第6話 密室の契約
### 第一幕
日本橋の一角に、ひっそりと佇む老舗料亭「渡り廊」。その数寄屋造りの玄関をくぐると、その瞬間、都会の喧騒は、遠い幻のように意識から完全に消え去る。
畳の清らかな香りと、微かに漂う白檀の線香が、嗅覚を研ぎ澄まし、乱れた心を静謐へと誘う。廊下の障子越しには、初秋の淡い光が、優しく、しかしどこか物悲しく差し込み、手入れの行き届いた庭園の緑が、水面に揺れるさまは、まるで息を飲む一枚の絵のようだった。
菖蒲が、この「渡り廊」を選んだのには、明確な、そして強い理由があった。
影山家にゆかりの深い、由緒正しき格式高い料亭。ここでは、たとえあの竜崎健であっても、「客」として、表向きの礼節を保ち振る舞わざるを得ない。極道の縄張りでも、裏社会の暗がりでもなく、自分の血筋が長年築き上げてきた、この「光」の土俵で、彼と対峙するために——。私自身の、誇りを賭けて。
控えめながらも、雅やかな意匠が凝らされた訪問着に身を包み、菖蒲はすでに個室に座していた。その背筋は、微塵も揺らぐことなく真っ直ぐに伸びている。まるで、これから始まる戦いを静かに待つ、一輪の孤高の花のように。
定刻。正面の障子が、音もなく、まさに吸い込まれるように静かに開かれた。
竜崎健が、その姿を現す。漆黒のスーツに身を固めながらも、部屋に入るやいなや、すぐに上着を脱ぎ、座卓の脇へとさりげなく置いた。その、まるで長年の習慣のように自然で、一切の隙のない仕草は、彼がどんな不慣れな場であっても、瞬く間に自分の「巣」、あるいは「支配領域」に変えてしまう、獲物を前にした獣の如き本能を思わせた。
「わざわざ、このような場所を、お選びになられたのですね」
低い、しかし響くような声が室内に満ちた。その声には、微かな、しかし明確な興味の色が宿っている。
菖蒲は、茶碗に口をつけ、琥珀色の煎茶を静かに喉に滑り込ませながら、淡々と、しかし毅然と、そして彼への挑戦を隠さずに答えた。
「ええ。この場所は、わたくしの家の血が、何代にも渡って染み込んだ場所ですから。……私にとっては、最も安心できる場所。同時に、あなたという“獣”と、最も戦いやすい、私の土俵ですの。」
健は一瞬、その深い瞳を細めた。挑発にも似た、あるいは宣戦布告とも取れるその言葉を、彼は静かに、しかし愉しむように受け流し、口元に薄い笑みを浮かべる。まるで、面白い、そして手強い獲物を見つけたかのように。
やがて、しとやかな仲居が料理を運び込み、湯気立つ吸い物と、小鉢の繊細な前菜が、漆塗りの膳に静かに並べられた。二人は形式的に箸を取り、ゆっくりと口に運ぶ。
会話は、極端に少なかった。しかし、その沈黙は決して不快ではなかった。むしろ、互いの魂が、言葉なく語り合う、濃密な時間だった。
互いが互いを、五感を研ぎ澄ませて測り合い、この沈黙そのものを、言葉以上の、鋭い武器として使っている。器を置くわずかな音、茶を注ぐ淀みのない所作、そして、時に交錯する、深淵のような視線――そのすべてが、言葉以上に、雄弁な、そして危険な意味を持っていた。
やがて、菖蒲はふっと顔を上げた。その瞳には、一切の躊躇がない。
「……本日は、竜崎様にお聞きしたいことがございます」
その声音は柔らかいが、瞳の奥には、冷たい刃のような、真実を求める鋭さが宿っている。
健は茶を口に含み、その琥珀色の液体を喉に滑り込ませる音を聞かせながら、淡々と返す。
「ならば、俺も、語るべき時が来たということだろうな」
張り詰めた緊張と、料亭特有の静謐が混じり合う密室に、これから交わされる、魂と魂の、あまりにも重い契約の気配が、濃密に、そして容赦なく満ちていった。
### 第二幕(情報の交換:黒田義信についての開示)
膳の上に湯気が立ちのぼり、焼き上がったばかりの秋刀魚が運ばれてくる。銀色の皮がほのかに光を反射し、その香ばしさが室内に満ちた。だが、二人の視線は、目の前の精巧な料理にではなく、互いの心の奥深く、そしてその先に潜む、黒い闇へと注がれていた。
竜崎健は、静かに箸を置き、わずかに背をもたせかけた。その仕草は、まるでこれから、重い真実の扉を解き放つ合図のようだった。
「……黒田義信の名は、もう耳にしているだろう」
菖蒲は一瞬、息を止めた。父の葬儀の日。親族のひそやかな囁きの中に、確かにその名を聞いた。だけど、それ以上は誰も、口にしようとしなかったのだ。まるで、その名を口にすることさえ、禁忌であるかのように。
「父の……死に、深く、関わっていたと、おっしゃるのですか?」
問いかける声は、かすかに、しかし抑えきれない怒りと、そして真実への渇望を孕んで震えていた。だが、彼女の視線は決して逸らさない。冷徹なまでの、真実を求める強い意志が、その瞳に宿っていた。
健は、その菖蒲の揺るがぬ瞳を、真っ直ぐに見つめ返し、静かに、しかし重々しく頷く。
「黒田はかつて、俺の組にも深く関わっていた男だ。だが、底なしの欲に溺れ、裏切りを繰り返した。組織の金を横領し、影山家の名を勝手に利用して不正を重ねた。……最終的に、組から追放された」
「追放……」
菖蒲の唇が、怒りと、驚愕、そして、父の死の裏に隠された、あまりにも残酷な陰謀への理解をもって、硬く結ばれる。その言葉には、これまで抱いてきた疑問の断片が、全て繋がり始めるかのような、ゾッとする感覚があった。
「だが奴は、ただでは転ばなかった。追放の恨みを抱えたまま、影山家と竜崎組の両方を呪うように、執拗に、そして巧妙に暗躍し続けている。今の水島豊が、まるで憑かれたように強気に動けるのも、黒田が裏で巧妙に糸を引いているからだ」
畳の上に、重く、そして深淵のような沈黙が落ちる。
庭園からは、せせらぎの音が、かすかに、しかし絶え間なく聞こえてくる。その清らかで穏やかな音が、語られた闇の深さと、その中に潜む、おぞましい真実を、残酷なまでに際立たせていた。
菖蒲は、箸を持つ手を膝の上にそっと置き、悔しさ、そして心臓を抉るような痛みを押し殺すように目を伏せる。
――父や祖父は、このことを知っていたのだろうか。なぜ、私に語らずに逝ってしまったのか。なぜ、この重荷を、独りで、あの二人だけで背負ってしまったのか。
胸の奥に、抉られるような痛みと、重い石を抱え込むような苦しさが、泥のように、そして絶望的に広がる。
健は、その菖蒲の微かな表情の変化と、内に秘めた感情を、寸分見落とすことなく読み取りながら、さらに低い声で、核心を告げた。
「黒田の怨念は、ただの私怨に留まらない。影山家を丸ごと呑み込み、自らの名を再び、この光の世界に掲げるための、狂気じみた、執拗なまでの執念だ。……お前がこれから、影山家を継ぎ、光の象徴として何をするかで、奴の牙は必ず、お前自身に、容赦なく、命を狙って向かってくる。」
菖蒲は深く息を吸い、静かに、しかし揺るぎない決意を込めて吐き出す。そして、まるで心の奥底から新たな光が灯ったかのように顔を上げると、その瞳には、すでに迷いを完全に超越した、鋼のような、そして抗いがたい強さが宿っていた。
「――ならば、正面から、喜んで受けて立ちますわ。逃げるつもりは、初めからございません。むしろ、奴らを、この私の手で迎え撃つ、この時を、ずっと待っていました。」
健の口元に、わずかな、しかし深い満足を湛えた笑みが浮かぶ。挑みながらも一切恐れを隠さないその眼差しに、彼は一瞬、十九歳の娘以上の、宿命を背負い、戦場に立つ、孤高の戦士の魂を見た気がした。
### 第三幕(同盟の条件提示と菖蒲の決断)
料亭の庭を渡る風が、障子をかすかに揺らした。昼下がりの光は柔らかいのに、室内の空気は、まるで薄氷のように、鋭く、そして切り裂くように張り詰めている。
竜崎健は、ゆっくりと盃を傾け、淡い琥珀色の酒を口に含んだ。その喉を通る、ゴクリというわずかな音までもが、沈黙を切り裂く刃のように、鼓膜に響く。
「――同盟を組むなら、俺から、一つ、絶対的な条件がある。」
盃を卓に置きながら、彼は低く、しかし有無を言わせぬ、支配者としての声で告げた。
菖蒲は背筋をぴんと伸ばし、ただ黙って、その言葉の核心を待つ。
「お前は影山家の正統な後継者として、表の世界で、誰よりも輝かしく旗を掲げろ。影山の“光”となれ。『浄化』を、正義を、声高に唱えろ。表が光り輝けば輝くほど、その光に照らされて、裏に潜む膿は、必ずや浮かび上がる。……その膿を、俺が断つ。根こそぎ、な。二度と芽吹かせない。」
まるで将棋の局面を読み切ったかのように淡々と述べられる言葉。だがそこに潜むのは、冷徹な計算だけでなく、自らの信念を貫こうとする、狂気じみた、奇妙なまでの熱が宿っていた。
菖蒲は目を細める。
「……つまり私は、あなたの“光の盾”、あるいは“裏社会を浄化するための、ただの看板”に過ぎないと、おっしゃるの?」
健の視線が、まるで獲物を射抜くように鋭く光る。その瞳には、彼女の言葉の意図を測るかのような、深い洞察が宿っている。
「看板がなければ、裏での血はすべて徒労だ。お前の存在は、不可欠だ。だが――」
彼は、声をわずかに落とす。その声には、彼女への、ある種の、しかし確かな評価が滲んでいた。
「傀儡にするつもりはない。お前にとっても、これは復讐の道だろう。目的は一致しているはずだ。互いに牙を持つ者同士、利用し合う。それが、最も確実な、そして俺たちに相応しい道だ。」
障子の外で、雀の鳴き声が、ピィ、と、場の緊張とは不釣り合いに、のどかに響いた。
菖蒲は静かに唇を噛みしめ、胸の奥で渦巻く、父の死、祖父の苦悩、そして自分を突き動かす燃えるような怒り――そのすべてを押し殺す。すべてが重なり、絡み合い、ただ一つの、避けられぬ答えを、彼女の魂の中で形づくる。
「……私には、私のやり方があります。決して、誰の影にもなりません。私自身の、この、光で、道を拓きます。」
毅然と告げるその声音に、健の瞳が一瞬だけ、まるで予想外の、しかし面白い反応を愉しむかのように揺れた。
「ですが――目的が同じならば、手を携える意味は、大いにある」
菖蒲は盃を取り上げ、淡い酒を口に含む。その酒が、彼女の喉を熱く、そして決意の炎のように焼くような気がした。そして卓に戻したその手を、すっと、迷いなく健の方へ差し出した。
「……条件付きではございますが、この同盟を、わたくし、影山菖蒲が、謹んで、そして、この復讐の誓いを胸に、受け入れましょう。」
健は短く、まるで勝利を確信したかのように、不敵に笑い、彼女の手を取る。
その握手は力強く、だが不思議な熱を帯びていた。牙を持つ者同士が、互いの存在を、そして互いの内に秘めた覚悟を、肌で確認し合った、共犯者としての、血塗られた最初の刻印――。それは、運命が、二つの魂を結びつけた、揺るぎない証でもあった。
### 第四幕(緊張の緩和と心の触れ合い:瞳の対話)
握手が解かれると、それまで張り詰めていた空気の糸が、ふっと、音もなく緩んだ。
障子越しに、午後の光が一層柔らかく室内を包み込む。庭園のせせらぎが、沈黙の中で、まるで二人の心の、深く閉ざされた扉を叩くかのように、心地よい間を埋めていた。
竜崎健は盃を持ち直し、残りの酒をすべて飲み干す。先ほどまでの張り詰めた緊迫感とは違い、その仕草はどこか、彼自身の、深淵に秘めた素の顔を覗かせるものだった。
「……牙を剥き合えば、少しは、互いに、安心できるものだな。」
菖蒲は一瞬、驚いたように目を瞬かせ、すぐに、その言葉の意図を測るように、薄い微笑を浮かべた。
「安心、ですか。……竜崎様でも、そのような、人間らしい、弱さを口にするのですね。」
健は、その言葉に微かに口角を上げた。そして、まるで全てを、私の魂の奥底まで見透かすように、視線を菖蒲の瞳に向ける。深い黒の瞳が、真正面から、彼女の心の最も深い場所にまで、まるで刃のように、しかし温かく射抜くように重なる。
「……お前のその瞳は、十九歳の娘のものではないな。まるで、数多の血と闇を潜り抜け、孤独に生き抜いてきた者のようだ。」
ぽつりと零れた言葉には、嘲りも侮りもなく、ただ、真実を言い当てられたような、率直な感嘆と、そして、深い、しかし抗い難い洞察が滲んでいた。
菖蒲は息を呑む。胸の奥で、誰にも知られずに隠し続けてきた、前世の孤独、年齢以上に重ねた苦悩、そして深淵のような絶望――そのすべてを、一瞬にして見透かされたような、魂を揺さぶる、抗い難い感覚に襲われた。
けれど、すぐに視線を逸らさず、静かに、しかし深い確信をもって返す。
「……竜崎様のその瞳も、単なる極道の頭のものではありませんわ。まるで、王者の孤独と、この世界を支配する「業」を、その身に宿した者のようです。」
一瞬、室内が、時間が止まったかのような、不思議な静寂に包まれる。
互いの言葉が、相手の心の最も深い、触れてはならない場所を、優しく、しかし確実に掠め取った感覚。敵でも味方でもなく、傀儡でも支配者でもなく――ただ、同じ深淵を覗き、同じ孤独を背負った者としての、根源的な理解と、魂の共鳴。それは、まるで、二つの宿命が、今、結びついた証のように、確かな熱を帯びていた。
健は、フッと、小さく口角を上げた。
「妙な娘だな」
「……よく言われますの」
二人の間に、ほんのわずかな、しかし確かな温かい笑いが生まれる。重苦しかった密室が、初めて、人と人との、深く特別な、そして抗い難い「縁」の温度を帯びた瞬間だった。
### 第五幕(章のエピローグ:翌日の健からの直接連絡)
翌朝。
影山家の母屋、菖蒲の私室に淡い陽光が、そっと差し込んでいた。障子越しの光はまだ柔らかく、昨夜の緊迫した夜会での出来事を、遠い夢のように和らげる。
菖蒲は机に広げられた書類に目を走らせていた。影山グループが抱える子会社の一覧。その中には、長年水島豊が深く関与していると噂される名が、いくつも散見される。
「……最初の一手は、ここから」
心の中で呟き、筆を置く。昨夜の会合で交わした、竜崎健との血盟とも呼べる約束が、すでに、彼女の行動原理の核となり、その魂に深く刻み込まれ、形を変え始めていた。
その時、机上の携帯電話が、かすかに、ブルッと震えた。
画面に表示された名に、菖蒲は一瞬だけ、目を細める。
――竜崎健。
静かに、しかし迷いなく通話ボタンを押す。
「……おはようございます、竜崎様」
受話口から返ってきた声は、夜の密室で聞いた時よりも、幾分か軽やかで、そして、どこか愉悦と、彼女への深い期待を湛えているようだった。
『朝から悪いな。だが、わざわざ連絡したのは、伝えておきたかったことがある。――昨日の約束は、俺にとっても、決して軽い賭けじゃない。俺の、この命と、竜崎組のすべてを賭けた、覚悟の、血の誓いだ。』
菖蒲の胸に、熱のようなものがじわりと、静かに広がる。彼の言葉は、彼女の覚悟を、より一層、揺るぎない、鋼のようなものへと変える。
「ええ。わたくしにとっても、同じことですわ。この影山菖蒲も、同じく、すべてを賭しました。」
短い沈黙の後、健は低く、そして深く、満足を込めて笑った。
『なら、これでいい。……動き出せ、影山菖蒲。お前が光の旗を掲げれば、黒田も水島も、必ずやその本性を露わにして揺らぐ。その時が、俺たちの、真の「狩り」、そして「浄化」の始まりだ。』
通話が切れると、室内には再び、張り詰めた静寂が訪れた。
菖蒲は携帯を机に置き、ゆっくりと、長く息を吐く。
その瞳には、昨夜の会合を終えた時以上の、揺るぎない、冷徹な、そして熱い決意が、深く宿っていた。
障子の外では、庭の木々が風に揺れ、葉擦れの音を奏でている。
その穏やかで、牧歌的な音とは裏腹に、彼女の歩む道はこれから、血と火にまみれる、過酷で、そして抗い難い「業」の道であることを、菖蒲自身が、誰よりも深く理解していた。
彼と交わした言葉が、頭から、心から、離れなかった。
「牙を持つパートナー」
その響きが、まるで魂を縛る、抗いがたい甘美な呪いのように、菖蒲の心を、完全に支配していた。




