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十九歳に戻った令嬢は、極道の男と共に愛と復讐の道を歩む  作者: 朧月 華


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第12話 彼岸花、暁に咲く

### 第一幕:知略の戦い、そして覚悟の果て


 深夜の東京湾岸は、潮風に錆びた鉄の匂いが混じり、暗闇に沈んだ廃工場群の輪郭が、遠くの都市の灯の中に、まるで巨大な怪物の影のように不気味に滲んでいた。その、不気味なほどの静寂を切り裂くように、影山菖蒲は、車内のノートPCに映る画面を凝視していた。その瞳には、一点の迷いも、そして一切の怯えもない。

 傍らでは竹内恭司が、冷徹なまでに冷静にキーボードを叩き続け、通信回線のランプが青白く、しかし確実に、まるで未来への導きのように点滅している。


「送信、完了いたしました。……今夜の一斉配信で、黒田の裏帳簿も、海外資産の隠し先も、そのすべてが、完全に、世の白日の下に、容赦なく晒されます。」

 恭司の声は淡々としていたが、その奥には、彼自身も抑えきれないほどの、熱い昂ぶりが滲んでいた。それは、長年抱いてきた忠誠心と、主への信頼の証だった。


 菖蒲は小さく、しかし確かな頷きを返した。

 「祖父が、その命を賭して、そして過去の罪を贖うために残した文書……その重みを、今こそ、この世界に、そして黒田という闇に、突きつけるときが来たのね。」


 そこへ、無線から、低い、しかし力強い声が響いた。

 「こっちは終わった。黒田の口座はすべて凍結。海外への逃げ道も、完璧に、寸分の隙もなく封鎖済みだ。」

 竜崎健の声だった。短い言葉の奥に、一片の迷いも、そして一切の容赦もない、冷徹なプロフェッショナルの意志が宿っている。それは、彼自身の過去への、決別を告げる、静かなる宣戦布告だった。


 健は組の人脈を総動員し、黒田の資金源を、瞬時に、そして徹底的に断ち切っていた。裏社会の銀行ルートも、密輸の足も、彼が築き上げてきたすべてが、もう完全に封じ込められている。


「これで奴は、完全に、逃げ場のない孤立状態に追い込まれる。」健が続ける。その声は、まるで追い詰めた獲物を見下ろすかのように冷たい。「残るのは、奴自身の、剥き出しの狂気と、そして、断末魔の悪あがきだけだ。」


 菖蒲は深く息を吐き、窓の外を見やった。夜の海に浮かぶ月光が、揺らめく水面に、まるで砕け散るガラスのように、儚くも美しい輝きを放っている。その光は、彼女の胸に去来する、最後の不安と、そして揺るぎない、血塗られた決意を映すかのようだった。

 「……準備は、すべて整った。後は、私たち、この避けられぬ因縁を背負った者たちが、直接向き合う番。」


 恭司は一瞬だけ視線を上げた。その眼差しには、幼馴染への深く、揺るぎない信頼と、しかし、戦場へ向かう姉を案じる、言葉にならない、切なる心配が、複雑に交錯していた。

 「姉さん、本当に行くのか。……危険すぎます。俺が、俺が代わりに行くべきだ……! あなたまで失うわけにはいかない……!」


 菖蒲は、彼のその忠誠心と、兄にも似た深い愛情に、わずかな痛みを覚えながらも、静かに、しかし、鋼のような決意に満ちた微笑みを浮かべた。だがその笑みは、どこか悲壮なまでに儚い。

 「ここで、もし私が逃げたら、きっと私は一生、過去という名の、血塗られた因習に囚われたまま。母や祖父の因縁も、私の復讐も、何も終わらない。健と共に……この、血塗られた因縁を、私自身のこの手で、今、この場で、完全に終わらせるの。」


 無線越しに、重い沈黙が落ちる。恭司の荒い呼吸だけが、切なく聞こえる。

 やがて健が、まるでその沈黙を打ち破るかのように、低く、しかし、魂を揺さぶるような、深い情熱を秘めた声で答えた。

 「なら、俺が、お前の、揺るぎない隣に立つ。それだけだ。どこまでも、共に。命の限り。」


 その言葉が、暗闇の中に、確かな、そして決して消えることのない、希望の灯火をともしたように、強く、深く、響いた。

 廃工場の影で、黒田義信が、牙を研いで、狂気と共に、己の破滅の時を待ち構えていることを知りながら、彼らは、もう一切の迷いもなく、運命の場所へと、静かに、しかし力強く歩みを進めるのだった。


### 第二幕:心理戦 ― 廃工場での対峙


 廃工場の内部は、崩れた梁と、割れた窓ガラスの隙間から、まるで死者の魂を照らすかのように、月光が差し込み、冷たい銀の光で満たされていた。広い空間に漂う鉄錆と油の匂いが、時間の流れを止めたかのような、張り詰めた、そして不気味な静けさを孕んでいる。


 その、空間の中心に、黒田義信は、まるで闇に巣食う、巨大な獣のように、静かに佇んでいた。

 かつて政財界を裏で自在に操った男の面影は、もはや微塵も残っていない。荒れ狂った眼光と、やつれ、しかし歪んだ執念を宿した顔。だが、その存在感だけは、以前にも増して異様なほどに濃く、腐敗した闇そのものを象徴するようだった。


「来たか……影山、菖蒲。」

 低く、しかし明確な殺意を隠さぬ嗄れた声が、虚ろな空間を、深く、不気味に震わせた。その声には、彼女への憎悪と、そして、彼自身の破滅への、狂気じみた愉悦が入り混じっていた。


 菖蒲は、黒田から数歩手前で足を止め、真正面から、その狂気に満ちた瞳を見据えた。その眼差しには、微塵の恐怖もなく、ただ、冷ややかな、そして揺るぎない決意が宿っている。

 「黒田義信。あなたの、すべてを奪い尽くすための、その時代は、もう、今ここで、完全に終わった。」


 菖蒲の背後で竜崎健が、無言のまま、しかし確固たる存在感をもって立ち、彼女を護るように、自然に一歩前に出る。その、絶対的な圧は、重く、黒田の放つ、腐敗した威圧をも、容易く跳ね返す。まるで、漆黒の盾のように。


 黒田は、乾いた、しかし悪意に満ちた笑いを漏らした。

 「終わりだと? はは、笑わせるな! 終わるのは、お前だ、小娘が! 俺からすべてを奪い、俺の人生を狂わせた影山の血族が、今さら何を、正義面して、この俺の前に、現れやがったッ!」


 その怒声にも、菖蒲は微塵も動じない。彼女の瞳は、まるで氷のように澄んでいる。

 「奪ったのは、私たち、影山家ではない。あなた自身よ。……あなたの妻、明里を、あなたは『護れなかった』。その責任を影山家に押し付け、憎しみだけを心の糧に、今日まで生き延びてきた。」


 黒田の肩が、微かに、しかし激しく震えた。それは、怒りとも、悔しさともつかぬ、複雑な感情の揺れ。それは、彼の心の奥深くに、長く封印されてきた、真実の痛みを、容赦なく突き崩す兆しだった。


 「違う……! 俺は被害者だ! 明里を殺したのは、影山だッ!」

 「いいえ」菖蒲の声は、鋭くも、しかし静かで、一切の感情を排していた。「真実を、あなたは心の奥底で知っているはず。あの日、明里を追い詰めたのは、あなたの、行き過ぎた猜疑と、支配欲だった。彼女は影山を選んだのではない、あなたという“歪んだ檻”から逃れ、自由を選んだの。あなたの傍にいれば、その自由は永遠に奪われると、悟ってしまったから」


 黒田の瞳が、大きく、そして見開かれた。その奥には、かつての、弱く、そして真実から逃げた男の、深い弱さと、根源的な恐怖が垣間見えた。

 「……やめろ……もう、それ以上、言うな……! 聞きたくない……!」

 「だから、あなたは彼女を失った。影山の手ではなく、あなた自身の手で、あの明里の、魂を、殺したのよ。」


 静寂。

 工場の屋根を打つ、冷たい風の音だけが、虚ろに響き渡る。その音は、まるで黒田の心の奥底に、ゆっくりと、しかし容赦なく染み渡る真実の痛みを、象徴しているかのようだった。


 やがて、黒田の唇から、絞り出すような、深く、苦しい嗚咽が漏れた。

 「明里……俺は……俺は……っ、間違っていたのか……! こんなにも、俺は……!」


 その、憎むべき男の、あまりにも人間的な、崩壊した背を見据えながら、菖蒲は、胸の奥で、激しく波打つ自らの震えを、必死に押さえ込んだ。彼女の言葉は、黒田という巨悪を追い詰め、その心の核を粉砕すると同時に、彼女自身を長年縛ってきた、過去という名の、血塗られた因習の鎖をも、今、この場で、完全に解き放っていく。


 健はただ、傍らで黙して立ち、菖蒲の言葉を、そして彼女の心を支える、揺るぎない、漆黒の壁となった。彼の眼差しは、相手を屈服させるためではない。菖蒲が選んだ、このあまりにも過酷な道を、最後まで、自らの命を賭して支えるための、深い、そして絶対的な強さに満ちていた。


 黒田の膝が、ギシ、と不気味な音を立てる。

 その、狂気に支配されていた巨体が、心の崩壊と共に大きく揺らぐと同時に、場の空気は、張り詰めた糸のように、キィと軋んだ。


 次の瞬間——男の、絶望と怒り、そして狂気に満ちた、最後の咆哮が、廃工場の闇を、まるで切り裂くかのように、轟音と共に炸裂した。


### 第三幕:肉弾戦 ― 血塗られた決着


 黒田義信の、魂を揺さぶるような咆哮が、廃工場の鉄骨を、激しく、不気味に震わせた。その声は、心の底から湧き上がる絶望と狂気の叫びだった。

 その身体は、まるで巨岩が猛り狂ったかのように、常軌を逸した動きで起動し、足元に転がっていた錆びついた鉄パイプを、狂気じみた力で掴み取ると、影山菖蒲めがけて、容赦なく、そして明確な殺意をもって、死神の鎌のように振り下ろした。


 ゴオンッ! と鈍い轟音と共に、激しい火花が、闇を切り裂くように散る。その火花は、まるで血の予兆のようだった。

 竜崎健は、すかさず、しかし流れるような、一切の無駄のない動作で身を翻し、その鉄パイプを、自らの腕で受け止め、ミシミシと骨の軋む音を響かせながら、鋭い回し蹴りで黒田の巨体を後方へ、勢いよく弾き飛ばした。


「菖蒲、下がれ! 危険だッ!」


 健の、普段からは想像もつかぬような、荒々しい、しかし深く、菖蒲を案じる、魂を震わせる声が響く。だが菖蒲は、一歩も、微塵も退かない。

 彼女の瞳は、狂気に満ちた黒田を、まるで真実の核を射抜くかのように見据え、その姿を、決して逸らさなかった。——これは、私自身の、そして母の、そして祖父の、全ての因縁を終わらせる、最後の戦い。


 黒田は血走った眼で健を睨みつけ、唇から唸り声を漏らす。その目は、すでに理性を完全に失っていた。

 「竜崎……ッ! 貴様も、影山の犬か! 俺から、すべてを、明里さえも、またしても奪いに来たのかッ! 許さねえぞ、俺は、何もかも奪われたんだッ!」


 健は答えず、まるで獲物を仕留めるかのように、鋭い拳を黒田の腹に、深く、深く叩き込んだ。ドスッ、と鈍い、しかし重い音が響くと共に、黒田の巨体がぐらりと揺れ、膝を折る——が、なおも、狂った妄執だけで、泥の中から、血に塗れた獣のように這い上がるかのように、再び立ち上がる。

 錆びた梁に拳を叩きつけ、鉄片を散らしながら、黒田は、まるで理性を失った凶暴な獣のように、再び健めがけて、命を奪うかのように突進した。


 激しい衝突。二人の巨躯がぶつかり合い、工場全体が、まるで地震のように揺れるような轟音が響く。

 殴打の音。骨の軋み。そして、荒い、生々しい呼吸。

 健の拳は、まるで精密機械のように正確無比で、黒田の体力を確実に、しかし容赦なく削っていった。だが黒田は倒れぬ。彼を支えているのは、もはや理性でも、計算でもない。明里への、そして影山への、歪んだ、そして血塗られた妄執という名の、業火のような炎だった。


 やがて、黒田は、腰の奥深くから隠し持っていた、一本の刃を抜いた。

 月光を反射して、ギラリ、と、その刃が凶悪な光を放つ。それは、死神の鎌のように、菖蒲の心臓を、一瞬、直撃した。


 菖蒲の胸が、完全に凍り付く。

 「健ッ!」


 振り下ろされる凶刃。健は、咄嗟に腕で受け止めたが、その白いシャツの袖が深々と裂傷を負い、鮮血が、夜の闇に、まるで彼岸花のように、鮮やかな飛沫を描いた。

 その瞬間、菖蒲の身体が、まるで過去の鎖を断ち切るかのように、反射的に、しかし自らの意志で、猛然と、獣のように動いた。


 ——もう、誰も、私の前から、私の大切なものを、二度と、奪わせない。

 ——この、血塗られた因縁は、私のこの手で、今、この場で、完全に、永遠に終わらせる。


 彼女は、足元に落ちていた、鋭利な鉄片を、まるで自らの憎しみを宿すかのように掴み取り、その鉄片を、狂気に支配された黒田の背へと、憎しみと、そして悲しみを込めて、深く、深く、突き立てた。


 刹那、黒田の、まるで時が止まったかのような動きが止まった。

 驚愕と、耐え難い痛みが入り混じった呻き声が、喉から、苦しく漏れる。

 彼の手から刃がこぼれ、カラン、と、鈍い音を立てて床に落ちる。その音は、まるで彼の人生の終焉を告げる、最後の鐘のようだった。


「黒田義信……」

 菖蒲の声は、微かに震えていた。だがそこには、憎しみを乗り越えた、揺るぎない、そして新たなる覚悟に満ちた力が宿っていた。

 「あなたの憎しみも、私の復讐も、今、ここで、完全に、終わるの。」


 黒田は、血に濡れた唇を震わせ、まるで、最後の力を振り絞るかのように、菖蒲を、その瞳の奥深くまで見つめた。

 その瞳に浮かんだのは、怒りか、悔恨か、あるいは、長く背負ってきた憎しみからの、一瞬の、解放か、安堵か。

 答えを残さぬまま、彼の巨体は、まるで、張り詰めていた糸が切れたかのように、音もなく崩れ落ちた。


 静寂。

 廃工場を吹き抜ける冷たい風の音だけが、すべてを呑み込むように、虚しく鳴った。それは、一つの時代が、終わった音だった。


 菖蒲は震える手で鉄片を手放し、その場に膝をついた。彼女の身体は、疲労と、そして解放感で、大きく、しかし穏やかに揺れている。

 健が、その傷口から血を流しながらも、すぐに彼女の傍らに歩み寄り、その肩を支え、低く、しかし、深い安堵と、そして温かい愛情を込めて囁く。

 「……やったな、菖蒲。俺たち……本当に、生き延びたな。」


 涙が、滲み、視界が揺れる。だがその涙は、悲しみだけのものではなかった。

 それは、長きに渡る苦しみからの解放、そして、新たな未来への、希望の、温かい雫だった。

 彼女は、ようやく、過去という名の、重く、血塗られた鎖を、完全に断ち切ったのだ。


### 第四幕:影山晴樹の最期 ― 暁に溶ける罪と贖罪


 その夜が明ける頃――影山家の離れは、いつになく、深く、そして厳かな静寂に包まれていた。まるで、一つの時代が、静かに幕を閉じようとしているかのように。

 庭の池を渡る冷たい風が障子をかすかに揺らし、遠くで虫の声が、まるで彼の最期を惜しむかのように、細く、はかなく響く。


 影山晴樹は、書斎の机に向かっていた。

 枯れ木のように痩せ細った手で筆を握り、最後の文字を一文字ずつ、自らの魂を刻み込むように、ゆっくりと、しかし確かな力で書き入れていく。その姿は、まるで過去の罪を、文字に託して浄化しているかのようだった。


 ――菖蒲へ。


 墨痕はかすれていたが、その筆致には、揺るぎない、確かな力が、そして深い愛情が宿っていた。それは、彼が最後に孫娘に伝えたかった、魂からの言葉だった。

 「黒田明里を守れなかったこと、影山家という、形骸化した家名に執着し過ぎたこと……そのすべてが、この老いぼれの、愚かで、取り返しのつかない過ちだった。」

 「お前を縛り、苦しめてきた、その血塗られた鎖を、私の、この代で、今こそ断ち切ろう。」

 「影山家の未来は、もう、お前、影山菖蒲に託す。古い血のしきたりなど、すべて捨ててしまえ。己の信じる、真の光の道を進め。」


 最後の一筆を置くと、晴樹は深い呼吸をひとつ、静かに吐き出し、筆を手から滑らせた。机の上には、二通の封筒が、まるで彼の人生の証のように、整然と、しかし重々しく並んでいる。

 一つは、新しき影山の当主となる孫娘へ。謝罪と、そして、未来を託す託宣の手紙。もう一つは、竜崎健という、若き王への、未来を共に切り拓く者へのメッセージ。そして、自らの罪の告白を記した遺書。


 彼は、ゆっくりと茶室へと移り、静かに、しかし、長年の重荷から完全に解放されたかのように、安堵の表情で正座した。障子越しに差し込む、夜明け前の、淡い月光が、彼の老いた顔を、神聖なほどに淡く照らす。

 かつて数多の権謀を操り、裏で手を汚した鋭さは、もう完全に消え去り、ただ、穏やかな、そして深い安らぎと、慈愛に満ちた微笑だけが、そこに浮かんでいた。


「明里……わしは、ようやく、間違いを、認められたよ。」

 その、誰に届くでもない囁きは、夜明け前の闇に、静かに、しかし確実に溶けていった。それは、過去の罪が、暁の光に包まれ、浄化されていく音だった。


 目を閉じる。

 胸の奥で、何十年も続いた苦悩の炎が、すうっと、まるで雪が溶けるように、完全に消えていく。

 最後に、彼の脳裏に鮮明に浮かんだのは、幼き日の、無邪気で、そして輝かしい、影山菖蒲の、あの笑顔だった。


 ――お前は、わしの、そして影山家の、真の誇りだ。


 静かに、影山晴樹は息を引き取った。

 その表情は、長い、あまりにも長い、過去の罪への贖罪の旅を終え、ようやく安息を得た者だけが持つ、深く、そして、永遠の安らぎに満ちていた。それは、彼岸花が咲く、暁の光に包まれた、静かなる終焉だった。

### 第五幕:エピローグ ― 彼岸花、暁に咲く新生


 夜明けの光が、廃工場の割れた天窓から、まるで世界の始まりを告げるかのように、静かに、しかし力強く差し込んでいた。

 血と鉄錆の臭いに満ちた、あの凄惨な空間に、柔らかな朝日だけが、異様にも清らかに、しかし優しく降り注いでいる。それは、まるで過去の罪を洗い流し、新たな命を吹き込む、神聖な光のようだった。


 菖蒲は膝をつき、荒い息を吐きながら、血溜まりの中に、もはや動かぬ黒田義信を、その瞳の奥深くまで見下ろしていた。

 彼女の手は、まだ微かに震えていた。だが、胸の奥に、長年、重く、深く絡みついていた、過去という名の、血塗られた因習の鎖が、今、この場で、完全に、そして永遠に解け落ちたのを感じていた。それは、魂からの解放であり、真の自由だった。


 隣では健が、その傷口から血を流しながらも、それでも揺るぎない足取りで立っている。額にはまだ血が滲み、息も荒い。

 だが彼は、その深い瞳で、菖蒲に、穏やかな、そして深い理解と、未来への確かな希望を宿した眼差しを向け、ぽつりと呟いた。


「……生き延びたな、俺たち。本当に、しぶとい命だ。だが、それもまた、俺たちなりの“強さ”だ。」


 菖蒲は思わず、フッと、乾いた、しかし心の底から湧き上がるような笑みをこぼす。それは、恐怖や悲しみだけではない、長きに渡る苦難からの解放と、そして、新たな始まりへの、希望に満ちた、温かい涙混じりの、しかし確かな笑みだった。

 「ええ。もう、過去には、二度と、誰にも、そして何にも、縛られない。」


 その瞬間、二人の間に、言葉や理屈を遥かに超えた、魂レベルの、深く、そして絶対的なものが流れた。

 それは復讐でも、因縁でもない。ただ、互いの命を賭し、互いの魂を支え、共に未来を生きるための、唯一無二の、揺るぎない絆。それは、新たな時代を、共に切り拓く、運命の誓約だった。


 ――その頃。

 影山家の離れでは、夜を徹して燃え続けていた灯が、まるでその役目を終えたかのように、静かに、しかし完全に消えようとしていた。

 晴樹の亡骸の傍らには、二通の封筒が、まるで彼らの未来を指し示すかのように、整然と、しかし重々しく並んでいる。

 一つは、影山菖蒲、新しき影山の当主へ。その手紙には、過去の罪への懺悔と、未来への希望、そして娘への深い愛情が込められているだろう。もう一つは、竜崎健、未来を共に切り拓く、若き王へ。そこには、隠された真実と、新たな時代への託宣が記されているに違いない。


 やがてその手紙が二人のもとへ届き、彼らの、血と苦難の先に拓かれた、新しい道を、明るく、そして強く照らすことになるのだろう。それは、古き因習からの解放と、真の自由への導きとなるはずだ。


 廃工場の外に出ると、彼岸花が、夜露に濡れ、暁の、希望の光を受けて、まるで再生の炎のように、美しく、そして猛々しく咲き誇っていた。

 それは、血を思わせる、怨念の赤ではない。過去の罪を焼き尽くし、未来を告げる、真なる再生の赤。


 菖蒲は立ち止まり、その、燃えるような彼岸花を、瞳の奥深くまで見つめる。その瞳には、もう過去の影は宿っていない。

 「……お父様、明里さん、お祖父様……すべては、今、この、暁の光の中で、本当に、終わったわ。」


 健が、その隣に静かに立ち、肩を並べる。彼のその存在は、何よりも、彼女の心を支える。

 そして彼は、珍しく、しかし深く、温かく、そして未来への確かな意志を秘めた声で続けた。

 「いや――これで、ようやく、俺たちの、本当の物語が、始まるんだ。」


 二人は互いに目を合わせ、言葉なく、しかし魂の奥底で、固く、そして永遠の誓いを交わすかのように、深く頷いた。

 暁の、希望の光が彼らを包み込み、影山家の長く、そして血塗られた宿命は、ここで終わりを告げ、二人の、そして新しい世界の物語が、静かに、しかし、力強く、今、この場所で、確かな幕を開けた。



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