元魔王軍参謀ザカリアスの事件簿
山間の小さな村に、一人の男が現れた。
黒いローブに身を包み、フードの奥で赤い瞳が鈍く光る。青白い肌は陽の光を知らぬ者のようで、村人たちは道の端に避けながら、怯えたような視線を向けていた。
「探偵を呼んだのはこの村で間違いないか?」
男——ザカリアスは、懐から依頼書を取り出して確認する。その仕草は妙に几帳面で、恐ろしげな外見とのギャップが奇妙だった。
「お、おい!危ない!」
ザカリアスが顔を上げると、村の中央にある古井戸の縁で、一人の子供が危なっかしく遊んでいた。バランスを崩し、今にも井戸に落ちそうになる。
「愚かな人間の幼体め——」
ザカリアスは素早く駆け寄ると、落ちかけた子供の襟首を掴んで引き上げた。
「——危険だぞ、小僧」
「わっ!」
子供は地面にぺたんと座り込み、きょとんとした顔でザカリアスを見上げた。栗色の髪に、好奇心に満ちた大きな瞳。手の平には新しい擦り傷、膝には治りかけのかさぶた。活発な子供特有の勲章だ。
「ありがとう、黒いおじさん!」
「お、おじさん……?」
ザカリアスが困惑していると、慌てた様子の初老の男が駆け寄ってきた。右手の薬指に古い指輪の跡、額には農作業による日焼けの線がくっきりと刻まれている。
「リオ!何度言ったら分かるんだ、井戸で遊ぶなと……申し訳ない、この子は私の孫でして」
村長と名乗った男は、ザカリアスの姿を見て一瞬たじろいだが、すぐに気を取り直した。
「もしや、ザカリアス様ですか?」
「いかにも」
「町の仲介人が『たんてい』と呼んでいましたが……失礼ながら、占い師や祈祷師の類とは違うので?」
ザカリアスは顔をわずかにしかめた。
彼が探偵を名乗って以来、田舎ではこのように変なものを見る扱いをされることは慣れっこだった。
「違う。証拠と推理で真実を明らかにする仕事だ」
村長が半信半疑の表情を浮かべる。
「は、はあ……よく分かりませんが、とにかく井戸の件をお願いできれば構いません。ちょうどこちらの井戸が――」
話している最中、ザカリアスは視線を感じた。少し離れた場所に、農具を手にした若い男が立っている。左手の握り方に微妙な歪みがある。古い怪我を庇っているのだろう。目つきは鋭く、警戒心に満ちている。
「また余所者か……」
男の呟きが風に乗って聞こえた。
「トーマス、こちらはザカリアス様。町から来てくださった『たんてい』さんだ」
「分かってる。祈祷師連中じゃ太刀打ちできねえってんで藁にもすがってんだろ」
トーマスと呼ばれた男は、ザカリアスを一瞥すると、鼻を鳴らし、少し遠くの木にもたれて、憑かず離れずの場所にいた。
村長が苦笑いを浮かべる。
「すみません、あれは自警団長でして。最近盗賊が増えてきたもので、外の者には警戒心が強くて」
「構わん。で、井戸がどうしたと?」
「ここ最近、水が赤く濁り始めまして」
ザカリアスは井戸に近づいた。石組みは古く、少なくとも百年は経っている。縁は長年の使用で滑らかに磨かれ、特に一箇所、妙につるつるした部分がある。縄を引く時の定位置だろうか。
「……とにかく、調べていただけますか?この井戸は村の命綱なんです」
ザカリアスは井戸を見下ろした。確かに水面がうっすらと赤みを帯びている。
微かに、本当に微かに、懐かしい魔力の残滓を感じた。
「分かった。調査を引き受けよう。少なくとも、ただ祈るだけの連中よりは核心に近づけるだろう」
ザカリアスは井戸の縁に手をかけ、じっと水面を観察した。
赤い反射光がよく見える。しかし血の匂いはしない。むしろ、奇妙に清潔な気配がする。
「ふむ……」
縄に結んだ桶を降ろし、水を汲み上げる。陽の光に透かすと、確かに赤い。だが、毒物の反応はない。
「これを飲んでいた時期もあったのか?」
「一週間前まではきれいなものでしたから」と村長が答える。「徐々に濃くなってきて、さすがに怖くなって……」
ザカリアスは指先に水を掬い、舐めてみた。村人たちが息を呑む。
「よ、よく口に入れられますね……」
村長が青い顔で呟く。
――魔界の水は赤かったからな。
ザカリアスは内心で思いつつ、素っ気なく答える。
「探偵は毒に慣れているからな。……鉄分が多いか。特別危険な毒は含まれていないが、摂取し続けると少々よろしくはないかもしれんな」
「汚れている、ということでしょうか」
――魔界の人間からすると、懐かしい気配もあった。
魔界の水は魔族にはそこまで影響はないが、人間には多量摂取させると毒になる。魔素と呼ばれる成分のせいであり、鉄分ともよく結合するため鉄の味がする、という報告も多い。
しかし要因は確たるものもなく、また、無用に魔界という単語を出すのも面倒を増やすだけだろう、と考えザカリアスは言葉を濁すことにした。
「そう取ってもらって構わない。何か原因はあるのだろうが、心当たりは?」
「いえ、何も。本当に際立ったことはこのごろなかったのです」
「……なるほど」
何の理由もなく水が汚染されることなどない。
だが、汚染された水は実際に現れている。
――別の情報が必要か。
ザカリアスは立ち上がり、集まってきた村人たちを見回した。
「水そのものに直接の原因は見出せない。ほかに奇妙な点はないか」
ぴょんぴょん、と跳ねる両手がザカリアスの視界に入る。
「はいはい、知ってるよ! お姉さんの歌声が聞こえてくるんだ!」
「これ、リオ! 大人の邪魔をするんじゃない、あっち行ってなさい!」
村長に追い出されると、リオは不貞腐れた顔つきを隠しもせずに近くの広場にかけていった。
「すみませんな、子供の言うことですので……」
村長が困った顔を浮かべる。
「まあ、手掛かりになるかもしれない。歌声とやら、どういうものか聞かせてもらえるか?」
初老の女性が恐る恐る口を開いた。その手には古い火傷の跡、おそらく調理中の事故だろう。しかし左肩の傷は別物だ。刃物による古い切り傷。
「ずっと前からです。夜中に、どこからともなく聞こえてくるんです。歌声というほどはっきり聞いたことがあるのはあの子だけですが、多くの村人が時折その声を聴いています。もちろん、私も」
「どこからともなく、というのは見当はつかないのか?」
「それが分からないんです。風に乗って、あちこちから……まるで村を包むように」
別の男性が震え声で付け加える。左腕の動きがぎこちない。関節が完全には曲がっていない。
「歌のような、呪文のような。言葉は分からないが、聞くと背筋が寒くなって」
ザカリアスは黙って観察を続ける。40代以上の村人たちの体には、似たような古傷が散見される。生活の傷にしては深すぎる。
――従軍経験者か。
ザカリアスは思った。そういえば、この辺りも60年前の戦争では戦火の只中だった。魔王軍と人間の軍が何度も衝突した地域だ。だが、それはここにいる多くの人間たちが生まれる前の話。
つまり、彼らの傷は別の要因。
――同じ種族同士での戦争か。愚かな話だ。
ずっとここまで口を閉ざしていたトーマスが苛立たしげに口を開いた。
「とにかく気味が悪い。それだけで十分だろう」
ザカリアスも小さくうなずいた。
「これ以上ここで話し込んでも無駄だな。私は少々別の調べ方をしてみよう」
「ええ、どうかこの井戸をお願いします」
ザカリアスは先ほど聞いた『声』に関する話が気になっていた。
大人たちの意見は多くが不快な声だ、という。
――必ずしも、声のように聞こえる音が声とは限らないが。
山風の反響が女の悲鳴のようだった、というだけの事件もあったな、とザカリアスは古い記憶を思い出していた。
ともあれ、大人たちの意見は同一だった。
では、子供はどうだろうか。
視線を巡らせると、少し離れた場所で数人の子供たちが遊んでいた。その中で、リオが棒切れで地面に絵を描いている。
ザカリアスは歩み寄った。
「小僧」
「あ、黒いおじさん!」
リオが振り返る。地面には水を表すような波線と、人らしき形が描かれている。
「先ほど言っていた、お姉さんの歌について聞かせてくれ」
リオの顔がぱっと明るくなった。
「うん!青いお姉さんが歌ってるんだよ!」
「青い?」
「そう!すごく綺麗な青い髪のお姉さんなの。でも最近は見えないんだ」
リオが井戸を指差す。
「前はたまに水の中に見えたの。お母さんは気のせいだって言うけど」
「どんな歌を歌っている?」
リオが歌い始める。
「♪たったかた〜、ぴょんぴょんぴょん〜、みんなで〜、すいすい〜♪」
ザカリアスは微かに眉をひそめた。妙に耳に残る節回しだ。
その陽気さもあって童謡の一部のようにも思えるが、どこか違和感がある。
「他にはどんな歌を?」
「♪ごーごー、ざぶざぶ〜、きらきらり〜♪」
「♪ぐるぐる、まわって〜、ぴたっ!♪」
どれも陽気で無邪気な歌詞だ。しかし、大人たちの反応とは明らかに違う。
これを聞いて不気味だ、というものはそう多くない。
「そのお姉さんは、いつも歌っているのか?」
「うん!夜になると特によく聞こえる。月が出てる時が一番!」
「そうか」
ザカリアスは考え込んだ。青い髪、水の中、そして認識の差。
「今夜、改めて調査するとしようか」
ザカリアスは暦を思い出す。
今宵は満月。
そして、空模様からして、曇る気配はない。
調査にはもってこいだった。
宿の一室で、ザカリアスは調達した品を並べていた。魔導磁石、聖水の小瓶、青く光る石、そして腐りかけた林檎。
宿の主人——痩せた中年の女性が、夕食を運んできた。その手首には包帯が巻かれている。新しい怪我ではない。
「たんてい様、井戸の調査をなさるそうで」
「ああ。ところで、この村の童謡について聞きたい」
女将が首を傾げた。
「童謡ですか?」
「子供が歌っていた歌があってな。『たったかた、ぴょんぴょんぴょん』という歌詞なのだが」
女将は考え込んだ。
「聞いたことがありませんね。この村の童謡なら、『山の向こうの赤い月』とか『麦畑のかかし』とか、そういうものですが」
ザカリアスには聞き覚えのないものであったが、題名からしてそう関わりのあるものではないだろう、と判断した。
「節回しも独特でな。他にも『ごーごー、ざぶざぶ』という歌もあった」
「それも知りません。リオちゃんが歌っていたんですか?」
「ああ」
女将が苦笑した。
「あの子は想像力が豊かですから、自分で作ったのかもしれませんね」
ザカリアスは頷いたが、内心では違うと確信していた。あの節回しは、創作にしては妙に完成されすぎている。
陽気さを伴う明るい歌。しかし、童謡の類ではない。
にもかかわらず、大人たちからは気味が悪いとされる。その大人たちは戦争経験者が多い。
――その条件に適合するのは軍歌、だろうか。
軍歌には万国共通で高揚感をあおるものが多い。戦争経験のある大人たちはそれを感じ取って気味が悪い、と思ったのかもしれない。また、子供にそんなものは関係ないから、明るい歌だ、とだけ認識して歌っている、というところだろうか。
情報がまた一つ増えたが、まだ確信は持てない。
「村の記録を見られる場所はあるか?」
「村長の家に古い文書がありますよ。許可をもらえば見せてもらえるかと」
夕食後、ザカリアスは村長の家を訪れた。
村長は快く書庫に案内してくれた。埃っぽい部屋に、古い帳面や日誌が積まれている。
「何かお探しですか?」
「歴史書でもないか。この村の歴史が書かれているものがいい」
村長が一冊の帳面を取り出した。
「これが村の記録です。大した事は書いてありませんが、役に立つものでしょうか」
「見てみないと何ともな」
ザカリアスはページをめくった。収穫の記録、誕生と死亡の記録。
――しかし、これを書いた人間はよほど几帳面と見える。少なくとも、魔族と比べれば朝露と海ほどの差があるな。
魔族の世界に、歴史書はない。書物もほとんどない。
今を生きるのが大好きで、文字を書くくらいなら暴れまわって酒を飲んでまた暴れまわる連中ばかり。
ゆえに、ザカリアスは本が大好きな性格でありながら、出征の際にはまともに文章にありつけない、という日々を長く過ごしていた。
――この村にしかない生活がうかがえるこの書物、実によいな。
その過去あってか、ザカリアスは常に書に飢えていた。
にやり、と浮かべた笑みの深さは悪魔よりも恐ろしいと言われた参謀時代と変わらず。
村長は声にならない悲鳴を上げて後ずさった。
――奇妙なものだ。
ザカリアスが歴史書をいくらか読み進めて、彼の脳裏に疑問が浮かんだ。
飢饉や疫病の話が驚くほど少なかった。
この時代、人間魔族問わず、十数年に一度の病気や飢饉というのは珍しくないものだった。
ザカリアスの覚えている限りでも、戦争中でさえ飢饉によって死ぬ人間の方が多い時期もあった。
「村長、この村は飢饉に見舞われたことはないのか」
「そうですなあ……五年前に一度ここら一帯で疫病騒ぎはありましたが、それもトーマスの親父がちょいと危なかった程度で、あとの人間は軽く済みましたよ」
ザカリアスは日付を聞いてページをめくる。
「5年前の夏……『青髪の行商人、清水を売る』というやつか」
『青い髪の女性の行商人が村を訪れ、清らかな水を売っていった。病人に与えると熱が下がり、多くの命が救われた。ろくな代金も取らず、ただ「水を大切に」とだけ言い残して去った』
「トーマスの父親も、この水で助かったんです」
村長が付け加えた。
「不思議な女性でした。水のように冷たい手をしていたと、皆が言っていました」
ザカリアスは帳面を閉じた。青い髪、水のような手、清らかな水。そして陽気な歌声。
パズルのピースが、少しずつ組み合わさっていく。
ぱさり、とザカリアスが村の歴史を修めた書物を閉じる。
「明日の朝早く、井戸で実験を行う。誰も近づかないよう、お願いはできるか」
「まあ、大丈夫でしょう。朝早くから動く連中など多くはありませんよ」
「そうか。それなら邪魔は入らんか」
ザカリアスは宿に戻り、明日の準備を整えた。
夜明け前、ザカリアスは静かに宿を出た。村はまだ眠っている。
井戸の前で、準備した道具を順番に取り出す。
まず魔導磁石を井戸の縁に置く。針がくるくると回転した。
「自然現象ではない。魔法の干渉が存在する」
次に、生命感知の花を縄に結んで井戸に降ろす。水面に近づくと、枯れかけていた花弁がゆっくりと青く変色した。
「生命体がいるな。しかも、かなりの魔力を持つ」
聖水を一滴、井戸に垂らす。水面は静かなままだ。
「邪悪ではない。悪霊が変状した、という線もなさそうだ」
青い石を取り出す。魔王軍の認識石だ。井戸に向けてかざすと、石がぼんやりと光った。
「元魔王軍の所属か。しかも認識番号持ちなら――それなりか」
最後に腐った林檎を縄に結んで降ろす。水面に近づいた瞬間——
バシャッ!
激しく水しぶきが上がり、林檎が弾かれた。
「汚いもの入れないで……」
井戸の底から、かすかな声が聞こえた。
ザカリアスは弾かれた林檎を手に取り、目を細めた。腐敗が止まり、わずかに新鮮さを取り戻している。
「浄化の能力か……水精霊の特徴だな」
――最後に確信を得るか。
ザカリアスは咳払いをした。
「♪進め、我らが担い手〜」
低い歌声がザカリアスから響いた。
彼にとってなじみ深い行進歌だ。
士気高揚のための軍歌製作にも関わっており、全てを暗唱できた。
「♪清き流れを統べよ〜」
井戸の底から、つられるような小さな声が聞こえてきた。
「――やはり、第三軍団か」
魔王軍の軍歌は軍団ごとにわずかに歌詞が違う。一節聞けば即座に判別できる。
ザカリアスの声が聞こえたのか、井戸の底から慌てた声。
「やべっ」
「第三軍団水精霊部隊所属の者よ。我は元参謀ザカリアス」
「ひいいい!ザカリアス様!?ほ、本物!?」
「出てこい」
「い、いません!誰もいません!」
水の中で声だけが必死に響く。
ザカリアスは溜息をついた。
「姿を見せろ。さもなくば、この井戸ごと干上がらせるぞ」
「ええっ!?そんなご無体なことしませんよね!?」
「……この井戸を我輩の二つ名通りにしてやろうか?」
ザカリアスの掌の上で、青白い炎がゆらゆらと燃え上がる。水を一瞬で蒸発させる魔界の業火だ。
「わ、分かりました!出ます!出ますから!」
水が激しく渦を巻き、慌てたような水音が響く。
「あわわわ、ちょ、待って!今出るから!」
ドボン!と大きな水しぶきと共に、人型の水が井戸から飛び出してきた。勢い余って地面に転がる。
「いたた……あ、痛くない。水だから」
半透明の水精霊が、ぺたんと地面に座り込んでいる。青い髪は水そのもので、体も水で構成されている。
「やはり貴様か、ネレイド」
「えへへ……ザカリアス様……お久しぶりです……」
ネレイドの手が、無意識に井戸の縁を撫でる。石の表面は、長年彼女の指で磨かれてつるつるになっていた。
「久方ぶりだな」
「ごめんなさい!すみません!本当にごめんなさい!」
ネレイドが土下座のような姿勢になる。水の体がぺしゃんと平たくなった。
ザカリアスの記憶では、ネレイドは戦争時代――六十年以上前に、水の浄化の担当としてどこかの村に配置された、水精霊の一体だ。
水精霊が単独で人間界を移動することはほとんどない。つまり、六十年以上ここにとどまっていたことになる。
「なぜまだここにいる」
ザカリアスが静かに問うと同時に、ネレイドをじっと観察した。以前見た時より、明らかに体の輪郭がぼやけている。水の密度が薄く、力が弱まっているのが分かる。
(なるほど、そういうことか)
ザカリアスは井戸を見やった。
「貴様、ずっと水を浄化していたのか」
ネレイドが顔を上げる。
「え?」
「この辺りの地下水脈は、元々鉄分を多く含んでいる。魔界との境界が近かった土地だからな。通常なら赤く濁るはずだ」
「……バレてました?」
「貴様が弱っているから、浄化しきれなくなった。それで水が赤くなり始めた」
つまり、井戸の水が汚れたのではなく、浄化できなくなったから騒ぎになった。
謎はそれだけのことだった。
――歌声も寂しくなって歌い始めたところを、リオが歌い返してくれたので一緒に歌っていた、というところだろう。
ネレイドは困ったように笑った。
「えっと……帰る場所、なくなっちゃったから……それに、ずっと浄化してたら、疲れちゃって……」
ザカリアスは溜息をついた。水精霊が力を使い続ければ、徐々に弱っていく。補給なしに何十年も浄化を続けていれば、限界が来るのも当然だ。
「魔王軍は60年前に解体した」
「知ってます……ただ、ここ居心地よくってぇ……」
ネレイドが井戸を指差す。
水精霊は基本的に潤沢かつ清潔な水がなければ生存できない。
だが、ザカリアスの見る限り、この場所は村人がこの井戸に頼るほど、水源の豊富な地域ではない。
「残党軍の話は聞いているか。そいつらに引き上げてもらう気はなかったのか」
精霊なら多少の無理はきく。潤沢な魔力があれば、近場に寄り掛かったところで助けを呼べば、魔界まで帰ることは不可能ではなかっただろう。
「時々、旅人が話してるのを聞きましたよ。少し思うところもあったんですけど、でも、私のいるところじゃないなって。――ほら、あの人たち顔怖いんですよ」
ネレイドは茶化すような言い草だったが、ザカリアスは小さくうなずいた。
「……そうだな」
魔王残党軍は今も、ありもしない栄光に縋って、求めて、闘いの日々を続けている。
しかし、ないものに縋る希望など、儚いとすら許容できない。
現在では、勇者直々に平定されてほとんどの残党軍は組織だったものはない。
「ザカリアスさまこそ、残党軍の方に参加しなくてよかったんですか。きっと、ザカリアスさまなら華麗に率いて国家の一つや二つ転覆できたでしょうに」
「――吾輩も似たようなものだ」
ザカリアスは空を見上げた。朝日が昇り始めている。
「苛烈な日々がなくなった寂しさはある」
「……そりゃあ、そうですよね」
ネレイドの声が小さくなる。その透明度が曇り、深い藍色が一瞬よぎった。
「でも」とザカリアスが続ける。「平和な日常も、代えがたいものだ」
「ザカリアス様も、そう思うんですか?」
「ああ。戦いばかりでは、何のために生きているか分からなくなる」
ネレイドが小さく頷いた。
「私も……最初は寂しかった。誰とも話せなくて。でも、村の人たちを見てるうちに……」
彼女の体を構成する水が、感情に合わせて細かく泡立つ。
こぽこぽ、とネレイドの前に浮かび上がった水面には親子が映る。
「この子……毎朝7時23分に来ます。お母さんは7時25分。2分間、いつも一人で歌ってます」
「村人全員の習慣を覚えているのか」
「だって、それが私の一日の区切りだから……」
その時、騒がしい声が聞こえてきた。
「おじさーん!どこー?」
リオの声だ。
「あ、見つけた!」
リオが駆け寄ってきて、ネレイドを見て目を輝かせた。
「わあ!お姉さんだ!青いお姉さんがいる!」
ネレイドがびくっと震えた。
「に、人間の子供!」
「大丈夫だよ!」
リオが嬉しそうに手を差し出す。
しかしネレイドはザカリアスの後ろに隠れた。水の体が恐怖で縮んでいく。
「怖い……人間怖い……」
「リオ!そんなところで何を——」
村人たちが声にひかれてか集まってきた。そして、ネレイドの姿を見て凍りついた。
朝日を浴びて透き通るネレイドの姿に、村人たちは息を呑む。
まるで生きた宝石のようだ。
――というのは我ら魔族の判断基準か。
「ま、魔物……」
誰かが震え声で呟いた。
その一言で、空気が一変した。
人間からすれば、魔族とは未だに敵だった。
人間に擬態する気すらない連中は、ほとんどが魔王残党軍として今もテロ行為を働く。
対話する構えすらない敵だ、というのが人間から、魔族への認識だった。
「魔物だ!」
トーマスの怒声が響いた。農具を握りしめ、顔を怒りで赤く染めている。
「ずっと井戸に潜んでいたのか!」
その叫びに、村人たちが動揺し始める。
「皆!この村を守るため、今すぐ追い出すべきだ!」
ある者は松明を取りに走り、ある者は農具を握りしめる。恐怖が、一気に敵意へと変わっていく。
「何十年も騙されていたなんて!」
「井戸に毒を入れられていたかもしれない!」
ネレイドが「ひぃっ!」と悲鳴を上げ、ザカリアスの後ろで小さくなった。
「やっぱり人間怖い……知ってた……」
ザカリアスは前に出た。
「待て。彼女は害を与えていない」
「信用できるか!」
トーマスが叫ぶ。
「お前も魔王軍だろう!魔族と親しげに話して!仲間を迎えに来たんだろう!」
村人たちの視線が、ザカリアスにも向けられる。疑惑と恐怖の眼差し。
ザカリアスの目が鋭くなる。右手がゆっくりと動き、指先に微かな火花が散る。
「恩を仇で返すとは——」
ぱきぱき、と人間へ擬態していた部分の肌がはがれそうになる。
「ザカリアス様、だめ!」
ネレイドが水の腕を伸ばし、ザカリアスの袖を必死に掴む。冷たい水がローブに染み込んでいく。
「怒っちゃだめ……私、傷つけたかったわけじゃないから……」
ネレイドの懸命の誠意はザカリアスの怒りをひとたび弱めた。
しかし、人と魔族の亀裂がそれで収まったわけではない。
村人たちは農具を構え、じりじりと距離を詰める。松明の炎が朝の風に揺れ、不気味な影を作り出す。
ザカリアスの魔力と村人の敵意が、今にも衝突しそうな緊張感が場を支配する。
ネレイドは二つの敵意の間で、水の体を震わせながら小さくなっていく。
「やめて!」
緊迫した空気を破って、リオが群衆の前に飛び出した。小さな体が震えているが、目は真っ直ぐトーマスを見上げている。
「お姉さんは悪くない!水を綺麗にしてくれてた!」
「リオ、下がれ!」
トーマスが子供を引き戻そうとする。
「違うもん!お姉さん、優しいもん!」
リオの声は何の道理もなくて、ただわめくだけのもの。
けれど、どこか。
この場の誰よりも誠実に、真実を伝えようとする勇気にあふれていた。
ザカリオスは騒ぎが起こってから初めて、わずかに怒りの感情を抑えた。
今にも力強く振るわれそうだった腕を下した。
――成り行きを見守ってやろう。
トーマスが苛立たしげに叫んだ。
「子供に何が分かる!」
その時、人混みをかき分けて、杖をついた村長が現れた。
「おじいちゃん!」
リオが駆け寄る。
村長がゆっくりと前に出た。深く刻まれた皺の奥で、目が静かに光っている。
「トーマス」
しわがれた声が、場の空気を変えた。
「何です、村長」
「5年前の青い髪の女を覚えているか」
トーマスが一瞬たじろぐ。
「……疫病の時の」
「お前の父を救った、あの清らかな水。それを持ってきたのは誰だ」
村長が振り返り、ネレイドを見る。
「あれも、お前だったのだな?」
ネレイドが小さく頷く。
「形を保つの、すごく疲れたけど……見てるだけは、もう嫌だったから……」
トーマスの顔が青ざめる。
「まさか……あの時の行商人が……」
村長が続ける。
「考えてみろ。お前たちが生きている間、この村で疫病が流行ったか?」
村人たちが顔を見合わせる。
「隣村では何度も病が流行った。だが、この村は?」
沈黙。
「一度もない……」
誰かが呟いた。
「誰のおかげだと思う?」
村長が井戸を指差す。
「この水を、ずっと清らかに保ってくれていたのは誰だ?」
ネレイドが小さく言う。
「水に、病気の元が入らないように……ずっと、見張ってた……」
リオが手を差し出した。ネレイドは一瞬、自分の手を見つめた。
「私の手……冷たくて、濡れてて……」
まるで、断られることを予期している者の躊躇だった。
けれど、リオはそんなのお構いなしに、両手で水の手を抱き留めた。
トーマスの松明が地面に落ちた。しかし、その顔にはまだ葛藤が残っている。
「父を救ったのは……確かにそうかもしれない。だが、魔物は魔物だ——」
その言葉が終わらないうちに、ネレイドの体が急に震え始めた。
「あ……れ……?」
水の体が崩れ始める。まるで形を保つ力を失ったかのように、ネレイドは井戸の縁にもたれかかった。
「もう……限界……ごめんなさい……」
透明な体が、今にも井戸に流れ落ちそうなほど薄くなっていく。
「――もう限界か」
ザカリアスが駆け寄るが、その表情は冷静だった。
村長が青ざめる。
「どういうことですか、その方はどうしたのですか」
「端的に言えば、限界だな」
――こんな低純度の水精霊、魔王軍なら前線になど立たせない。
おそらくはこの六十年、ずっとその生命力をひたすらに使ってきたからこそ、ネレイドは疲弊しきっていた。
「井戸が赤くなっていたのは、この水精霊の浄化能力が落ち込んできたからだ。長年の浄化で無理がたたったんだろう。そして、浄化されていない水によって生命力まで失いつつあった、というところか」
「わ、我々はどうすればよいのですか」
ザカリアスは淡々と言った。
「村を捨てればいい。どうせ浄化なしでは、この井戸は使えない。それで解決だ」
村人たちがざわめく。
「村を捨てる?」
「やっと築いた暮らしを?」
「子供たちが生まれた場所を?」
――そんな感想ばかりか。
ザカリアスは冷淡に続ける。
「水を運べる距離に隣村がある。そちらに移り住むことも可能だろう。土地は余っているはずだ」
村人たちに動揺が広がる。現実的な選択肢を突きつけられ、皆が顔を見合わせる。
トーマスが一歩踏み出していた。
「ネレイドは……どうなる?」
鋭い問いだった。
ザカリアスは肩をすくめた。
「ここで果てる定めだろうな」
その冷たい言葉に、皆が息を呑んだ。
「助ける方法はないのか?」
誰かが尋ねる。
「魔王軍の転送設備でもあれば別だが、今はもうない。ここまで弱った水精霊を移動させることなど、不可能だ」
ネレイドが弱々しく微笑む。
「いいよ……私、もう疲れたから……」
その声は、諦めと安堵が混じっていた。
「皆が……無事なら……それで……」
トーマスの拳が強く握られる。その手が震えていた。
「待て」
低い声が響く。
「助ける方法はないのか? 他に何か」
ザカリアスが振り返る。
「なぜそこまでする。魔物だと言ったのは貴様だろう」
トーマスは真っ直ぐザカリアスを見つめた。
「父の命を救ってくれた。それに……」
言葉を探すように、一瞬黙る。
「そうなることをわかっていたんだろう、その人は。自分の命がここで消えてしまうかもって、わかっていたんだろう。それなのに、ここで、俺たちの力になってくれてたんだろう……!」
トーマスの絞り出すような声に、誰の答えもなかった。
だから、トーマスはより確信した。
「ずっと村を守ってくれたんだぞ、恩を仇で返すわけにはいかない……!」
――。
言葉はなかったが、ザカイアスの表情に、ほんの少しだけ、変化があったように見えた。
老婆が杖をついて前に出た。
「私の息子も、40年前に井戸から救い上げてもらった……思えば、それもアンタだったんじゃな」
農夫が続ける。
「干ばつの時も、水を絶やさなかった」
「病を防いでくれた」
「子供たちを見守ってくれた」
次々と声が上がる。
「私たちが、今度は助ける番だ」
「恩を返す時だ」
リオがネレイドの薄くなった手を握った。
「お姉さん、死んじゃやだ!」
ザカリアスは村人たちを見回した。トーマスの真摯な眼差し、老人たちの決意、子供の純粋な涙。
「……ふん」
小さく鼻を鳴らす。
ザカリアスは腕を組んだ。
「一つだけ方法がある」
皆が注目する。
「清らかな水を溜めた水盤を作れ。大きめにな。この井戸の水源よりも大きな水盤だ」
「――巨大ですな。この村に移り住んだ時と同等の力が必要になるでしょうな」
村長がつぶやく。
「さらに、定期的に水を入れ替え、休息させる。魔界の水には及ばんが、ゆっくりなら回復する――できるか?」
返事の代わりに、トーマスが即座に動いた。
「石を運べ!漆喰を用意しろ!」
「山の湧き水だ!村の水じゃ駄目だ、外から清らかな水を集めてくるんだ!」
村人たちが一斉に動き始める。
「東の森に綺麗な泉がある!」
「北の山にも湧き水が!」
若者たちが桶を持って走り出す。老人たちは石を運び、女性たちは漆喰を練る。
ネレイドは井戸の縁で、消えそうな体で見ている。
「どうして……私なんかのために……」
リオが汗だくになりながら小石を運ぶ。
「だって、お姉さん、ずっと一人で頑張ってたんでしょ?」
「もう一人じゃないよ」
夕方までに、井戸の横に立派な水盤が完成した。
山から運んできた清らかな湧き水を満たし、ザカリアスとトーマスが協力して、ネレイドをそっと移す。
「あ……」
水に浸かった瞬間、ネレイドの体が少しずつ形を取り戻し始めた。
「楽に……なった……」
透明な涙が、水の中に溶けていく。
「ありがとう……みんな……ありがとう……」
数日後。
水盤の中で、ネレイドの体はゆっくりと回復していた。輪郭がはっきりし、透明度も戻ってきている。
トーマスが水盤の前に膝をついた。
「すまなかった」
深く頭を下げる。
「5年前、父が助かった時、俺は泣いた」
トーマスの声が震える。
「あの青い女性を探した。礼を言いたくて。でも、見つからなかった」
顔を上げ、ネレイドを見つめる。
「礼も言えないまま、今日まで来た。そして……恩人を追い出そうとした」
「本当に、すまない」
ネレイドが首を振る。
「いいの……だって、怖いもの、私……人間じゃないし……」
老婆が山から汲んできた水を持ってきた。
「これ、東の山の一番奥の湧き水。とても綺麗なの」
水盤に注ぎ足すと、ネレイドの顔が少し明るくなった。
「マリアさん……膝、もう大丈夫?去年の冬から、ずっと庇ってた」
マリアが目を丸くする。
「え?どうして知って……」
「ごめん、ずっと見てたから」
ネレイドが村人たちを見回す。
「ジョンさん、腰痛は良くなった?朝の水汲み、辛そうだった」
「サラちゃん、大きくなったね。赤ちゃんの時から見てたよ」
村人たちは驚きと、そして温かい何かを感じていた。
「ずっと見守ってくれてたんだね」
誰かが呟いた。
日が暮れて、井戸の周りに村人たちが集まってきた。
大げさな祭りではない。各自が持ち寄った食事を並べた、静かな集まりだった。
ネレイドは食べられないが、水盤の中から皆の輪に加わっている。
「こうして皆と一緒にいるの、初めて」
ネレイドが嬉しそうに言う。
リオが水盤の縁に座り込んだ。
「お姉さん、寂しかった?」
「うん……でも、もう大丈夫」
ネレイドが微笑む。
「みんながいるから」
老人の一人が昔話を始める。子供たちが笑う。トーマスが照れくさそうに、父の回復の話をする。
夜が更けても、誰も帰ろうとしなかった。
翌朝、ザカリアスが荷物をまとめていた。
村長が近づいてくる。
「これからは、村全体で水盤を管理する」
「当番制で水を入れ替え、ネレイドに無理をさせない」
「共に生きていく」
ザカリアスが頷く。
「賢明だな」
ネレイドが水盤から顔を出した。
「ザカリアス様」
「どうだ、調子は」
「はい……とても良いです」
ネレイドの表情が柔らかい。
「人間って……温かいんですね」
「ああ」
ザカリアスが小さく笑う。
「愚かだが、突き抜ければこうもなる。貴様にとって、この村はよいところだったか」
ネレイドが力強く頷く。
「はい。私、この村が好きです」
「そうか」
二人がほほ笑むと、バタバタと走ってくる元気な音が響く。
リオのものだった。
「おじさん、また来てね!」
ザカリアスはそっぽを向いた。
「理由もなく吾輩が辺境の村を訪れることなどない」
リオが肩を下ろしてしょんぼりうつむく。
ネレイドはその小さな肩を抱きかかえると、むん、とザカリアスに向き直った。
「いーんですか、こぉんなちっさい子供にそんなこと言っちゃって! 私知ってるんですからね、ザカリアスさまがぶきっちょでじつはフォークも使えな――」
喚き声が終わる前に、ザカリアスの手がネレイドの顔をつかみ上げていた。
実体のない水精霊をつかみ上げる魔力操作技術は魔王軍時代から全くの衰えがなかった。
「――ずいぶん人間の肩を持つようになったな。遺言はあるか?」
「ごべんなざい!」
ザカリアスは興味を失ったように放り投げた。
ネレイドは水盤へ叩き込まれたのち、水しぶきが大いに巻き上がる。
目を回す水の精霊に、駆け寄る住人達。
それを見て、ザカリアスはつぶやいた。
「そうだな。また新たな歴史が刻まれたなら、来てやらんこともない」
リオの表情がぱあっと輝いたかと思うと、その身の丈一杯に手を振っていた。
その後ろで、水精霊も小さく、縮こまりながら、しかしリオに寄り添ってささやかに手を振る。
ザカリアスも表情を変えないまま、小さく手を振り返し、広場を後にした。
村の出口まで歩き、ザカリアスは一度だけ振り返った。
トーマスがネレイドに水盤の掃除の仕方を説明している。マリアが森から新鮮な水を運んでいる。リオが新しい歌を作って歌っている。
「人間と魔族の共生か……」
ザカリアスは呟いた。
「面白い歴史になるかもしれんな」
黒いローブを翻し、次の依頼へと歩いて行った。
町の広場の大きな水盤で、ネレイドが今日も新しい歌を口ずさんでいた。
「♪ここが私の家〜、みんなが私の家族〜♪」
もう軍歌ではない。この村だけの、新しい歌が、朝の空気に溶けていった。




