第4話 静かなる一手
### 第一幕 影山家・書斎にて(菖蒲視点)
あの雨夜の襲撃事件から数日。影山家の屋敷は、嵐の後のような、それでいてどこか嵐の前の、不気味な静けさに包まれていた。
菖蒲は父の書斎にひとり腰掛け、机上の硯と和紙に視線を落とす。柔らかい灯りが障子に反射し、古い木材の香りが、この重い沈黙の中にじんわりと漂っていた。父が愛用したこの場所は、今や私にとって、ただの書斎ではない。「策を練るための、大切な戦場」へと、その意味を変えつつあった。
――間もなく、彼が来る。
私が呼び寄せたのは、幼なじみの竹内恭司。影山家に代々仕えてきた竹内家の長男で、幼い頃からずっと「お嬢様」と呼んで、私の傍らに立ち続けてくれた、この世で最も清らかな存在。
表向きは「伝統工芸に関する相談」なんていう、ごくありふれた名目。だけど、本当の目的は、もちろん別にある。
襖が音もなく開き、背筋がピンと伸びた青年が姿を現した。恭司の眼差しは、あの頃と寸分違わず澄んでいて、その佇まいには一片の揺らぎもない。まるで、変わらぬ時の中に置き去りにされた、一本の竹のように。
「お嬢様、竹内恭司、参上いたしました」
深々と頭を下げる恭司の声に、私の胸はひそかにズキンと、痛んだ。
その声音は、前世で、この私が無様に死んでいくその瞬間まで、変わらず私を支え、心を尽くしてくれた、あの優しい響きと同じだったからだ。
「……恭司。来てくれて、本当にありがとう」
努めて落ち着いた調子で言いながらも、喉の奥にはわずかな震えが残る。机越しに彼の顔を見つめると、十年前と寸分違わぬ、あのまっすぐな誠実さがそこにあった。それが、ひどくまぶしかった。
「実はね、相談があるの。表立っては、絶対に、誰にも言えないことなんだけど……」
私はゆっくりと、慎重に言葉を選んだ。
自分が“目覚めた”こと――前世の記憶を全て取り戻したなんていう、狂気じみた事実を、そのまま彼に語るわけにはいかない。それでも、この影山家と、そして私自身に渦巻く、この途方もない危機を、彼に伝え、そして協力を仰がなければならないんだ。
「……私や、影山家に、もう本当に、手の施しようがないほど大きな影が迫っているの。だから、あなたの、その絶大な力を、何がなんでも借りたい」
沈黙が、数拍。それは、まるで恭司の心が、私の言葉の重みに耐えているかのような静寂だった。
だけど恭司の瞳は、一切揺らぐことなく、私をまっすぐ見つめたまま、即答だった。
「お嬢様のためならば、この竹内恭司、命さえ、惜しくはありません。何なりと、お申し付けください」
その言葉は、研ぎ澄まされた刃のように真っ直ぐで、私の胸を深く深く刺した。そして、私の覚悟を、さらに深々と抉り取った。
心のどこかで、彼にだけは、この泥沼に巻き込みたくなかった。何の汚れも知らない、純粋な彼を、私の復讐劇で汚したくなかった。だけど今は、彼の、この純粋すぎる忠誠心を、利用せざるを得ない。利用して、この汚れた手で、生き残らなければならないんだ。
「……ありがとう。ならば、最初の、最初のお願いがあるわ」
私は机の上に、前もって準備しておいた数枚の資料を置いた。そこには、水島豊の関連企業の名前が、ずらりと、私の憎悪を煽るように並んでいる。
「この人物の、あらゆる資金の流れを調べてほしいの。公式な記録だけじゃなくて、裏でどう動いているのか……恭司の人脈と、その手腕なら、きっと、影に隠された真実さえも、掴めるはずよ。」
恭司は資料を手に取り、真剣な眼差しで目を走らせると、静かに、そして確固たる意志を秘めた声でうなずいた。
「承知いたしました。竹内家の名に懸けて、必ずや痕跡を突き止め、お嬢様にお伝えいたします」
その力強い返答に、私は思わず唇をきゅっと噛んだ。その誠実さゆえに、彼の未来を危険に晒すことになるかもしれない。
――彼の誠実さを、私は裏切ることになるかもしれない。
それでも、復讐を果たすためには、この最も清らかな「駒」を、動かさなければならないんだ。それが、私の「業」なのだから。
ふと視線を上げると、恭司は幼い頃と変わらぬ、あのまっすぐな眼差しで私を見つめていた。そこには一片の疑念も、打算も、そして私が背負う“影”への恐れも、何もなかった。ただ、私を信じ、私を守ろうとする、純粋で、そして愚直なまでの光だけが宿っていた。
私は胸の奥で、小さく、誰にも聞こえない声で呟いた。
_許して、恭司。私はもう、あの頃の、優しいだけの愚かな令嬢では、いられないの。_
_この手を、この心を、どれだけ汚しても、復讐を果たす。その覚悟は、もうとっくにできているから。_
### 第二幕 竜崎グループ本部オフィスにて(竜崎健視点)
雨の気配はもう遠ざかり、摩天楼の窓には、まるで漆黒の画布に宝石を散らしたように、夜の灯が映り込んでいた。
竜崎健は高層ビルの最上階に構える自らのオフィスで、書類を捌く手を止める。硝子越しに見下ろせば、東京の街は無数の光の粒となり、冷たく、そしてどこか傲慢に、地上の権力を謳うようにきらめいている。
「――ご報告があります」
控えめなノックの後、榊原涼子が姿を現した。
彼女は淡々と、影山菖蒲が竹内恭司と会った件を伝える。名目は伝統工芸の相談。だが、竜崎の耳に届いた時点で、それがただの“名目”で終わるわけがないことは、誰の目にも明らかだった。
「竹内恭司、か」
健は椅子の背にもたれ、報告書に視線を落とした。
竹内家――影山家に代々仕える、由緒正しき匠の家系。表の世界での信用は絶大で、裏の匂いを一切持たない稀有な存在だ。
そんな、全く裏とは縁のない人物を、あの影山菖蒲が動かした。しかも、水島豊の資金の流れを調べるよう依頼したという。
――なるほどな。面白い。
健の口元に、わずかな、しかし深い笑みが浮かぶ。それは、好戦的な将軍が、思わぬ好手を見出したかのような、愉悦を帯びた笑みだった。
単なる令嬢なら、きっとあの晩のように、竜崎グループの力に依存しようと擦り寄ってくるはずだ。だが菖蒲は違う。影の世界に手を伸ばすだけでなく、光の世界においても、自ら「駒」を動かし、盤面を掌握しようとしている。
慎重でありながら、大胆。
周到でありながら、感情に囚われすぎない冷徹さ。
彼女の中には、あの夜見た、ただの“飾り”ではない、獲物を追い詰める飢えた獣のような鋭さがあった。
「……観察対象」から、確実に「深く興味を引く対象」へ。
健の中で、影山菖蒲という存在の輪郭が、また一歩、色濃く、そして魅力的に変わっていく。
「涼子」
短く名を呼ぶと、涼子は静かに、しかし澱みなく返事をした。
「彼女の動きを、引き続き見守れ。邪魔はするな。ただし――」
健は報告書から目を上げ、窓の外の街を見下ろした。その瞳は、深淵を覗くように、どこまでも冷たい。そして、その冷たさの奥には、ある種の光が宿っていた。
「もし彼女の調査が、黒田の神経を逆撫でするような事態に発展したなら、ただちに知らせろ。……その時は、俺が動く」
一見すれば、あくまで冷徹で、感情の伴わない指示。
だがそれは、決して無関心なんかじゃない。まるで、獲物を危険から守ろうとする、怜悧な猛獣のような「保護」の意思すら、その瞳の奥に秘めていた。
――影山菖蒲。
彼女は思った以上に、したたかで、そして脆い。
ただ利用価値があるというだけではない。妙に、その生き様に、自分自身の過去を、孤独に這い上がってきた己の影を、重ねてしまう。
健は机上のグラスを手に取り、氷の溶ける音を、耳の奥で静かに聞きながら、小さく吐息を洩らした。
「さて……どこまで這い上がってこれるか。存分に、見せてもらおうじゃないか」
都市の夜景が、彼の瞳に冷たく、そして、燃えるように、その支配欲を映し出していた。
### 第三幕 影山家・書斎の夜(菖蒲視点)
竹内恭司が去った後、書斎には沈黙が、重く、深く、そして私にはあまりにも冷たく戻っていた。
古い柱時計の振り子が規則正しくカチコチと揺れ、その音だけが、やけに鮮明に時を刻んでいる。
机の上には彼に手渡した資料が残されていて、その紙の端に触れるたび、私の胸はかすかに、だけど確実に痛んだ。
――私はまた、彼を、あの光そのもののような純粋な彼を、私の復讐劇という名の泥沼に、深く深く巻き込んでしまった。
幼い頃から変わらず私を「お嬢様」と呼び、一片の疑いもなく守り続けてくれる恭司。その揺るぎない忠誠心を利用する形で、最初の、そして最も残酷な指令を下した。
復讐のためには必要不可欠。この冷たい理屈では、完璧に理解している。だけど理屈だけでは割り切れない、まるで汚泥のような罪悪感が、心の底に澱のように、じっと、しかし重く沈んでいた。
彼の眼差しを思い出す。
迷いなく、ただ私のために尽くすと誓った、あのまっすぐで曇りのない瞳。
その清らかさを前にしたとき、私はひととき、まるで心が根っこから揺さぶられるみたいに、言葉を失いそうになった。
――私に、本当にその価値があるのだろうか。
_こんなに、もうこんなにも汚れてしまった私に、あの光のような忠誠を受ける資格なんて、一体どこにあるのだろう?_
自嘲が胸を過ぎる。だけど次の瞬間、私は唇を強く噛みしめ、そんな弱々しい思考を、力ずくで、無理やりに断ち切った。
_迷うな、影山菖蒲。優しさに浸れば、前世と同じ、惨めな、愚かな過ちを繰り返すだけ。_
_生き残るために、そして、奴らを打ち倒すために、私は誰であっても、どこまでも利用する。例えそれが、恭司のような光であっても、容赦はしない。_
菖蒲は深く息を吸い込み、背筋をピンと伸ばした。
窓の外では、厚い雲間からわずかに月がのぞいていた。雨に洗われた夜気が澄み、その光は鋭く、書斎の床を冷たく、まるで未来を嘲笑うように照らす。
その時、机の上の電話が、かすかに、ブルッと震えた。
短い着信音――それは、恭司からの暗号だ。
菖蒲は受話器を、ゆっくりと、だけど迷いなく取り上げる。
「……水島豊の資金に、不審な流れがあります」
低く抑えた恭司の声が、重苦しい静寂を破った。
紙をめくるように、私の脳裏に鮮やかな像が浮かぶ。
その不審な資金の流れの、さらに深く。その背後に潜む、巨大な、そして悍ましい影――黒田義信。
鳥肌が立つような冷気が、書斎の空気を一瞬で凍り付かせた。
彼の名が、こうして再び私の目の前に現れる時、私の平穏な日々は確実に終わる。
前世で私の全てを奪い、私を餓死という絶望に突き落とした男の影が、すぐそこまで、再び牙を剥き、私に迫っているのだ。
受話器を置いた手は、わずかに震えていた。
けれど、その瞳には、恐怖と全く同じくらいの、強く、そして血のように燃えるような決意が宿っていた。
_黒田義信……。今度こそ、あんたを、この私自身の両手で、確実に討つ。地獄の底まで、引きずり込んでやる。_
そう心の中で呟いた瞬間、菖蒲の中で、何かが、カチリと音を立てて、はっきりと形を成した。
復讐の駒は、静かに、しかし、もう何があっても、誰にも止められない確実さで、猛然と動き出していた。




