終話 ある夏の日の冷たい想い出
シュンシュンシュンシュン――
ガスコンロで火にかけた圧力鍋が、小さく音を立て始めた。今晩は、夏野菜をたくさん入れた辛口のカレーだ。
タイマーを二十五分後にセットし、火力を弱火にしてからリビングへ向かう。ダイニングテーブルの上では、鍋を仕掛ける前に氷を多めにして注いでおいたアイスコーヒーが、グラスを汗だくにして待っていた。
喉の渇きをどうにかしたくて、何も気にせずそれを一気に煽れば、グラスを伝った水滴が口元からTシャツの襟口までしとどに濡らしていった。それすら気持ちが良く、熱った体が内と外から冷やされていくのが分かった。
(まぁいいや。夏の料理って、汗かいちゃうから嫌なんだよね)
汗ばんだ背中側の襟を摘んでパタパタと動かして空気を送り込もうとしたが、それをエプロンが邪魔をした。
まだ調理は終わっていないが、仕方なくダイニングテーブルの一脚に同僚たちから結婚祝いでもらったそれを外して引っ掛ける。その柄の鮮やかな赤色の花は私の好みとは少し違うが、寿退職のプレゼントにと泣きながら送ってくれた彼女たちの賑やかで華やかな雰囲気を思い起こさせ、いつだって自然と笑みが溢れた。
熱った体に今度こそ裾を動かして風を送り込む。あっという間に汗が冷えていった。手を止めて視線を上げれば、向かいの窓から夏のカラッと晴れた空が見えた。スリッパから伝わる足裏の熱すら鬱陶しく思いながら、そのまましばらく眺めていた。
(あの頃の夏は、毎日楽しかったなぁ)
ここ最近、よく学生時代のことを思い出していた。今から顔を合わせる学生時代の友人との思い出が、白昼夢のように頭の中へ巡っていった。
どれくらいそうしていたのか、ふとタイマーが気になり目を向ければ、圧力鍋の近くに雑に置いた使いかけのキッチンペーパーも目に入った。強風にしたエアコンの風のせいだろう、ひらりひらりとそのままコンロの火に今にも届きそうだった。
その近くには後で揚げようと準備していた夏野菜と、揚げた後に野菜を置いておくための新聞紙。さらにその上に綺麗に重ねたキッチンペーパー。実家のやり方だと後始末はしやすいが、目を離すと火事が起きやすそうだなと数日前に気が付いたばかりだった。それを他人事のように考えながら下腹を撫でて、ガスコンロの火はあえてそのままにしておいた。
先ほどの存外気に入っているエプロンを着直して、そのポケットに使い捨てライターが入っていることを確認する。
キッチンタイマーが鳴る前に二階で用事を済ませなければならないので、静かにしかし素早く上がっていった。
(こんなに暑いなら、空調にもうちょっとこだわれば良かったかなぁ)
この春の結婚を機に、お互いの両親から頭金を出してもらって建てた一軒家だった。酷暑のせいで、二階はどの部屋もクーラーだけじゃ間に合わず、常に扇風機も回していた。
そうやって先に付けておいた冷房で冷え切っているであろう夫婦の寝室へ一瞬息を止めて入れば、浴びる冷気で汗が冷えて体が震え、呼吸や気持ちまで冷えていく。したくもない呼吸をしながら、後ろ手でドアに鍵をかけた。
中には、先客が二人。仲睦まじい様子でベッドに横たわっていた。
「だから、やめといた方が良いって言ったじゃない」
そう何度も忠告してくれた昔からの友人が、私たち夫婦の真新しいベッドの上で裸の主人に同じく裸で抱きしめられていた。何をしていたかなど、一目瞭然だ。
開き直ったような二人の幸せそうな表情に、腹の底から沸き立つ悲しみと憎しみが冷えた汗とともにじっとりと体にまとわりついた。
何でも話せる仲の、いつだって美人で気取らないその友人が自慢だった。
主人は、新卒で入ってすぐに付き合い出した五つ年上の上司だった。
入社半年後に私から告白して付き合い始めた。結婚まで含めると四年ほどの付き合いだろうか。プロポーズは、主人からだった。
私は、寿退職を主人に望まれて少し結婚に迷いはしたが、二人とも子どもを強く望んでいたため出産育児のことを考え踏み切った形だった。
(なんでこんなことになっちゃったんだろう……)
二人はいつからそんな関係だったのだろう。彼女には恋人だった時からモテた主人の浮気癖を何度も相談していたはずなのに。
『でも、好きなんだよね。私が何言っても聞かないんだから』
私のどうしようもない長話に嫌々ながらも最後まで付き合ってくれていた。その時間が、とても楽しくて嬉しかった。
『もう、別れなよ。飽きられてるんだよ』
そう言葉が変わった時には、もう二人は私のことを嗤っていたのかもしれない。
二人が、こそこそ会っているのはなんとなく気がついていた。けれど、崩れていく信頼と愛情に無理やりつぎはぎをし、騙し騙しで今日まで過ごしてきた。表面上は何もかも上手く行っていた、三人とも。
『彼女に、子どもができたんだ』
一ヶ月前。私が先に伝えたかった言葉を、どこか嬉しそうに主人の口から先に伝えられた。
その時。その大事なつぎはぎが、頭の中で消えてなくなった。
そこからは、自分でも信じられないスピードで計画を練った。今日、この時を、この瞬間が確実に訪れるように。
全て計算されていたとも知らないで、いまだベッドの上で裸の二人が幸せそうに笑いながら友人のお腹を撫でていた。
しばらくして、その幸せそうな顔を消し、無言で微笑むだけで立ち去りもしない私を……二人は不気味そうに、かつ鬱陶しそうに睨みつけてきた。やっと話を聞いてもらえそうだ。
「私も、赤ちゃんができたの……お揃いだね」
「え……!?」
間抜けな声を出したのは主人で、知ってるよと平然と笑ったのは友人だった。主人は、そう言い放った友人を、今度は信じられないものを見る目で見つめていた。言葉を忘れたように、何かを言いかけては閉口する様に、こちらが情けなくなった。
「だから、なんなの?」
もう、私の知っている気心の知れた昔馴染みの友達はどこにもいなかった。やめておけばよかった。別れておけばよかった。そうすれば、私たちの中のたくさんの大事なものは消え去ることはなかったのだろう。
きっと、この瞬間を作り出したのは……全て私自身の甘さだ。だから、何もかも守れなかった。
「流産したの。初期の切迫流産だって。過度なストレスと体調の無理を押したのが原因、かもね?」
悲しみが積み重なると涙の流し方も忘れるらしく、その診断を受けた診察室で私は放心していた。この子を元気に産んで離婚する、というゴールまで失ったのだ。
あの時から、私の世界は色を失なった。先ほど眺めていた夏の青ささえ、私の心には一欠片も届かなかった。
そんな私の頭と心を埋め尽くしていたのは、憎しみと後悔だった。もっと早く二人を、嫌いになっていれば良かった。許さなければ良かった。許さなければ、きっと……この子と笑い合える未来もあったはずなのだ。
黙ってしまった二人の頭の上に、あらかじめ部屋の入り口近くのチェスト裏に隠しておいた小麦粉の紙袋を取り出し、あたり一面にばら撒いた。冷房で乾燥した部屋の中で、白い粉は季節外れの霧のように充満した。白く染まる視界の中で、私の思いもよらない行動に慌てた二人が、驚いた顔でむせ込んでいた。
「バイバイ」
私は、持っていたライターを躊躇いなく着火した。小麦粉で真っ白だった世界が、爆音と火花で爆ぜて……また真っ白になった。
一階のキッチンのタイマー音が、小さく耳に届いた。そろそろあのキッチンペーパーに火が付くかもしれない。家にある火災報知器には、全てビニール袋を被せてある。玄関も養生テープで隙間なく蓋をした。
きちんと計算したのだ、全てを。この部屋で万が一誰かが助かっていたとしても、簡単にこの家から逃げられないように。
私のために誰かが用意してくれた幸せが、全ていらなくなったから……綺麗に消してしまおうと思ったのだ。
(産んであげられなくて、本当にごめんね。許さなくていいからね)
色を失ったはずの世界が一瞬赤く色付いて、最後の一呼吸。
その後どうなったかは、知りたくもない。