第13話
1
翌朝、私が起きるとお兄ちゃんが洗濯機から洗濯物を取り込んでいた。
全部カゴに入れ終えたところで、こちらに気付いて
「おはよう。花火」
と挨拶してくる。
私の事を見ても、今日のお兄ちゃんは顔が赤くなかった。
「‥‥‥おはよう。お兄ちゃん。体の調子はどう?良くなった?」
聞いた後で、やってしまった、と思った。
こうやって心配されるのが、お兄ちゃんは鬱陶しいんだっけ。
「ああ。風邪はもう完全に治ったよ。心配させちゃってごめんな」
とお兄ちゃんが笑顔で言う。
「‥‥‥そっか」
ほっとしたような、むなしいような、不思議な感覚に陥りながら
私は言った。
ぼーっとしていると、お兄ちゃんがすすすっと寄ってくる。
そして、不自然なくらい優しい顔をして、
「花火。今日は夕ご飯何が食べたい?今日は花火の好きなもの何でも作るよ」
と言った。
「え?どうして?今までずっと献立はお兄ちゃん1人で考えてたじゃん」
と私が聞くと、お兄ちゃんが申し訳なさそうな顔で頭を掻いた。
「‥‥‥昨日、ちょっと言いすぎちゃった気がして。
それでその、お詫びがしたいなって」
私は目を丸くした。
まさかお兄ちゃんの方でそんな風に思ってくれてるなんて思わなかったのだ。
やっぱり昨日のは何かの間違いだったんだろうか。
私がしつこく干渉したことは確かに嫌だっただろうけど、
別に私の事を嫌っているわけではないのかもしれない。
昨日、触るのを避けられたことを思い出しながら、私はお兄ちゃんを見た。
今触ろうとしたら、お兄ちゃんは受け入れてくれるだろうか。
「お兄ちゃん‥‥‥」
と言って、私はまたお兄ちゃんに手を伸ばす。
するとお兄ちゃんはびくっと体を震わせた。
そしてまた、怯えた顔をして私の手をよけようとする。
けれど、昨日とは違い、今日はすんでのところでよけるのをやめて、
頑張って笑顔を作っていた。
‥‥‥我慢しているのが、見え見えだった。
やっぱりお兄ちゃんは、私に触れられるのが嫌なようだ。
よけないのは私を傷つけないための配慮のつもりなんだろう。
けれど、その優しさが今の私には辛かった。
心が、どんどん腐っていくのを感じる。
だんだんいろんなことがどうでも良くなってきて、
何の気力も湧かなくなってきた。
最近私は、お兄ちゃんのことで自信を無くしたり傷ついたりすることが多すぎた。
少しの間でいいから、
自分のこととか、お兄ちゃんのこととか、考えるのをやめたい。
私は伸ばしていた手をゆっくり戻した。
「いいよ。お詫びなんてしなくて。
‥‥‥というか、これからは夕ご飯、私の分は作らなくていいから。
自分の分は自分で作るよ。
そっちの方がお兄ちゃんの労力減るだろうし」
と言って私は自分の部屋に戻ろうとした。
「‥‥‥え?ちょ、ちょっと待って」
お兄ちゃんの声が聞こえたけれど、
私はそれを無視して階段を上った。
2
夕食は自分で作ると勢いで言ってしまった私だが、
本当にこれからずっと
お兄ちゃんとは別に夕ご飯を作ろうと考えていたわけではなかった。
私はただ、少しの間だけお兄ちゃんから距離を置きたかっただけなのだ。
それなのにお兄ちゃんは、その後も私に話しかけてきて1人にはしてくれなかった。
「花火。今日花火の好きなジブリ映画を借りてきたから一緒に見ないか?」
とか、
「お、花火。宿題やってるのか?わからないところない?
困ってたら何でも教えるぞ」
とか。
「ほら、花火。甘いお菓子いっぱい買ってきたから一緒に食べよう」
とか。
ことあるごとに話しかけてきて、私の機嫌を取ろうとしてくるのだ。
私はそれに対して、毎回素っ気なく返事するだけにとどめた。
お兄ちゃんに優しくしてもらえるのは嬉しかったけれど、
その優しさを素直に受けいれてしまったら、
また裏切られる気がして怖かったのだ。
3
「花火、今日も夕ご飯は自分で作ったのか?」
数日後、私が夕ご飯を食べているとお兄ちゃんが聞いてきた。
「うん、そうだよ」
と私は答えた。
そっか、とだけ言って、お兄ちゃんは下を向く。
何か言いたげな様子だけど、私はそれに気づかないふりをして、
ネットに載っているレシピを参考にして作った麻婆豆腐を食べた。
「あ、そうだ。今日さ、新作のゲーム買ったから、
夕ご飯食べ終わったら一緒にやらないか?
花火が大好きそうなやつ買ってきたんだ」
とお兄ちゃんが笑顔で言ってくる。
またか、と私は思った。
ここ最近、お兄ちゃんは私のご機嫌取りのために何か買ってくることがあるのだ。
ゲームソフトは、ここ最近買ってきた中で一番高い買い物だった。
私が何を受け取っても素っ気ない返事しかしないから、
もっと高いものをあげないとだめだと思ったのかもしれない。
色々買ってくれるのは嬉しいけれど、
物を買うのは気持がなくてもできちゃうことだから、
そんなことをされても、警戒を解くことはできなかった。
「うーん。私今日宿題やらなきゃだから、やめておこうかな」
私は夕飯の最後の一口をぱくっと食べる。
そして皿を洗うために立ち上がった。
「そ、そっか。まあ、多分1人でやっても楽しいと思うから、
気が向いた時とかいくらでもやっていいからな」
「うん。わかった。ありがとう」
歩きながらできるだけ素っ気なく言った。
キッチンで皿を洗い始めると、
お兄ちゃんがモジモジし始めた。
「あ、あのさ。花火」
と声をかけられる。
「もうそろそろ、夕ご飯は同じものを食べないか?
同じ家にいるのに、違うもの食べてるのはどう考えても不自然だろ?」
今まで遠回しに機嫌を取っていたお兄ちゃんが、急に本題に入ってきた。
「俺としてはさ、夕ご飯は花火のために作ってるから頑張ろうって思えてるわけで、
自分の分だけなら別にコンビニ弁当でもいいんだよ。
‥‥‥もとはと言えば、俺がひどいこと言っちゃったのがいけないんだよな。
それはわかってるつもりなんだ。
そのことについてはいくらでも謝るからさ、
だからもう一度花火の夕ご飯作らせてくれないかな」
お兄ちゃんは切実な顔で言った。
単純な私はその言葉にまた感激して、心が傾きかけた。
けれど、すぐに思い直す。
お兄ちゃんは優しいから、こういうことが簡単に言えてしまうのだ。
ここで、やっぱり嫌われてはいないのかもと期待して、
私は何回も裏切られてきたじゃないか。
これがお兄ちゃんの本心だなんて思ったら、また同じように傷つくだけだ。
私はもう、あんな思いはしたくない。
「‥‥‥嫌だ」
と私は言った。
「え?」
とお兄ちゃんが聞き返してくる。
「だから、嫌だって言ったの。
‥‥‥お兄ちゃん、私に触られるの嫌がってたじゃん。
本当は私のこと、そんなに好きじゃないんでしょ?
だったら無理して仲良くしようとすることないんじゃないの?
これ、何の意味があるの?
私、もうお兄ちゃんが何を考えてるのかよくわかんないよ」
私はちょうど皿を洗い終えたので、そこまで言ってまたリビングを去ろうとした。
するとお兄ちゃんは慌てて私の手首を掴んだ。
「お、俺は、花火のこと好きだよ。
だからこうやって仲直りしようとしてるんだろ?
お願いだから機嫌直してくれよ」
お兄ちゃんが手首を触ってくれたことに
私は一瞬喜びかけた。
けれど、無意識のうちに手首を掴んでいたらしいお兄ちゃんは、
今さらになってはっと表情をこわばらせて、勢いよく私の手首を離した。
まるで汚いものに触れていたかのようなその反応に私はまた傷ついた。
本当に、お兄ちゃんは何回私を傷つければ気が済むんだろう。
「いいよ。別に無理して好きとか言わなくて。
嫌なら嫌って言えばいいじゃん」
と私は言った。
「別に無理なんてしてないよ」
「またそうやって嘘つくんだ。それで私がどんな気持ちになるか想像できないの?」
「だから嘘じゃないって」
「じゃあ、なんで私のこと触れないの?」
「‥‥‥わかんないよ」
「じゃあ、教えてあげる。お兄ちゃんは私の事嫌いだから触れないんだよ!
‥‥‥もういい。お兄ちゃんの話は聞きたくない」
私はお兄ちゃんに背を向けて、すたすたと歩いていく。
「ま、待ってよ花火。お願いだから行かないで」
とお兄ちゃんの苦しそうな声が聞こえてきた。
私は一瞬立ち止まりそうになったけれど、
すぐに迷いを断ち切って、リビングを出ていった。
4
リビングの扉を閉めてから、私はため息を吐いた。
得体のしれない罪悪感に苛まれていると、
ふいに、ドンッ!と何かを叩く音が聞こえてきた。
少し時間が経ってから、
お兄ちゃんがリビングの壁を殴ったのだと気づいた。
あのお兄ちゃんが、そんなことするのかとびっくりしたけれど、
すぐに納得した。
お兄ちゃんだって人間なんだから、暴力を振りたくなる時くらいあるだろう。
逆にそれが今だったことに私は少し意外な気持ちになった。
さっきのやり取りも、お兄ちゃんは本心で私と向き合っていないと
思っていたのだ。
ここで我慢できずにものにあたってしまったということは、
お兄ちゃんはちゃんと私と向き合ってくれていたということではないだろうか。
どうせなら、私の目の前でそれぐらい取り乱してくれたら良かったのに、
と思った。
その時に出てきた言葉なら、きっとお兄ちゃんの本心なんだって
信じることができただろうから。
もしかしたら、明日会った時には
お兄ちゃんも不機嫌な態度を見せてくるかもしれない。
けれど、それは悪いことではないような気がした。
そこでケンカに発展したとしてもいいから、
私はお兄ちゃんの本当の気持ちが知りたかった。
5
翌朝、目が覚めてリビングに行くと、朝ご飯を作っているお兄ちゃんがいた。
お兄ちゃんは私に気付くと、いつもと変わらない笑顔を浮かべて
「おはよう」
と言った。
昨日、リビングの壁を殴っていたとは思えないほど穏やかで
私は拍子抜けしてしまった。
「おはよう」
と言って私はリビングのテーブルに座った。
しばらくテレビをつけて朝のニュースを見ながら、
お兄ちゃんが何か言ってくるのを待っていたが、
お兄ちゃんは何も言ってこなかった。
結局、私が我慢しきれなくなって口を開いた。
「お兄ちゃん。私に何か言いたいこととかないの?
昨日のことで、本当はまだ怒ってたりするんじゃないの?」
と聞くと、お兄ちゃんはびくっと体を震わせた。
「お、怒ってないよ。昨日は花火の気持ちを想像できてなくてごめんな。
お兄ちゃん、もっと頑張って花火のこと理解できるように頑張るからな」
と言いながら、私の顔色を怯えるように伺っている。
ああ。また嘘をついている、と私は思った。
お兄ちゃん、絶対に不満に思ってることあるはずなのに。
それは、私に言ってくれないんだ。
今日こそ、お兄ちゃんとちゃんと向き合えると思っていたのに。
「‥‥‥お兄ちゃんってさ。雑魚だよね」
ガッカリした私はつい、そんなことを呟いていた。
「‥‥‥は?雑魚?」
いきなり言われたお兄ちゃんは眉をひそめた。
「うん。雑魚。だって、私に全然本当のこと言わないじゃん。
私の事怖いの?
年下の私の事が怖いとか、
臆病者の雑魚じゃん」
私はお兄ちゃんを怒らせたくて、わざと小馬鹿にしたような発言をした。
お兄ちゃんは一瞬顔を歪めたけれど、すぐに優しい顔に戻った。
「どうしたの?花火。もしかして、俺また花火を傷つけるようなことしちゃった?」
怒られることを覚悟していた私はびっくりした。
お兄ちゃん、これでも怒らないんだ。
「私、今結構ひどいこと言ったと思うんだけど」
と言うと、
お兄ちゃんは首を振った。
「ううん。きっと俺が何かいけなかったんだろ?
こんなことで怒らないよ」
ニコニコとした顔で私を見てくる。
「‥‥‥」
何でそんな我慢するんだろう。と私は思った。
私って本当は、全然お兄ちゃんに信頼されてないんじゃないだろうか。
私とお兄ちゃんって喧嘩できる関係性ですらなかったんだ。と思うと、
何だかすごく悲しくなってきた。
でも考えてみたらそうだ。
私も今まで、ずっとお兄ちゃんに気を遣っていたし、
だからお兄ちゃんもずっと私に気を遣うしかなかったのかもしれない。
もし、これからもずっとこの関係が続くなら、
私は一生お兄ちゃんのことがわからないままだ。
そんなの、絶対に嫌だ。
「‥‥‥きもちわる」
と私は言った。
「そ、そう?俺、気持ち悪かった?ごめんな」
お兄ちゃんは苦笑するだけで、やっぱり怒らない。
だから私は、もっと言ってやろうと思った。
「うん。お兄ちゃん気持ち悪い。
こんなに言われてるのに何も言い返してこないんだもん。
私に媚び売ってるのバレバレだよ。
そのニコニコした顔も気味悪い。
ちょっぴりくらい言い返してみたら?」
「……言い返せないよ。俺は花火のこと大好きだし」
「へぇー。それじゃ、一生そうやって我慢してれば!
お兄ちゃんのざこ!ざーこ!!」
6
それから私は、お兄ちゃんに会うたびに
お兄ちゃんが嫌がりそうなことを必死に考えて言った。
たくさん罵ったつもりだけど、
1週間経っても、2週間経っても、3週間経っても、
結局お兄ちゃんは怒ったりしなかった。
逆に私は、そうやって時間が経てば経つほど
引くに引けなくなって、お兄ちゃんを罵るのをやめられなくなった。
私がお兄ちゃんを馬鹿にして
お兄ちゃんがそれを優しく受け流す、というやり取りは、
いつからか普通のこととして日常に溶け込んでいった。
お兄ちゃんは全然私の事を真剣に取り合わなくなったし、
どんどん私の扱いは雑になっていった。
私はそれがとても悲しかったけれど、
それでもお兄ちゃんがいつか恥も体裁も捨てて
私を叱ってくれる日が来ることを期待して罵り続けたのだった。
7
私のやり方が間違っていたことに気がついたのは
その後3年経ってからのことである。
高校2年生になったお兄ちゃんはある日
世界一幸せそうな顔で言ったのだ。
「俺、彼女出来たから」
と。




