黒田明里 番外:天照の雫、消えゆく光
第一章:闇に咲く朝露 ― 純粋なる愛の始まり
黒田明里は、小さな花のように生きていた。
極道の血生臭い世界とは無縁の、ごく普通の家庭で育った。彼女の心は、朝露のように純粋で、ひだまりのような笑顔は、会う人すべての心を和ませた。彼女の瞳には、常に、この世界への優しさと、小さな生命への慈しみが宿っていた。
そんな明里の世界に、ある日、漆黒の“闇”が現れた。
黒田義信。
組の若頭。彼の冷酷な眼差しと、血に塗れた手は、明里の知る世界とはあまりにかけ離れていた。だが、明里は、彼の“闇”の奥に、誰にも見えない、小さな“傷”を見た。そして、その傷の奥に、救いを求める、孤独な“魂”を感じたのだ。
「義信さん……」
明里の、優しく、しかし確かな声が、彼の張り詰めた心を、一瞬だけ、和ませた。
彼は、明里にとって、危険な存在だった。世間は彼を恐れ、忌み嫌った。だが、明里は、彼の“闇”を恐れなかった。むしろ、その闇を、自分の“光”で包み込みたいと、心から願った。
明里は、黒田義信の唯一の“光”となった。
彼の血塗られた仕事も、彼の冷酷な一面も、明里はすべてを受け入れた。彼の傍らにいることで、彼が、ほんの少しでも“人間”として安らげるのなら。それが、明里の望みだった。
結婚した。闇の中で、二人は小さな“光”を灯した。
明里は、黒田義信が、いつか、この血生臭い世界から抜け出し、“普通”の幸せを掴んでくれると、信じて疑わなかった。彼の心の奥底には、必ず“善”の種が眠っている、と。
それは、明里自身の、純粋で、そして盲目的な愛だった。
第二章:消えゆく生命 ― 「天照之雫」と無情な原則
だが、そのささやかな幸福は、長くは続かなかった。
明里の身体は、まるで朝露が陽光に溶けるように、日を追うごとに衰弱していった。遺伝性の、稀な慢性衰竭症。現代医学は、彼女の命を救う術を知らなかった。
「義信さん……私、まだ、あなたと、もっと生きたい……」
明里は、痩せ細った手で、必死に黒田の手を握り締めた。その瞳には、生命への切なる渇望と、愛する夫への、深い、深い依存が宿っていた。
黒田は、狂ったように治療法を探し続けた。どんな金も、どんな手段も惜しまなかった。そして、一つの噂に辿り着く。
「影山家が代々護る、“天照之雫”……それが、どんな病でも治す、奇跡の万能薬だ」
黒田が、影山晴樹の前に跪いたと知った時、明里の心は、激しく揺れた。
「義信さん……そんなことを……あなたは、そんなことをする必要はないわ」
彼女は、黒田が自分のために、プライドも、極道の矜持も捨てたことに、深い痛みと、そして、抗い難い罪悪感を覚えた。彼を、こんなにも苦しめているのは、自分なのだ、と。
だが、同時に、彼女の心の奥底には、“生きたい”という、あまりにも純粋な、切なる願いが燃え盛っていた。黒田の愛に応えたい。彼と共に、この先も生きていきたい。
影山晴樹の拒絶。
「極道に、天照之雫を渡すわけにはいかぬ。影山の名を汚すことは許されぬ。“純粋”なものに、“闇”を混ぜるわけにはいかんのだ。」
その言葉は、明里の心を、深く、深く凍らせた。
“純粋”? それが、一人の命より重いのか?
明里は、影山家の“純粋”という名の、あまりにも冷酷な偽善に、絶望した。
病室の窓から見える、夜明け前の空。明里の生命の灯火は、もう、か細く揺らぐばかりだった。
黒田が、彼女の手を握り締め、涙を流している。彼の、血に塗れた掌の温もりが、明里の冷え切った指先に、じんわりと染み渡る。
「義信さん……私、あなたと、もっと……もっと生きて、幸せに……なりたかった……」
彼女の、か細く、しかし切なる声が、黒田の耳に、永遠の呪いのように響き続けることを、明里は知らなかった。
明里の息が絶えた瞬間、彼女の心は、“義信さんを、独りにしてしまう”という、深い悲しみと、そして、“彼を、闇へと、突き落としてしまうかもしれない”という、あまりにも重い後悔に包まれた。
第三章:残された光 ― 彼岸花と永劫の祈り
明里の葬儀の日。空は、彼女の心のように冷たい雨を降らせていた。
黒田義信は、もはや、そこに“人間”としては存在しなかった。彼の瞳は、絶望と憎悪に燃え盛り、その姿は、まるで**“闇の王”が覚醒したかのように、恐ろしいものへと変貌していた。
明里は知っていた。自分の死が、黒田を、“人間”ではない、何かへと変えてしまうことを。
明里の魂は、彼岸花となった。
彼岸花は、死者の魂を導く花。だが、明里の魂は、愛する夫が、憎しみと復讐の道へと、深く深く堕ちていくことを、上空から、ただ、見守るしかなかった。
(義信さん……あなたは、間違っているわ……! その道は、あなたを、真の幸福から、遠ざけるだけ……!)
彼女の願いは、夫の幸福だった。だが、彼の選んだ道は、彼女が望まぬ、血と憎しみの道。
月日は流れた。二十数年。
明里の魂は、影山家という因習の闇、竜崎組という変革の闇、そして、黒田義信の狂気じみた闇の狭間で、彷徨い続けた。
そして、影山菖蒲。
明里は、その娘の中に、自分と同じ、純粋な“光”を見た。だが、その瞳の奥には、黒田と同じ、憎悪の“影”が宿っていることも、知っていた。
(菖蒲……あなたまで、同じ道へと……!)
最終決戦の夜。
廃工場での激しい戦いの中、明里の魂は、黒田義信の心の叫びを聞いた。
「明里……俺は……俺は……っ、間違っていたのか……!」
夫の、あまりにも人間的な、崩壊した嗚咽。その声に、明里の魂は、深い、深い悲しみで震えた。
そして、菖蒲の言葉。
「あなたの憎しみも、私の復讐も、今、ここで、完全に終わるの」
明里は、菖蒲の中に、“過去を終わらせる光”を見た。
夜明けの光が、廃工場に差し込んだ。
黒田義信は、倒れていた。その姿は、憎しみの炎が燃え尽きた後の、虚ろな灰のようだった。
明里の魂は、ようやく、彼の魂が、憎しみから解放されたことを感じ取った。
(義信さん……もう、苦しまないで……)
そして、菖蒲と健。
二人が、肩を並べ、新しい時代を、共に切り拓こうとしている姿を見た時、明里の魂は、希望に満たされた。
(菖蒲……あなたなら、きっと、この世界を、真の“光”で満たせる。あなたなら、私が見た、あの“偽善の光”を、真の“慈愛の光”へと変えられる。)
明里の魂は、彼岸花となった。
夜明けの光を受けて、廃工場の外に咲き誇る、血のような赤ではない、再生の赤。
それは、明里の魂が、夫の罪と、影山の因習からの解放を、そして、娘の未来を祝福する、最後の祈りだった。
明里の魂は、ようやく安息を得た。
彼女の愛は、闇の中で歪んだが、その根源は、あくまで純粋だった。
そして、その純粋な光は、娘・影山菖蒲という“暁”の中で、永遠に咲き続ける、希望の彼岸花となるだろう。
この世の、血塗られた因果を、真の“光”へと導くために。




