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第1話 桜、散りゆく日に

 ――冷たい。

 骨の髄まで、いや、魂の核まで凍えるような飢えと寒さが、最後にこの私を、容赦なく飲み込んだ。

 指先は感覚がなく痺れて、胃の奥はえぐられるみたいに空っぽ。目の前の真っ暗闇には、何の希望も、救いもなかった。乾き切った唇から漏れたのは、助けを求める言葉なんかじゃない。ただ自分自身を呪うような、情けない、獣じみた嗚咽だけ。

 誰も来ない。誰も、私に、汚れたこの手に、手を差し伸べてはくれなかった。そうして私は――信じられない裏切りの果てに、文字通り、みっともなく、独り、餓死したのだ。


 ……はず、だったんだけど。


 瞼を開けた瞬間、視界に飛び込んできたのは、あまりにも柔らかい色彩。

 艶やかなシルクの天蓋が、朝の光をふんわりと透かしている。ふわりと漂うのは、沈香の甘くてうっとりするような香り。耳には、障子越しに響く、のどかな鶯の声。

 胸を圧迫していた、あの飢餓の苦痛も、凍え死にそうだった、あの冷たさも、今はどこにもない。

 私の頬を撫でているのは、滑らかな布団の温もり――そう、これって影山家の、令嬢として与えられた、何一つ不自由ない、“虚飾”に満ちた寝具じゃないか。


 「……夢……じゃないの……?」


 掠れた声が、自分の喉からこぼれた。まだ震えは止まらない。手を伸ばせば、白磁みたいにつるんとした肌が視界に入る。爪の間には黒ずんだ汚れも、飢えでひび割れた血も、何一つ残ってない。


 私はごくりと息を飲んで、ゆっくりと、震える体で上体を起こした。

 窓辺から射し込む朝の光は、眩しすぎて目を細めてしまうほど。季節は春真っ盛り――庭の桜は、まさに散り際の花吹雪を、惜しげもなく舞わせている。


 「ここは……影山の屋敷……」


 呟きながら、胸の鼓動がドクドクと荒くなる。確かに見覚えのある寝室だ。十九歳の頃、私がまだ「財閥の娘」なんていう、甘く、しかし残酷な“虚飾の檻”に閉じ込められていた、あの時代。


 信じられない気持ちで、鏡台の前へふらふらと歩み寄る。

 鏡に映ったのは、頬にまだ張りの残る、若い、あの頃の私自身の姿。

 艶やかな黒髪、まだ世の中のドロドロした汚濁なんて知りません、と言いたげな面差し。だけど、その瞳の奥にだけは、前世で培われた、煮えたぎるような憎悪と、底知れぬ絶望の影が、はっきりと、しかし冷たく潜んでいた。


 私は震える指で喉元に触れた。

 前世で、あの裏切りの果てに深く刻まれた傷跡――血に濡れて、激痛と共に私の命を奪った、あの忌まわしい印は……どこにもない。

 滑らかな肌の感触に、吐き気がするほどの安堵と、背筋を這い上がるような、魂の戦慄が同時に襲いかかった。


 ――これ、本当に、本当に「やり直し」なんだ。


 震える指を鏡台に置き、必死に呼吸を整える。

 机に置かれたスマートフォンに目を走らせると、画面には「4月10日」の数字。

 ――あの日から、たった三ヶ月前。

 離婚協議書に判を押して、何もかもを失う、その、絶望の直前の時間。


 胸の奥に、熱い、まるで溶岩のようなものが込み上げてきて、思わず奥歯をぎゅっと噛み締める。

 喉の奥で鳴るのは嗚咽なんかじゃない。純粋な、煮えたぎるような、怨嗟の怒りだ。

 そしてその怒りは、私を前へと突き動かす、燃え盛る炎へと、確実に変わっていく。


 コンコン、と扉を叩く軽やかな音に、私はハッと現実へと引き戻された。


「お嬢様、朝食をお持ちしました」


 若いメイドの、何の悪意もなさそうな、しかしどこか甘ったるい声。私が何か言う前に、スッと扉が開いて、銀のトレイに乗った湯気の立つお粥が運ばれてくる。

 白い器からふわりと甘い匂い。前の私なら、何も考えずに、何の疑いもなくそれを口にしてたんだろうな。その甘さで、空っぽの胃も心も、虚しく誤魔化してた。

 でも、もう違う。私は、あの頃の、愚かな自分には、もう戻らない。


 私は背筋をピンと伸ばして、努めて優しく、でも一切揺るがない、氷のような声で言い放った。


「……結構よ。今日は、食欲、ないから」


 メイドは、目をパチクリさせて固まった。そりゃそうだ。このお粥を断るなんて、今までの私じゃ考えられないことだったんだから。その顔には、驚きと、そして微かな不満が浮かんでいるのが見て取れた。

 一瞬の沈黙が、やけに長く感じられた。だけどすぐに「かしこまりました」と、彼女は深々と頭を下げて、音もなく部屋を出ていく。

 ドアが、カチャリと静かに閉まる。その音を聞いた途端、胸の奥にじんわりと、奇妙な、しかし確かな高揚感が広がった。


 ――これでいい。小さな一歩だけど。だけどこれは間違いなく、前の私とは違う。新たな私への、確かな一歩。


 私はゆっくりと立ち上がり、窓辺へ歩み寄った。

 庭には影山家が誇る広大な日本庭園が広がり、池の面には桜の花びらが、まるで雪のように、惜しげもなく浮かんでいる。朝日を浴びてキラキラと輝くその光景は、ただ美しいだけじゃなくて、どこか儚さを孕んでいた。


 散りゆく桜。

 それは、まさに私の前世そのものだ。虚栄と欺瞞に包まれ、花開くこともなく、ただ風に吹かれて無惨に散っていった。

 だけど――今度は違う。


 「私は……もう、あの頃の、愚かで、そして無力だった菖蒲じゃない。」


 唇からこぼれた言葉は、春の空気へと溶けて消えていく。

 胸の奥を渦巻く怒りは、やがて冷たい静けさへと、しかし、より研ぎ澄まされた決意へと変わっていった。

 復讐の炎を宿したまま、それでも表には、完璧な優雅さを纏った令嬢の仮面を被る。そうして初めて、あいつらと対等に、いや、上から叩き潰すように渡り合えるんだ。


 鏡に映った若い自分の瞳を思い出す。そこに潜んでいた、あの深い影を、私はもう隠すことなく、自らの“牙”として抱きしめた。

 ――復讐者として。

 ――そして、何がなんでも、生き延びる者として。


 指先が窓硝子に触れる。冷ややかな感触が、私の決意を、さらに確かなものへと固めていく。


 「今回は……私が、あんたたちの悪夢になってやる。覚悟なさい。」


 低く呟いた、その瞬間。背後から、扉越しに父の声が響いた。


「菖蒲、今夜は家族で夕食だ。豊さんと玲奈も来る」


 一瞬、時間が止まったように感じた。

 藤原豊――あの偽りの「完璧な婿候補」。そして玲奈――あの笑顔の裏に、鋭い刃を隠した、悪意に満ちた女。

 前世で私を地獄へ突き落とした、あの化け物たちの名が、何気ない口調で告げられる。


 私は静かに目を閉じ、そして、再び開けた。

 瞳の奥に、冷たい、しかし燃え盛るような光が宿るのを、自分でもはっきりと感じた。


 「……楽しみにしていますわ、お父様」


 声には微笑を滲ませながらも、その心には、氷の刃を隠し、そして、炎を燃やし、私は散りゆく桜を見下ろした。

 これが――新たな、血塗られた物語の、静かなる幕開けだった。


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