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十九歳に戻った令嬢は、極道の男と共に愛と復讐の道を歩む  作者: 朧月 華


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第9話 老獪の狐狸

### 第一幕 影山晴樹への圧力(晴樹視点)


 朝露に濡れた庭の苔が、淡い光を帯びていた。その光は、まるで遠い過去の記憶を呼び覚ますかのように、彼の心を照らす。

 影山晴樹は、離れの茶室に一人、恭しく腰を下ろし、湯の沸く、静かな音に耳を澄ませていた。

 八十を超えた老いた身には、湯気の立つ微かな音と、炭火の幽かな匂いだけが、まだ自分が確かにこの世に存在している証のように思えた。

 かつて財界で「狸」と呼ばれ、欲望と権謀の渦中で生きてきた時代の喧騒とざわめきは、もう遥か遠く、今はただ、耳を聾するほどの静けさだけが、彼の傍らに、重く、そして孤独に横たわっていた。


 茶碗に湯を注ぎ、その熱が指先にじんわりと染みる。渋みの効いた煎茶をゆっくりと口に含むと、舌に広がる苦味とともに、胸の奥にぽっかりとした、しかし底知れぬ空白が広がった。

 引退後、唯一の長男を、不慮の事故で突然失った。そして、妻もまた、彼の前から先立った。

 残された家族は、孫娘の菖蒲、たったひとり。

 だが、その孫でさえ、彼に心からの、素直な眼差しを向けることは、もう久しく稀であった。


 その時だった。

 庭を掃く老使用人が、白い、封のされた小包を、恭しく手に持って茶室へ現れた。

 「旦那様、差出人不明のものが、裏門から直接……」


 晴樹は眉をひそめる。

 「ここへ直接届けるとは、無作法な。どこの馬鹿者が……」

 だが、その言葉とは裏腹に、包みを受け取ろうとした彼の老いた手が、なぜか、微かに震えていた。


 封を解くと、中には、折り畳まれた古びた便箋の写しが一枚。

 その紙面には、震えるような筆跡で、「どうか、娘を助けてください」と、切なる願いが綴られていた。

 ——黒田明里。

 二十数年という、凍てついた時の彼方から、遠い記憶が、胸の奥底から冷たい刃のように、彼の心を抉りながら鮮烈に蘇る。


 二十数年前、あの女が、憔悴しきった顔で、彼の前で土下座をして、救いを求めてきた、あの雨の夜。

 だが晴樹は、その、差し伸べられた細い手を取らなかった。

 「影山の名を汚すことは許されぬ」と、冷酷に言い放ち、彼女の願いを退けた。

 その、たった一つの決断が、明里を絶望の淵へと突き落とし、そして、彼女の命を奪ったのだと、晴樹は、ずっと、心の底の底で、重く、深く知っていた。


 便箋の横には、一枚の鮮明な写真が、まるで真実を突きつけるかのように添えられていた。

 そこには、彼の孫娘である菖蒲と、漆黒のスーツを纏った男が、まるで寄り添うかのように、並んで立っている。

 男は冷ややかな、しかし強い意志を宿した瞳を持ち、その腕は、確かに菖蒲の肩を、護るように支えていた。

 影山晴樹は、その男の顔を、すぐに思い当てた。竜崎健。

 裏社会の頂点に立つ極道の頭目にして、彼ら財界の人間が、最も忌み嫌い、決して交わるべきではないと考える、闇の象徴。


 さらに短い、しかし明確な文が同封されていた。

 「祖父として、娘の道を、今こそ正すべき時ではありませんか。」


 その、たった一文が、晴樹の心を、鋭い刃で幾度も抉った。

 孫娘が、よりにもよって、あの「極道」と交わり、影山家の名を、自らの手で危うくしている——。

 財界という荒波を、汚い手も使いながら泳ぎ切ってきた、老練な、しかしもはや権力から遠ざかった老人の心に、長年、何重にも押し殺してきた、深い恐怖と、そして焦りが、一気に堰を切ったかのように噴き出す。


 「……あの子が、まさか、影山を……」

 彼が握った拳が、小刻みに震える。

 あの時の後悔と、今の苛立ち、そして、影山家の名を守ろうとする、老いた執念が、彼の心の中で複雑に入り混じる。

 名門の名を護るために、自らの誇りさえも犠牲にして戦い続けてきた自分が、最後に、この孫娘によって、影山家という盤石の土台を崩されるなど、あってはならぬ、絶対に、あってはならぬことだった。


 晴樹は茶碗を卓に置き、ゆっくりと、まるで自分の決意を固めるかのように、重々しく立ち上がった。

 背は大きく曲がり、足取りも重い。

 だが、その眼光は、未だ衰えてはいない。むしろ、再び獲物を狙う、老いた獣のそれのように、鋭く光っていた。


 「呼べ……菖蒲を。今すぐに、ここへ」


 静かな声だったが、そこには、一切の反論を許さぬ、確固たる決意が帯びていた。

 老いた狐狸が、再び、その隠された牙を剥く時が来たのだ。


### 第二幕 祖孫の激突(菖蒲・晴樹視点)


影山家の離れ。

磨き上げられた廊下を歩くたびに、古びた柱がわずかに軋む。その音は、まるで私自身の心臓の音のように、菖蒲の耳に響いた。

彼女は、祖父からの呼び出しを受けてから、胸の奥で不穏なざわめきを、もはや抑えきれなかった。

祖父は、滅多に自分を直接呼ぶことはない。そして、彼に呼ばれるときは、必ず「裁き」を下される、運命の時だったからだ。


襖を静かに開けると、茶室に座す晴樹の姿があった。

背筋こそ老いて曲がっているが、その眼光はなお鋭く、かつて財界を牛耳り、すべてを支配した「老狸」の、冷酷な面影を宿していた。


「来たか、菖蒲」

その声は低く、硬質で、一切の情を含んでいなかった。


「……お祖父様」

菖蒲は畳の上に正座し、静かに、しかし毅然と頭を下げた。

だが、次に卓の上に差し出されたものを目にした瞬間、彼女の息は、完全に止まった。


卓の上に置かれていたのは、一枚の写真。

そこに映るのは、あの夜の私と、竜崎健。

祖父に、あの男の存在を知られたことに、菖蒲の体から、まるで血の気が一瞬にして引いていくような感覚に襲われた。


「説明せよ」

晴樹は短く、まるで罪人を断罪するかのように言い放つ。その声音には、情など微塵もなく、ただ影山家の当主としての、凍てつくような冷酷な響きが満ちていた。


「これは……」

菖蒲は口を開きかけたが、喉が締め付けられるように言葉が続かなかった。

その一瞬の、焦りを含んだ沈黙を、晴樹は、決して見逃さない。


「極道と並び立つなど、影山の名を汚す行為に他ならぬ! この家名を、自らの手で泥に塗るつもりか!」

ドゴンッ、と畳を叩くような強い声音が響く。

老人の体から放たれる、かつての覇者の如き威圧は、未だ、微塵も衰えていなかった。


菖蒲は、必死に、荒い呼吸を整えながら反論する。

「違います、お祖父様! 竜崎健は……ただの裏社会の男ではありません。

彼は、水島や黒田の、影山家を蝕む不正を暴き、この家と会社を、そして母が命を懸けて守ろうとした全てを、護るために、どうしても必要な存在なのです!」


「必要だと?」

晴樹の眼が、憎悪を帯びたように鋭く光る。

「極道の力を借りてまで守らねばならぬものに、一体何の価値があるというのだ! それは、既に“影山”ではない!」


その言葉は、菖蒲の胸を、鋭い刃で何度も何度も抉った。

自分がどれほどの覚悟で、屈辱を乗り越え、健と手を組んだか。祖父は、その一切を知ろうともしない。

家を守るために、己の命を削るような、血を吐くような決断を重ねてきたのに、ただ「汚れ」と、一方的に切り捨てる。


「……お祖父様は、いつまで、形ばかりの、虚しい家名ばかりをご覧になっているのですか……!」

菖蒲の声は、怒りと、そして悲しみで震えていたが、その瞳には、一切怯むことのない、強い意志の光が宿っていた。

「私は、人、を護りたいのです。母を、社員を、そして——この影山という、血の通った、生きている場所そのものを。

それに必要なものならば、どんな手でも取ります。たとえそれが、泥に塗れる道であろうとも!」


「愚か者め!」

晴樹は声を荒げ、その老いた顔を怒りで歪ませた。

「家名こそがすべてだ! 名を守るために、自らの手さえ汚し、命を賭してきたわしに、それを否定するか! お前は、この影山を、滅ぼす気か!」


二人の視線が、まるで業火を宿したかのように激しくぶつかり合う。

老いと若さ。過去の因習と未来への変革。守るものの価値をめぐる、血を分けた者同士の、決定的な激突。


沈黙の後、晴樹の口から、重く、そして氷のように冷たい言葉が、まるで死の宣告のように落ちた。

「……お前はもう、わしの、影山晴樹の孫ではない。」


その、たった一言で、菖蒲の心臓が、深く、深く抉られる。

目の前が、にわかに霞み、呼吸が、完全に詰まった。まるで、世界から色を失ったかのように。

だが、彼女は、決して、涙をこぼさなかった。


「……わかりました。ですが——私は、私自身の道を行きます。誰が何と言おうと。」

立ち上がると、畳の上で衣擦れの音が、静かに、しかし確固たる意志を秘めて響いた。


晴樹は、背を向けたまま、何も言わなかった。

その重い、そして冷酷な沈黙が、かえって菖蒲の孤独と、そしてこれから背負うであろう「業」の深さを、深く深く刻み込んでいった。


離れを出ると、庭の空気は、まるで彼女の心のように冷たかった。

秋の風が頬を刺し、その冷たさが、心の痛みと混じり合う。

だが菖蒲の胸には、ひとつの確信が、灼熱の炎のように、確かに芽生えていた。


——私は、もう、あの頃の私には戻れない。

それでも進む。誰の助けを借りずとも、この、私自身の足で、運命を切り拓く。


### 第三幕 竜崎健の決断と“越境”(健視点)


竜崎グループ本社、最上階の執務室。

夜の帳が降り、硝子越しに見える街の灯りが、無数の星のように、冷たく、しかし傲慢に瞬いていた。

竜崎健はデスクに肘を置き、報告を終えた榊原涼子を、その深い闇を湛えた瞳で静かに見つめていた。


「……影山晴樹と、決定的な決裂、ですか」

涼子は淡々と、しかしその声には微かな緊張が滲んでいた。

「黒田が仕掛けた“贈り物”が効いたのでしょう。影山老人は激昂し、菖蒲嬢を、影山家の血縁から、完全に切り捨てたそうです」


健の指先が、机の端を小さく、しかし苛立ちを込めて叩いた。

その動きは規則的で、しかしそのリズムは、彼の内なる怒りを刻んでいるかのようだった。


「黒田の狙いは……最も深い絆を断ち切り、影山菖蒲を、孤独な獲物に変えること、か。」

低く呟いた声には、怒りを押し殺した、まるで溶岩のような熱がこもっていた。


菖蒲が祖父に拒絶され、誰にも守られぬ孤独の中に立たされている光景が、まるで鮮明な映像のように、健の脳裏に浮かぶ。

冷徹であるはずの彼の思考が、その瞬間に、ひどく乱れた。

本来ならば——彼女を「利用できる駒」として、必要とあらば“捨て駒”と割り切るのが、この竜崎健の流儀。

だが、もう、そうはできなかった。あの娘を、捨て駒として見ることが、もはや不可能だった。


「俺が甘かった」

健は深く、まるで心の奥底から絞り出すかのような吐息を吐き、そして拳で机を強く叩きつけた。

ドゴンッ、と、乾いた、しかし重い音が執務室に響き渡り、涼子の眉が、一瞬だけ、だが明確に動いた。


「見守るだけで済むと思った。だが黒田は、影山家という、あの盤石な土台そのものを崩しにかかった。

……もはや、俺が影に徹している場合ではない。この竜崎健が、表に出る時だ。」


涼子が、ハッと、息を呑んだ。

「ですが、直に動けば、“竜崎健が表に出た”と世間に知られます。それは、裏社会の頭として、最も避けるべき事態なのでは……?」


「承知の上だ」

健の声は鋭く、一切の迷いがなかった。その瞳には、すでに覚悟の色が深く宿っている。

「俺が動くことでリスクは増す。だが、それ以上に黒田に主導権を握らせ、影山菖蒲を、孤独な絶望に突き落とすわけにはいかん。

影山晴樹……あの老獪な狐狸と、直接、話をつける。」


涼子が、驚愕に目を見開く。

「組長、それは……! 極道の頭が、財界の象徴たる影山翁に、直に会うというのは、前代未聞の、“絶対的な越境行為”です!」


健はゆっくりと、まるで王者が玉座から立ち上がるかのように、静かに立ち上がった。

漆黒のスーツの背に、夜の闇を纏うような、揺るぎない、そして抗いがたい決意が、深く深く宿っている。


「それでも行く。

影山菖蒲を、これ以上、独りにはさせない。

黒田の思惑に、この俺が、そしてあの娘が、踊らされてたまるか。」


涼子は一瞬言葉を失い、やがて小さく息を吐いた。彼女の表情には、驚愕と、そして深い理解が入り混じっていた。

「……了解いたしました。全力で、護衛の準備を整えます。文字通り、命を賭して。」


健は頷き、窓の外の夜の街を見下ろした。

かつては盤石と思われた影山家が、今や音を立てて揺らいでいる。

その、巨大な、そして危険な渦中に、自分は、足を踏み入れるのだ。


「影山晴樹——覚悟して待っていろ。」

低く呟いた声は、冷徹さを超えた、燃えるような、静かなる激情を帯びていた。


### 第四幕 菖蒲への新たな援護(菖蒲視点)


影山家の離れを後にしたとき、菖蒲の胸は、まるで嵐が過ぎ去った後のように、空洞のようだった。

夜風は冷たく、庭の松がざわめく音が、まるで私の孤独を嘲笑うかのように、心に突き刺さる。

祖父の声が、耳から離れない。その冷酷な一言が、私の心の奥底に、深い傷跡を残していた。

——「お前はもう、わしの孫ではない」


その言葉は、血を分けた肉親からの、最も残酷な断絶。そして、この世界から、私の居場所を、完全に失わせる宣告だった。

どれほど努力しても、どれほど足掻いても、影山という家の名の下に生きてきた私が、突如として、何の関係もない、無縁の存在に突き放されたのだ。

屋敷の玄関をくぐり、自室に戻ると、足の力が、まるで糸が切れたかのように抜け落ちて、その場に、がくり、と座り込んだ。


震える指先で携帯を取り出す。その手が、まだ微かに震えている。

画面に、新着メッセージがひとつ、まるで闇夜の希望のように届いていた。

差出人は——竜崎健。


『一切合切、俺が引き受ける。お前は、お前の信じる道を進め。』


短い。だが、その言葉の重みは、計り知れなかった。私の心の全てを支えるかのように。

飾り気も慰めもない、直截で、荒々しいまでの文面。

しかしそこに込められた、揺るぎない意思の強さが、絶望で揺らぐ私の心を、静かに、そして力強く支えてくれる。

気づけば、菖蒲の頬を、熱いものが、はらはらと伝っていた。それは、恐怖の涙ではなく、安堵と、そして希望の雫だった。


「……本当に、不器用な、優しい人。」

かすかな笑みが、唇からこぼれる。その笑みには、涙が混じっていた。

これまでの竜崎健は、冷徹で、計算高い、裏社会の策士だった。

だが今、彼の言葉に宿っているのは、理屈や打算を遥かに超えた、人間としての、根源的な感情。

その、彼の中の確かな変化が、何よりも、冷え切った私の心を、温かく、そして深く満たした。


ノックの音に振り返ると、恭司が静かに、しかし決意に満ちた表情で部屋に入ってきた。

「お嬢様……ご無事で、何よりです」

彼の表情は硬く、しかしその瞳には、燃えるような強い忠誠と、そして心配が宿っていた。


「恭司……祖父に、切り捨てられました。」

声が震えたが、もう、涙は出なかった。私の心は、すでに決意で満たされている。


恭司は深く、そして力強く頭を下げる。

「わたくし、竹内恭司は、どのような時も、お嬢様の側におります。

家名がどうなろうと、影山の血筋がどうあれ……わたくしは、影山菖蒲お嬢様、その人、その魂にこそ、永遠の忠誠を誓っております。」


その真摯な、そして揺るぎない言葉が、私の胸の奥を、温かく、そして力強く満たす。

誰もいないと思った、孤独な闇の中で、確かに差し伸べられた、二つの光の手。

一つは、裏社会の頭である彼の、不器用ながらも絶対的な支え。

もう一つは、幼少から寄り添ってくれた、忠実すぎる従者の、魂を込めた誓い。


「……ありがとう、恭司」

菖蒲はゆっくりと、力強く立ち上がった。もう、あの頃の自分には戻れない。

祖父に認められる、従順な孫であることも、できない。

だが、だからこそ、進むしかない。この、私自身の、選んだ道を。


「もはや戻る場所はない。ならば、ただ、前へ。」

その小さな声は、夜の静寂に溶けた。

だが瞳には、もう迷いなど一切なく、燃え盛る、揺るぎない決意の炎が、確かに宿っていた。


### 第五幕 対峙の予感:竜崎健の訪れ(健・菖蒲視点)


夜更け。

影山邸の重く、歴史を感じさせる鉄門の前に、一台の黒塗りのセダンが、音もなく静かに止まった。

門衛たちは、一瞬、息を呑む。

闇に溶けるような車体から、漆黒のスーツに身を包んだ男が、まるで夜の闇そのものから現れたかのように降り立った。その男は、冷ややかな、しかし強い意志を宿した眼差しで、広大な屋敷を見上げていた。


竜崎健。


——極道の長が、この影山家の、聖域とも呼べる敷地に、直接足を踏み入れた。

それは、長らく続いた、財界と裏社会の「住み分け」という、不文律の線を、明確に、そして大胆に越える行為。

財界という「光」と、裏社会という「闇」の境界を、彼自身の手で、粉々に打ち砕く、前代未聞の訪問だった。


「通せ」

短い、しかし刃物のように鋭い一言で、圧倒的な威圧が走る。

門衛たちは、抗うことなど微塵もできず、ただ恐怖に支配されたかのように、無言で、重い門を、ギイィと音を立てて開けた。


健は、屋敷の回廊を、ゆっくりと、しかし確実に歩みながら、自らの鼓動が、わずかに、しかし熱を帯びて高鳴るのを感じていた。

常に冷徹であるはずの自分が、これほど感情に揺さぶられていること自体が、彼にとって異例中の異例だった。


——あの娘を、この絶望と孤独の中に、もう二度と、一人にはさせない。

その、深く、そして抗い難い思いだけが、今の彼を突き動かす、唯一の理由だった。


---


菖蒲は離れの窓辺に立ち、夜空に浮かぶ、冷たい月明かりを見上げていた。

祖父に切り捨てられた心の痛みは、まだ生々しく、胸の奥でズキン、ズキンと疼く。

だが同時に、竜崎からの短い、しかし力強いメッセージと、恭司の揺るぎない誓いが、私の胸の奥で、小さな、しかし消えることのない灯火となって、確かに燃えていた。


その時——。

庭の奥から、冷たい石畳を刻むような靴音が、静かに、しかし確実に響いた。

一定のリズムで、迷いなく、まるで運命の足音のように進む足取り。

その気配だけで、誰なのかを悟る。私の心臓は、警鐘のように激しく跳ねた。


「……竜崎さん」


振り返った瞬間、障子が、音もなく、まさに吸い込まれるように静かに開かれた。

月明かりに照らされて現れた男の姿は、いつもよりも重々しく、そして一切の迷いを排した、鋼のような決意に満ちていた。


「来たか……」

菖蒲の声は、わずかに震えた。だがそれは、恐怖の震えではない。高揚と、そして、抗いがたい運命の震え。

こんな時に、まさか彼が、この屋敷に、私のもとに現れるとは思わなかった。

だが、その眼差しに宿る真剣さが、私の心の奥底を、強く、強く打ち震わせる。


健は言葉少なに近づき、その深い瞳で菖蒲を見つめ、低く、そして明確に告げた。

「影山晴樹と、今から、直接会う。」


菖蒲は息を呑む。

それがどれほど危険で、どれほど前代未聞の“越境行為”か。そして、どれほど彼自身にリスクを負わせる行為か。誰よりも、私が理解している。

財界と極道、二つの巨大な権力の、直接の衝突は、この日本社会に、取り返しのつかない、壊滅的な事態を招きかねない。


「待ってください……! お祖父様は、あなたを——決して受け入れませんわ!」

「承知の上だ」

健は、菖蒲の言葉を遮るように、しかし一切の躊躇なく、断固として言い切った。

「だが、黒田にこれ以上、主導権を握らせるわけにはいかん。奴が、お前を、そして影山家を、喰い尽くす前に。

……俺は、影に徹するつもりだった。だが、それでは、お前を、この俺の誓いを、護れない。」


その言葉に、菖蒲の心が、大きく、深く震えた。

初めて、彼の口から、「守る」という、純粋で、そして根源的な意志が、これほどはっきりと、私のために、語られた。

冷徹な、この裏社会の王の、そのすべての決断が、自分のために為されたのだと、その瞬間、心の奥底で、何かが、音を立てて弾けた。それは、氷が溶けるような、温かい衝撃だった。


「……竜崎さん……」

呼ぶ声は、感情を押し殺しても、なお滲む熱と、深い感動を隠せなかった。


健は、その菖蒲の揺れる瞳を、一瞬、見つめ返した。そして、何も言わず、背を向け、廊下へと歩き出す。

その姿は、まるで影山家という、由緒正しき檻に、自らの意志で乗り込む、一頭の漆黒の黒豹のように、危険で、狂おしいほどに、美しかった。


——今宵、二つの異なる世界が、音を立てて、そして激しく交錯する。

財界の象徴たる「老獪な狐狸」と、裏社会の頂点に立つ「漆黒の黒豹」。

その、避けられぬ対峙の時が、刻一刻と、血の予感と共に、迫っていた。


### 第九章最終幕 影山晴樹との直接対峙(健・晴樹視点)


重厚な障子が、ギイィ、と音を立てて開かれると、畳の間に、張り詰めた、しかし深遠な静寂が広がった。

その中央に、影山晴樹は、微塵も揺るがぬ背筋を伸ばし、まるで古木のように、じっと正座していた。

八十を超える老体でありながら、その佇まいには、未だ、かつての財界の支配者の威厳が宿り、眼光は、鋭さを、一切失っていない。


「……竜崎健、か」

しわがれた、しかし冷酷な老人の声が響いた瞬間、空気が、刃物のように張り詰める。

財界の重鎮と、裏社会の首領。

本来、決して交わるはずのない、あまりにも異なる二つの世界が、今、この和やかな座敷で、互いの牙を隠しながら、真っ向から対峙している。


健は低い声で、一切臆することなく返した。

「初めてお目にかかる、影山翁。

俺が、この影山家に、自ら足を踏み入れた理由は、一つだ。——菖蒲嬢を、このまま、過去の因習に囚われたまま、切り捨てるつもりか、否か。」


そのあまりにも直截で、無礼とも取れる物言いに、居並ぶ家人たちが、ざわ、と、明確に動揺した。

だが晴樹は、微動だにせず、ただ冷笑を浮かべた。その笑みには、健への軽蔑と、老いによる疲弊が入り混じっていた。


「切り捨てたのではない。あれは、“影山の名を、自らの手で汚した”のだ。

我が家の血筋に不要な、毒となる枝葉は、早いうちに刈り取るまで。それが、影山を守る、当主の務めだ」


「枝葉、か」

健の目が、鋭く、そして挑戦的に光る。

「だがその枝葉を、自ら根ごと折ろうとしているのは、翁、あなたの方だ。

孫を切り捨てたその決断こそが、影山という、由緒正しき名そのものを、内部から腐らせる。」


晴樹の表情が、一瞬だけ、だが明確に険しくなる。その奥には、健の言葉が核心を突いたことへの、苛立ちと、そして焦りが滲んでいた。

「何を知る。お前のような、裏の汚泥に塗れた男が、影山の重みを語るか。」


健は、まるでその言葉を一笑に付すかのように、一歩、ゆっくりと進み、畳を、ギイィ、と不穏な音を立てて軋ませた。

「俺は裏に生きる人間だ。名も、血も、誰に誇れるものではない。

だがだからこそ知っている。人を捨てる組織は、やがて自らをも食い尽くし、内側から崩壊していく。

黒田が狙っているのは、まさにそこだ。翁の、その頑なさが、奴にとって、最も狙いやすい、そして致命的な弱点になる。」


老いた瞳が、鋭く、そして深い闇を宿すように細められる。健の言葉は、彼の心の奥底に、長く封印されてきた恐怖を揺り動かした。

「黒田……貴様も、あの男の影を、そこまで深く嗅ぎ取っているのか……。」


健は、静かに、しかし確固たる意志をもって頷く。そして、さらに低い声で、核心を告げた。

「黒田義信は、翁が信じてきた“影山”という家そのものを、根絶やしにしようと企んでいる。

俺はそれを止めるために、ここに来た。

だが——もし菖蒲嬢を、このまま切り捨て続けるなら、翁は、奴と同じ、奈落の穴に、影山家ごと堕ちる。」


その瞬間、座敷に、重苦しい、そして耐えがたい沈黙が、ズンと落ちた。

居並ぶ家人たちは、誰一人として声を出せない。その表情には、恐怖と、そして老人の決断への深い不安が滲んでいた。

影山晴樹は長い間、じっと、健の、その冷徹な、しかし真実を語る瞳を見据えていた。彼の内心で、嵐が巻き起こっているかのようだった。

やがて、しわだらけの、老いた手が膝の上で、微かに、しかし決意を秘めるかのように、小さく動いた。


「……竜崎健。貴様は、孫娘に、一体、何を見たというのだ。」


健は、一切の躊躇なく、即答した。

「己の弱さを偽らず、深手を抱えながらも、再び立ち上がろうとする、揺るぎない力だ。

——少なくとも、俺には、あの娘を、このまま見捨てておくことなど、できるはずもない。」


晴樹の喉が、わずかに、しかし明確に震えた。その瞳の奥には、長年押し殺してきた、ある種の感情が揺らめいているのが見て取れた。

だが口元は固く結ばれ、その老いたプライドと、深い感情を、必死に押し殺す。

その、言葉なき、重い沈黙が、返答のすべてだった。


健は、もはや用は済んだと言わんばかりに、背を向け、ゆっくりと障子へと歩き出す。

「いずれ翁は、選ばねばならん。孫を、過去の因習と共に切り捨てるか、それとも……共に立ち、影山の未来を護るか。」


障子が閉ざされた後も、晴樹は微動だにしない。その背中からは、深々と、しかし確実に、老いと、そして、彼自身の孤独な「業」の影が、滲み出していた。


---


廊下を進む健の心には、確かな熱が、燃え盛る篝火のように灯っていた。

影山晴樹はまだ頑なだ。

だが黒田の容赦ない攻勢が迫る中で、あの老人も、もはや逃れることのできない、避けられぬ「決断」を迫られる時が、必ず来る。


——そしてその時、自分は、必ず、影山菖蒲の、揺るぎない隣に立つ。


深く、そして熱い決意を胸に刻みながら、健は、静かに夜の屋敷を後にした。


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