第2話 仮面の舞踏会
**菖蒲視点**
影山家の大広間って、夜の光に包まれると、また格別なのよね。
天井から吊るされたクリスタルのシャンデリアが、それこそ何千もの光をキラキラ反射させて、壁に掛けられた日本画の金箔を、やけに柔らかく照らしてる。長いカーペットの上を、絹の裾を擦りながら、たくさんの人が行き交ってて、グラスの澄んだ音と、わざと低く抑えられた笑い声が、絶え間なく響いてた。
十九歳の影山菖蒲は、そのまさに中心に、すっと姿を現した。
白磁みたいにつるんとした滑らかな肌に、夜の滝みたいに美しく結い上げられた黒髪。薄桃色の着物ドレスに身を包んだ私は、まさに大和撫子の化身って感じで、周りの視線を一瞬で釘付けにした。
だけど――そこに宿る光は、誰もが記憶している“前の私”のものとは、もう全然違っていた。
(ああ……みんな知らないんだ。私が、もう“あの頃の愚かな私”じゃないってこと。)
微笑みを浮かべるその表情は、完璧に優雅。影山家の令嬢としての矜持を、これでもかってくらい完璧に演じきってる。でもその内側では、血のように冷たい憎悪が、胸の奥で静かに、でも確実に息づいていた。
人々のざわめきの中から、ふと、懐かしいはずなのに吐き気がしそうな声が聞こえた。
「菖蒲さん、お久しぶりですね」
低くて落ち着いた声。
振り返れば、黒いスーツ姿の藤原豊と、淡いピンクのフワフワしたドレスに身を包んだ玲奈が、親しげな笑顔を浮かべて立ってた。
私の心臓が、ひゅっと冷気に包まれる。前世で、この私をどん底まで追い詰め、飢え死にさせた張本人たち。血の匂いまで思い出させそうな存在。だけど私の唇は、ただ、完璧な弧を描いて微笑んだ。
「まあ、豊さん……玲奈。今宵はよくお越しくださいましたわね」
玲奈は、まるで子猫みたいに、私の腕にすり寄って絡みついてきた。甘えるように顔を寄せて、耳元でささやく。
「お姉さま、本当にお綺麗……。今夜の主役は菖蒲さまだわ」
――お姉さま。
その呼びかけに、かつて何度も心許した記憶が、じんじんと痛む。だけど今は、その甘美な響きが、胸の奥で鋭い刃になって、私の怒りを煽るだけだ。
(よくも……。私を裏切り、死に追いやったあんたが。どの口で“お姉さま”なんて呼ぶのよ。)
心の奥底で燃え盛る炎を、涼やかな瞳の奥にぎゅっと押し隠す。私はあくまでも優美な声で、平静を装って答えた。
「玲奈も、本当に可愛らしくなって……。あなたと一緒に並ぶと、まるで春の花園ね」
その一言に、玲奈の瞳がパッと喜色に揺れたのが分かった。周りの客も、にこやかに微笑む。
だけど、私の心中では、“花園”の裏に潜む、毒々しい棘のことしか考えてなかった。
ちょうどその時、豊がスッと会話に割って入ってきた。
「そういえば、影山グループの新規投資案件――例のリゾート開発ですが、素晴らしい発想ですな。私も大いに期待しております」
その言葉に、私の胸が微かに、ひゅっと震えた。
前世の記憶が、鮮烈に蘇る。あのリゾート開発は、影山家を致命的な失敗に導き、莫大な損失を与えた、あの忌まわしい案件だった。あのときの私は、何も知らずにただ頷いて、父を安心させようと作り笑いをしてただけ。
だけど、もう違う。
私はグラスを軽く傾け、さも何気ない調子で、相手の心臓に一撃を食らわせるように言った。
「――ふと気になったのですが。あの地域は、近年の環境規制が厳しくなっておりますわ。もし許認可が遅れるようなら、初期投資が無駄になる可能性も……」
声はあくまで柔らかく、微笑みは一切崩さない。
だけどその一言は、真綿に包んだ、研ぎ澄まされた鋭い刃のように、会話の核心をズバリと突いた。
豊の瞳が、一瞬、驚きに大きく揺れた。
次いで慌てて笑顔を取り繕うけど、その口元の僅かな引き攣りを、私は見逃さなかった。
(気づいたかしら……? 私はもう、あんたたちの言いなりになるだけの、従順な人形じゃないってこと。)
玲奈が、パッと笑顔で割り込んで、慌てて話題を変えようとする。
「まあ、お姉さまってば本当に勉強熱心。お父さまも安心なさいますわね」
その声には、明らかに焦りが混じってた。
私はただ、完璧な微笑みを浮かべて、頷く。
テーブルの上には、次々と豪華な料理が並べられていく。銀の皿に盛られた鴨肉のロースト、透明な器に漂う澄まし汁。香りは豊かで、色彩は絢爛豪華。だけど、私の舌はもう、そんな甘美なものは一切拒絶していた。
玲奈が立ち上がり、気の利く妹を演じるように、私の好物を取りに行った。
「菖蒲お姉さま、こちらのお料理、あなたのお好きなものだったでしょう?」
皿を差し出す玲奈の、あの完璧な笑顔。
私はそれを受け取り、柔らかく感謝を述べた。
「ありがとう、玲奈。……本当に優しいのね」
そう言いながら、玲奈が触れた箸を、誰にも気づかれぬ、まるで舞の一部のような自然な仕草で、スッと取り替える。
周囲の目には、もちろん何も映らない。
だけど菖蒲の心の中では、吐き気に似た、おぞましいほどの嫌悪感が、まるで波のように押し寄せていた。
(あんたの触れたものなんか、口にできるはずないでしょう。)
周囲では、父・忠義や母・雅が穏やかに笑い、賓客たちが楽しそうに話に花を咲かせている。その温かくて眩しい光景が、かえって私の胸を締めつけた。
――あの晩も、きっと同じように、家族はみんな笑ってたんだ。だけど最後に残ったのは、飢えと裏切りと、誰にも知られない孤独な死だけだった。
私は胸の奥に、冷たく、確固たる決意を抱きしめる。
(私はもう、二度と同じ過ちなんか繰り返さない。どんなに微笑みの仮面を被り続けてでも、この手で必ず運命を変えてみせる。)
夜も更けて、宴はますます華やかさを増していく。
ワインの芳醇な香り、絹の衣擦れの音、弦楽四重奏の美しい旋律――すべてが完璧に調和して、影山家の繁栄を示す、これ以上ない舞台装置みたいになってる。
だけど、私の耳には、別の、もっと恐ろしい響きが混じってた。
それは、かつての絶望の記憶――薄暗い部屋で、お腹を押さえながら、干からびた喉で助けを求めても、誰も来てくれなかった、あの夜の静寂。
(忘れるものですか……。私を飢えさせ、苦しませ、見殺しにしたあんたたちのことなんか。)
玲奈の笑顔も、豊が取り繕う言葉も。それらすべてが、私にはただの薄っぺらい仮面にしか見えない。
そして、自分もまた、同じように完璧な仮面を被っている。
私はテーブルから少し離れて、バルコニーへと、ふらりと歩みを進めた。
夜風が頬を撫で、遠くで秋の虫の声が、まるで細い糸みたいに響く。
振り返れば、煌びやかな大広間。その中で玲奈が誰かと笑い、豊がまた別の客と杯を傾けている。
――その光景は、まるで舞台の一幕だ。
観客席から、彼らの本性を知る唯一の存在として眺めている私。
(いいえ……。舞台の上にいるのは、私も同じ。だからこそ、最後まで、完璧に演じ切らなくてはならない。)
仮面の下で、静かに微笑む。
心は氷のように冷たいままだ。だけど、その冷たさこそが、今の私の、何よりの支えだった。
「お嬢様、夜風は冷えますよ」
背後から、影山家の執事が控えめに声を掛けてきた。
私は振り返って、優雅に頷いた。
「ええ、大丈夫。少し……気分を整えたかっただけですわ」
その言葉の裏にある、私の本当の気持ちなんて、誰も気づきやしない。
私は再び大広間へ戻って、父母の傍らに立った。
客人たちが次々と別れを告げる中、玲奈と豊も、名残惜しげな顔をして去っていく。
「また近いうちに、お話いたしましょうね、お姉さま」
玲奈の笑顔が、最後まで甘ったるく、私にまとわりついた。
私は完璧な微笑みを返し、やがて二人の背中が、闇に溶けていくのを見送った。
その瞬間、私の瞳の奥に一瞬だけ、ゾッとするような鋭い光が宿る。
(ええ……必ずまた会うわ、玲奈。あんたを、この私の手で――。)
杯の底に映る自分の顔は、相変わらず優雅な令嬢の仮面。
だけどその仮面の裏に潜む、私の誓いだけは、誰にも暴かれはしない。
夜は深まり、宴は終わりを迎える。
影山菖蒲の復讐劇は、静かに、確実に幕を開けていた。
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**竜崎健視点**
深夜。
竜崎グループ本社、高層ビルの最上階。
街の灯りを見下ろす広々としたオフィスには、シンとした静けさと、キンと張り詰めた冷気が満ちていた。
竜崎健は、分厚いガラスデスクに肘を置き、表情一つ変えずに淡々と報告書に目を通していた。
黒のスーツに包まれた体躯は微動だにせず、指先だけが、スッと音もなく書類を滑らせる。
壁際には無機質な書棚、窓の外には東京の夜景。煌めく摩天楼さえ、まるで彼の眼差しを映す鏡に過ぎないみたいだった。
「……影山家の晩餐会について、報告が上がっております」
低く、落ち着いた声が室内に響く。
秘書の榊原涼子が、数枚のファイルを机に差し出した。
健は顔を上げず、ただ「読め」と一言、短く命じた。
「影山財閥の令嬢・影山菖蒲様ですが……従来の評判と異なり、本日の場では極めて的確な発言をなさったとのことです。
特に、水島商事が進める新規案件のリスクを、ごく自然に、しかし鋭く指摘されたとか」
ページをめくる音だけが、シンと響く。
榊原はごくりと息を呑み、報告を続けた。
「周囲は驚きを隠せなかったようです。
以前の彼女は、ただ微笑むだけの『飾り』と見なされておりましたが……今宵は、全く違った、と」
健は書類からゆっくりと目を離し、ようやく背を椅子に預けた。
無表情のまま、だけどその瞳の奥に、ほんのわずかな、興味の色とも取れる光が射す。
「……なるほど」
彼の口元が、ほんの僅かに、ピクリと緩んだ。
それは笑みとも、溜息ともつかぬような、本当に微細な変化だった。
「人は、そんな簡単に変わらない。だが――変わる時は、必ず何か理由がある」
榊原が頷き、次の指示を待って静かに待機する。
健は数秒の沈黙の後、静かに、だけど重い言葉を落とした。
「……続けて、観察せよ」
その声音は冷ややかで、だけどどこか、これから始まるゲームを愉しむような色が、確かに潜んでいた。
影山菖蒲――。
その名が、彼の思考に深く、そして確実な刻印を残した瞬間だった。
窓外の夜景は、いっそう鮮烈に輝きを増す。
竜崎健の瞳は、その光を映しながら、次の駒の、そのまた次の駒の動きを、既に見据えていた。




