2.私が一番欲しかったもの
見覚えのある光景を目にして日本に戻ってきたのだと確信する。
周りに人が居なくて良かった。いきなり人が現れては驚かせてしまう。三年前とは変わらない風景や懐かしさを覚える空気に緊張しながら、すぐに我が家を目指す。いきなり私が居なくなったことで両親はどんな気持ちだったのだろう。
帰ったら怒るのだろうか、それとも喜んでくれるのだろうか…。
実際に帰るとなると途端に怖くなった。毎日帰りたいと思いながらようやくここまで来たけれど、実際のところ今は西暦何年の何月何日なのだろう。目の前にはそれを示すものがないからわからない。
本当にここに私の家はあるのだろうか?
もし時間の流れが違ったり転移が失敗したりしていて、家がないような状態だったらどうしよう。今後どのように生活していけば良いのだろう。
…もしかしたらそのまま異世界に残っていた方が幸せだったのかもしれない。
言い得ぬ不安が渦巻いて吐き気を催す。
…ここに私の家族は本当に存在しているのだろうか?
それでも一歩一歩踏みしめながら我が家に近付いていく。手先が冷たくなって変な汗が流れる。呼吸が荒くなって頭に心臓の音がドクドクと響く。本当であれば、この先の角を曲がると私の家があるはずで…。
早く家に帰りたいけど現実を受け入れたくない。永遠にも思える時間を感じながら角を曲がると、三年前毎日見ていた我が家が現れた。
稲葉という表札を指でなぞると、存在しているという実感に胸の奥が震えた。
その瞬間鼻がツンとして、目から涙が溢れて止まらなくなる。ゆっくりとドアノブに手をかけてその扉を引いた。
「た、ただいま…。」
緊張で乾ききった喉から発された声は掠れていた。不用心ではあるが、ドアが開くということ母は家に居るはずだ。
遠くからドタドタと人が走ってくる音が聞こえる。
「お母さん。」と呼ぶ声はかき消されて、母に抱きしめられていた。一瞬見えた母の顔は涙で濡れていた。抱きしめられた感覚からも、母は以前よりも痩せているようだった。母はこんなにも小さかっただろうか。
何度も名前を呼ばれて、本当に帰って来れたのだという実感が湧いてくる。
心配をかけてしまった申し訳なさと安心感からか涙が溢れて止まらなかった。
転移させられる前に母と口喧嘩をしたことをずっと悔やんでいたのだ。まさかあの喧嘩が最後になるなんて思いもしなかった。
そのことを母に謝ると、「お母さんこそごめんね。瑠々が帰って来てくれて本当によかった。」と声を震わせていた。
その後も抱きしめ合いながらお互い泣き続け、しばらくして落ち着くと今までの事を話してくれた。
こっちの世界では私が居なくなってから八か月しか経っていないらしい。警察に届け出をして事件性がないか調べてもらっていたけど、目撃情報が全くなく手掛かりを掴めなかったという。
それでも毎日探しては目撃情報がないかを調べてくれていたらしい。
その話を聞いて私は止まったはずの涙がまた溢れて来た。しばらく泣き続けたせいか、目尻がピリピリと痛んで頭がズキズキする。
それから母が父に連絡を取ると、仕事に行っていたはずなのにすぐに帰ってきてくれて同じように抱きしめられた。両親に愛されていたのだと実感し、既に枯れたと思っていたはずの涙が何度も零れた。
その時、これからは家族との時間を大切にしていこうと決めたのだった。
本当はもっと話していたかったけれど、緊張の糸が切れた私はいつの間にかソファーの上で寝てしまっていた。
人の足音で目が覚めると、既に夜になっていた。泣きすぎた余韻でまだ頭がぼーっとするせいで、ふわふわとした夢の中にいるようだ。その家の温かさが余計現実感を無くさせた。
両親に声を掛けられても曖昧な返事しか返さなかった私を見かねて、続きは明日話すことになった。用意されたお風呂にゆっくり浸かると、ようやく自分の部屋に向かった。
部屋はあの時と何も変わらないまま、ちゃんと掃除もされているようだった。そのことにまた泣きそうになりながらもベッドの中で必死に堪えながら、その日は眠りについたのだった。