第7話 最初の銃声
### 第一幕 菖蒲の決断と実行(影山グループ本社)
東京の中心、摩天楼の一角にそびえる影山グループ本社ビル――そのガラス張りの外壁は、昼下がりの陽光を鋭く反射し、まるで無数の冷たい目が、喧騒渦巻く街を見下ろしているかのようだった。
その最上階、重厚な扉の奥にある会長室は、分厚い絨毯が音を吸い込み、異様なまでの静けさに包まれていた。影山忠義は、分厚い書類をめくる手を止め、対面に座る娘、影山菖蒲を、まるで別世界から来た存在を見るかのように見つめていた。
「……今、何と、言った、菖蒲」
低く、地を這うような父の声が、室内の空気をぴんと張りつめさせる。その声には、困惑と、そして微かな動揺が滲んでいた。
応接ソファに、寸分の隙もなく端然と腰掛けた菖蒲は、ひと呼吸、深々と置いてから、まるで隠されていた魂の輝きを解き放つかのように、まっすぐに父を見返した。
「お父様。影山グループの子会社群、その中でも特に収益性の低い部門を、わたくしが、この手で整理し、そして根本から改革を進めたいと考えております」
淡々とした、しかし有無を言わせぬ強い口調。その瞳の奥には、迷いを完全に振り切った、鋼のような決意が宿っていた。
忠義は口元をきゅっと引き結び、娘の言葉を、信じられないものを見るかのように反芻する。
生まれてから今日まで、彼女は影山家の「飾り」として、経営の表舞台にほとんど顔を出したことがない。社交の場では淑やかに微笑み、常に一歩引いた位置で、まるで人形のように佇む。それが、彼が知り、信じてきた娘の姿だった。
だが今、目の前にいるのは、そんな従順で、儚げな娘では、もうなかった。彼女の背後には、見えない炎が燃え盛っているかのようだった。
「……なぜ急に、そんなことを、思い立ったのだ?」
問いかけは、叱責にも、あるいは深い心配にも聞こえた。
菖蒲はわずかに唇を引き結び、事前に用意してきた、薄い、しかし重みのあるファイルを、音もなく卓上に差し出した。
「理由は、ここにございます。――影山リアルエステート。この子会社は、数年来、赤字決算を繰り返し、グループの足を引っ張っております。にもかかわらず、その資金の流れには、到底看過できない、不可解な点が多すぎます。ここを見逃すことは、グループ全体にとって、いずれ致命傷となる、取り返しのつかない損失です」
ファイルの中には、恭司の寸分の狂いもない協力によって精査された収支報告、複雑に入り組んだ資金移動の図、そして、裏の取引を匂わせる不透明な契約書が、まるで真実を暴く刃のように、整然と綴じられている。
父の眉が、ぴくりと、不快そうに動いた。その表情には、既に真実の一端を察しているかのような陰りがあった。
「リアルエステート……水島が、担当している部門だったな」
「はい。――お父様、影山の名を冠する企業が、このような不正を抱えたまま、このまま存続することは、我々影山家の、そして影山グループの何よりも大切なブランドと、名誉を、深く深く傷つけます。だからこそ、今、ここで、断固として手を打つべきです」
静かに、しかし一歩も引かぬ、鋼のような声音。そこには、一切の迷いも、怯えもなかった。
忠義は長く、まるで魂の奥底から絞り出すかのようなため息をつき、掌で額を覆った。娘の言葉が、冷徹な真実を突いていることは理解している。だが同時に、それは、長年社内に深く根を張ってきた、強大な派閥を刺激し、血の嵐を呼ぶ行為であることも、彼は知っていた。
「……菖蒲。お前には、まだ、その経験が足りない。経営は、理屈や正義だけでは、決して動かぬのだぞ」
「承知しております。けれども、わたくしには、これを見過ごすことは、もう、できません。」
その瞬間、忠義は初めて、娘の、その瞳の奥に、猛々しく燃え盛る烈しい炎を見た。
幼い頃から一度も逆らわず、常に父の意向に従ってきた娘が、今、己の信念を掲げ、父に、まるで一人の戦士のように真っ向から対峙している――。
「……わかった。だが、その背負う責任は、お前が想像する以上に重いぞ」
「はい。それでも、わたくしが、背負います。」
短い沈黙ののち、忠義は、まるで娘に未来を託すかのように、重々しく頷いた。
菖蒲の胸の奥で、何かが、静かに、しかし力強く、音を立てて動き始める。それは、止めることのできない、運命の歯車が噛み合う音だった。
会長室を出た彼女は、一切の躊躇もなく、すぐに役員室へと向かった。
開かれた扉の向こう、居並ぶ役員や社員たちの前で、菖蒲は、澄んだ声で、しかし明確に宣言した。
「本日より、『影山リアルエステート』に対して、臨時監査を、わたくし、影山菖蒲が、責任者として指揮を執り、実施いたします。」
ざわめきが、一斉に、嵐のように広がる。
若き令嬢の突然の、そしてあまりに踏み込んだ介入に、社員たちの間には、驚愕と困惑、そして、これから何が起こるか分からない、深い不安が交錯する。
その反応を、静かに、しかし真っ直ぐに受け止めながら、菖蒲は心中で、冷たく呟いた。
(――これが、私の最初の一歩。退くことなど、もう、この命にかけても許されない。)
彼女のこの宣言は、影山グループという巨大な組織の中に、小さな、しかし確実に連鎖する震源を生み落とした。
その揺れは、やがて水島豊と櫻井玲奈、そして彼らの背後に潜む黒田義信にまで届く、復讐の“最初の銃声”となるのだった。
### 第二幕 水島・玲奈の焦りと反発(水島の私室)
同じ日の夕刻。
影山本社の喧騒から少し離れた、港区の高級マンションの一室。厚いカーテンで外光を遮られた部屋の中は、昼間だというのに妙に薄暗く、空気は不快なほど湿っていた。
水島豊は、汗ばむ額を何度もハンカチで拭いながら、まるで檻に閉じ込められた獣のように、苛立ち混じりに部屋中を歩き回っていた。灰皿には吸い殻が山をなし、書き散らしたメモが床に散乱している。その乱雑な様相は、彼の精神状態をそのまま映し出しているかのようだった。
「どういうことだ……! 菖蒲お嬢様が監査を――? しかもリアルエステートだと? なぜだ、なぜよりにもよって、そこを狙ってくる……!?」
彼の独白は、焦りと恐怖に歪んでいた。
「俺たちの仕掛けなど、知るはずがない……はずだ。この影山家の内情など、知るよしもない。それなのに、まるで、俺たちの致命的な弱点を正確に狙い撃ちしてきている……!」
その独白を、まるで嘲笑うかのように、控えめなノックの音が響いた。
水島は苛立ちを隠さぬまま、扉に向かって怒鳴る。
「入れッ!」
扉が開き、漆黒のワンピースを纏った櫻井玲奈が、まるで絵画の中から抜け出てきたかのように、静かに姿を現した。
彼女は、水島の乱れた空気にも眉ひとつ動かさず、ゆったりとした、しかし寸分の隙もない足取りで入室する。その余裕ぶった態度が、水島の苛立ちをさらに煽った。
「随分と、取り乱していらっしゃいますわね、水島専務」
「取り乱すなと言う方が無理があるッ! お前の姉だぞ、菖蒲お嬢様は! あの女は、一体何を考えている?! なぜ突然、あそこまで踏み込んだ真似を……! まさか、俺たちの、あの秘密を……!?」
水島の焦燥に満ちた怒声を受けても、玲奈は、まるで彼を憐れむかのように、冷ややかに微笑んだ。
その笑みには、慰めも憐憫もなく、ただ、愚かな男を見下すような、氷のような余裕が漂う。
「お姉さまは、きっと一時的な、お嬢様ごっこの気の迷いですわ。これまで経営に関心を示されたこともない方が、急に経営ごっこをなさりたいと、そう思い立っただけでしょう」
「……気の迷い、だと?」
水島の目に、一瞬、疑念の色が宿る。
「ええ。ですから、大げさに恐れる必要などございませんわ。ただし――放っておけば、彼女が、偶然にでも何かを掴む可能性もある。だから、その前に、彼女の鼻っ面をへし折って、躓かせればよいのです。」
玲奈は、優雅な仕草でソファに腰を下ろし、白魚のような指を組み合わせた。
その瞳は、まるで冬の湖面のように氷のように冷たく、口元だけが、甘やかに、しかし凶悪に歪む。
「古参の社員たちに、もうすでに働きかけ済みですわ。監査といっても、現場は彼らの手の内。必要な書類は隠し、説明は曖昧にし、必要とあらば“紛失”を装えばいい。経営の経験など皆無の、浅はかなお姉さまなら、すぐに壁にぶつかって、その脆い心が折れるはずですわ。」
その言葉に、水島の肩が震えた。それは安堵の震えではなく、さらに深い、底知れぬ恐怖の震えだった。
「……だが、それで済むのか? 俺にはどうも、菖蒲嬢の背後に……竜崎の、あの不気味な影を感じるのだ。」
玲奈の表情が、わずかに、しかし明確に硬直した。だがすぐにそれを完璧に取り繕い、冷笑を浮かべる。その笑みには、水島に対する軽蔑と、自身への不快感が入り混じっていた。
「もしそうだとしても、竜崎が、影山の内情に、そこまで深く手を出せるわけがないでしょう。所詮は裏社会の人間。この光の世界に、易々と踏み込めるはずもありませんわ。」
水島は納得できず、苛立ちを募らせるように、握りしめていたスマートフォンを掴んだ。その顔は、焦燥で青ざめ、額には脂汗が滲んでいる。
そして短く逡巡したのち、まるで縋るように、ある番号に発信する。
「黒田様……水島です。――影山菖蒲が、リアルエステートを監査すると……はい。ええ、竜崎の影が……どうも、付き纏っているようでして……」
受話口から返ってきた声は、冷え切った鋼のような、一切の感情を排した響きだった。
『小娘ごとき、潰せ。』
それだけ。
まるで氷点下の風が吹き荒れたかのように、短い一言が、室内の温度を一気に凍らせる。
通話を切った水島は、蒼白な顔で、まるで糸が切れた人形のように椅子に沈み込む。その体は、まだ恐怖で微かに震えていた。
その姿を横目で見ながら、玲奈は、ふと、薄く唇を吊り上げた。
(……お姉さま。あなたがどれほど意気込んでみても、所詮は、私の手のひらの上で踊る、哀れな人形に過ぎませんわ。今度こそ、あなたを完全に失墜させて、二度と立ち上がれないようにしてさしあげます。)
玲奈の内心の嗤いは、まるで毒が広がるかのように、やがて影山菖蒲を狙う、巨大で、そして悪意に満ちた網となって、静かに、しかし確実に広がっていくのだった。
### 第三幕 竜崎健の援護と警戒(竜崎グループオフィス)
夜の帳が下りた新宿――。
竜崎グループ本社ビルの最上階では、重厚な木目の会議卓に資料が広げられ、低い照明が、室内を静かに、そして厳かに照らしていた。
「……影山菖蒲が、本当に監査を、始まった、と?」
竜崎健は背もたれに深く身を沈め、指先で机を軽く、規則正しく叩きながら、涼子の報告を聞いていた。その仕草は、まるでこれから始まる戦いのリズムを刻むかのようだった。
彼女の声はいつも通り落ち着いていたが、その内容は、これから始まる嵐の予兆のように、決して軽いものではない。
「はい。対象は影山リアルエステート。社内では相当な動揺が広がっています。さらに――水島豊が慌てて櫻井玲奈と接触、その直後に、黒田義信へ、縋るように連絡を取ったとの情報も入っております」
健の眼差しが、一瞬で、しかし鋭さを増す。
深い闇を湛えた双眸は、まるで獲物を見据える、飢えた獣のそれだった。
「やはり黒田か。……奴が影山家の内情に、ここまで深く手を突っ込んでいるとなれば、菖蒲嬢は、間違いなく最優先の標的になる」
短く吐き出した言葉は、冷徹な分析であると同時に、心の奥底で生じた、わずかな、しかし確かな焦燥を、完璧な仮面の下に隠そうとするものだった。
涼子は健の反応を、寸分の見落としもなく見極めるように、一拍置いてから続ける。
「どうなさいますか? 直接的な介入は、契約に反する恐れもございますが……」
健はしばし、深い沈黙の中に身を沈めた。
そして、机上の資料を無造作に掴み、まるで不要なゴミを捨てるかのように脇へ放り投げると、低く、しかし断固とした声で言い放つ。
「――菖蒲嬢の監査チームを、我々の人間で護らせろ。ただし、決して表に出るな。影から、彼女が倒れないように、支えるだけでいい。」
「承知いたしました」
涼子の瞳に一瞬、意外の色がよぎる。
竜崎健が「護る」という言葉を、明確に口にすることは、これまでの彼女の経験上、滅多にないことだった。彼にとって人間は、使える駒であり、不要になれば切り捨てる対象だ。それが、裏社会の絶対的な常識だった。
だが今、彼は、明確に、迷いなく「護れ」と命じたのだ。
それは単なる同盟関係を超え、彼自身が菖蒲の成功に、自らの誇りすら賭けるような“投資”をする意志を示した、何よりの証だった。
「……黒田が直接動くかもしれない。奴は一度狙いを定めた獲物は、どんな手を使ってでも逃がさない。だがこちらも、黙って見過ごすつもりはない」
健の声は、氷のように冷たく、同時に、奥底に燃える炎のような、底知れぬ強さを帯びていた。
涼子は軽く頷き、静かに席を立つ。その背に、健の言葉が、獲物を追う猛禽のように追いかけた。
「加えて――別ルートを動かせ。影山リアルエステートと黒田系企業の癒着を、徹底的に洗い出せ。菖蒲嬢の監査では掴めぬ、深淵に隠された真実を、俺たちが確実に握る。」
「……了解いたしました」
涼子が扉を閉めたあと、室内に再び、重い静寂が訪れる。
健はゆっくりと煙草に火をつけ、紫煙を、夜の闇に溶かすように細く吐き出した。
窓の外には夜の新宿が広がり、無数の灯りが、まるで地上の星のように瞬いている。
その光景を、冷徹な瞳で見下ろしながら、健は心中で、低く、しかし確固たる声で呟いた。
「影山菖蒲……お前の勝負は、俺の、そしてこの竜崎組の、全てを賭けた勝負でもある。」
火の先端が赤く、まるで血のように瞬き、灰が、静かに落ちる。
それはまるで、これから始まる、火花散る抗争の、血塗られた予兆のように、暗闇の中に、しかし、確かな小さな光を刻んでいた。
### 第四幕 監査現場の衝突と菖蒲の成長
翌朝、影山リアルエステートの本社ビル。
重苦しい、まるで嵐の前の静けさのような空気の中、臨時監査の旗を掲げた影山菖蒲は、自ら率いる調査チームと共に、冷ややかに会議室へと足を踏み入れた。
待ち構えていた古参社員たちは、一様に不満げな、そして警戒に満ちた表情を隠そうともしない。彼らの背後には、水島の影、そして玲奈の巧妙な策略が、蜘蛛の糸のように張り巡らされていることを、菖蒲は肌で、そして直感で理解していた。
「必要な会計資料を拝見したいと思います」
淡々とした、しかし有無を言わせぬ強い声で要求を告げると、最前列に座っていた課長格の男が、作り物めいた、しかし悪意のこもった笑いを浮かべて答えた。
「申し訳ありません、お嬢様。あいにく該当資料は、昨日からの大掃除で、つい、誤って紛失しておりまして……。社内でも、いまだ所在不明のままです」
「紛失、ですか」
菖蒲の瞳が、冷たく、そして鋭く光る。その光には、一切の動揺が見当たらなかった。
古参社員たちが、ざわ、と小さくざわつく中、彼女はわずかに、しかし確実に口角を吊り上げ、冷笑にも似た微笑みを浮かべた。
「……なるほど。それは、奇妙な偶然ですわね。ですが、不思議ですわ。父が生前、最も重要な資料を二重に保管していたことを、わたくしは、この目で、そしてこの記憶に、はっきりと留めております。――ここではなく、旧本館の地下倉庫に、ですわね?」
男の顔色が一瞬にして、血の気を失ったかのように蒼白に変わる。その瞳には、隠しきれない狼狽と、まさかの事態への驚愕が宿っていた。
菖蒲は、前世の記憶に導かれるように、寸分の狂いもない、確信に満ちた声で告げていた。
「その旧本館の地下倉庫の鍵は、役員室の金庫にあるはずです。今すぐ、確認してください」
逃げ場を完全に失った社員は、みるみるうちに狼狽し、震える足で席を立ち、数分後、まるで呪われた鍵を持ち帰ったかのように、それを持って戻った。
会議室の空気は、一気に、凍りつくように張り詰める。
菖蒲は恭司に、視線だけで合図し、監査チームを引き連れて地下倉庫へと向かった。
長年開かれることのなかった分厚い扉が、ギイィ、と耳障りな音を立てて開かれると、そこには埃を深くかぶった棚と、まるで秘密を隠すかのように積み上がった、未整理の書類箱の山があった。
一つ、また一つと、躊躇なく箱を開けていく。
やがて、恭司が、まるで真実の重みに耐えきれないかのように、震える声を上げた。
「……お嬢様、これを……! これは……!」
恭司が差し出した帳簿には、影山グループの金を食い物にする、不可解な資金移動の記録が、克明に、そして血のように生々しく残されていた。
複数の取引先の名義を経由し、莫大な資金が水島の関連会社へと流れ、さらにその裏では、黒田義信へと繋がる痕跡が――これは、もはや言い逃れのできない、決定的な証拠だった。
菖蒲は帳簿を手に取り、深く、長く息を吸い込む。
胸の奥に、高揚感と、そして得体の知れない恐怖が、まるで二つの獣のように同時に渦巻いた。
(これが……彼らの不正の証。もう、誰にも、どこにも、逃げ道は、ない)
背後で社員たちがざわつき、彼らの間に、動揺と絶望が津波のように広がる。
だが菖蒲は振り返らず、ただ、冷徹なまでの静けさを纏い、言い放った。
「これより本格的な監査を行います。この書類を基に、影山グループを蝕む、その資金の流れの全てを、徹底的に、地の果てまで追及しましょう。」
令嬢の柔らかな声が、会議室に、まるで研ぎ澄まされた鋭い刃となって突き刺さる。
彼女のあまりにも果断で、そして冷酷な態度に、古参社員たちは言葉を失い、ただ怯えた視線を交わすのみだった。彼らは、目の前にいるのが、かつての「飾り物」だった令嬢ではないことを、ようやく理解したのだ。
その瞬間、菖蒲は確かに感じていた。
自分が“傀儡”ではなく、この影山家を、そして自分の運命を、この手で切り開く“主導者”として、今、この場で、確実に動き出したのだと。
(――これでいい。これが、私の戦いの、真の始まり)
前世で失ったもの、奪われたもの、全てを取り戻すための、最初の一歩。
その歩みは、もはや誰にも、世界の理にさえも、止めることはできなかった。
### 第五幕 新たな脅威の予感
監査室の空気は、張り詰めたまま、誰もが息を飲むほどの重さに包まれていた。
机の上には、地下倉庫から奇跡的に発見された、あの帳簿の束。そこに克明に刻まれた数字の連鎖は、影山家を内部から蝕む不正の根幹を、容赦なく白日の下にさらしていた。
古参社員たちは青ざめ、互いに怯えた視線を交わしながら、沈黙している。彼らの沈黙は、自らの罪を告白しているかのようだった。
その中心で、菖蒲は静かに、しかし確固たる意志をもって帳簿を閉じた。
「これ以上、隠し通せるとは思わないことです。――ここからは、影山家の名にかけて、すべてを、徹底的に、透明にします。」
その言葉は、令嬢の柔らかな声色に似合わぬほど、揺るぎのない、断罪の宣告だった。
だが、勝利の、そして真実を暴いた余韻は、長く続かなかった。
突如、会議室の扉が、ドンッ、と荒々しく開かれる。その音は、まるで何かが始まる銃声のようだった。
「お嬢様、これを……! 大変です!」
駆け込んできたのは、菖蒲の監査チームの、顔色の変わった若手社員。
額に脂汗を浮かべ、震える手で差し出した封筒を、菖蒲は、一切の動揺もなく受け取った。
中には、無機質な白い便箋。そこに、まるで血痕のように、鮮烈な赤い文字で、ただ一文だけが、冷たく記されていた。
――“監査を即刻やめろ。でなければ、影山菖蒲、お前の、命はない。”
会議室に、凍てつくような重い沈黙が、ゴトリと落ちる。
恭司が、まるで何かに突き動かされたかのように、反射的に身を乗り出した。
「お嬢様、これは……! 明確な、脅迫状です!」
彼の声に、隠しきれない怯えと、そして怒りが滲む。だが菖蒲は、視線を封筒に落とし、便箋をしばらく、まるでそこに描かれた絵画を鑑賞するかのように見つめたあと、ゆっくりと、しかし確実に口角を上げた。
「……やはり、来ましたか」
驚きに目を見開く社員たち。彼らは、目の前にいる令嬢が、もはや常人の範疇ではないことを悟った。
菖蒲の声音は、不思議なほど落ち着いていた。それは、すでにこの事態を予見していた者の、冷徹な確信に満ちていた。
(予想通り。水島も玲奈も、追い詰められれば、すぐに黒田を動かす。この程度の脅しは、まだ始まりにすぎない。これは、私が正しい道を歩んでいる証拠。)
彼女は封筒を机の上に、まるで不要なもののように静かに置き、視線を強く、そして遠くを見るかのように前に向けた。
「皆さん、恐れる必要などありません。これこそ、私たちが真実に、そして影山家を食い物にする獣の核心に、確実に近づいている証です。――監査は続けます。どんな脅しにも、屈することなく。」
その、揺るぎない決意の宣言に、動揺していた社員たちは、息を呑み、恭司は深く、そして強く頭を垂れた。彼の瞳には、お嬢様への絶対的な忠誠と、そして新たな決意が宿っていた。
しかし菖蒲の胸中には、冷え冷えとした、言いようのない予感が広がっていた。
これまでの水島や玲奈との小競り合いとは、もはや次元の違う、“黒田義信”という、真の闇の底からの、悍ましい影の気配。
窓の外、ビル群の彼方に広がる薄曇りの空を見つめながら、菖蒲は密かに、しかし深く呟いた。
(次に待つのは、もはや言葉での脅迫などではない。それは――牙と牙を剥き合う、直接の、そして血塗られた衝突。私の命を奪いに来るだろう。覚悟を、決めなければならない)
風に揺れるカーテンの向こう、見えぬ敵の影が、静かに、しかし、確実に、殺意を携え、近づきつつあった。




