、
これはこれでなんかやましいことがあるみたいになってないだろうか?
と私は更に不安になった。
徐々に心臓の鼓動が速くなってくる。
嫌だ嫌だ嫌だ。またお兄ちゃんに嫌われたら私はもう本当に耐えられない。
それに、お兄ちゃんがこれ以上私のことで傷ついてるところも見たくない。
お願い!私の気持ち伝わって!!
私が癇癪を起しそうな勢いでそう祈っていると、
お兄ちゃんはぐいっと無理やり私の体を抱き寄せた。
そして、優太をぎろっと睨みながら
「俺の彼女に何か用か?」
と言った。
その一言で私の苦しかった心はぱっと一気に解放された。
それどころか彼女という言葉に、頭がいっぱいになって
本当にどうしようもなく、たまらない気持ちになった。
そこにいる優太や周りにいる生徒たちのことが、
何も見えなくなる。
気づいたら私はすべてを無視して、
衝動のままにお兄ちゃんにキスをしていた。
キスをされたお兄ちゃんが、驚いた顔でこちらを見る。
その顔が徐々に赤くなっていくのを、
私はただじっと見つめていた。




