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ゲームのシナリオが始まる魔法学校に入学するまで、あと数日。
メイベールこと、朝日にはやるべきことが山積みでした。まず、この世界に慣れなくては話になりません。文字や言葉の問題は無いにしても、文化や生活習慣は随分と違います。それらに対応しなくてはいけないのです。
テオこと、明星は自分の屋敷に帰る際「本当に、一人で大丈夫か?」と心配していました。「おにぃの方こそ」と、朝日も別々に行動することに不安ではありましたが、引き留める事は出来ませんでした。ジャスパーにテオともっと一緒にいたいとお願いしてみたものの「昨日は嵐だったから仕方なく泊めたんだ。貴族の令嬢として世間体というものを気にしなくてはいけないよ?メイベール」と言われてしまったのです。
ジャスパーは優しい笑みをたたえていましたが、朝日には少し無理をした笑顔の様に見えました。だからそれ以上わがままを言えなかったのです。
不安だった貴族の生活でしたが、意外にあっさりとクリア出来るものもあれば、上手くいかないものもあります。
例えば食事のマナー。何本も用意されているスプーンとフォークはどれを使っていいのか朝日には分かりません。テーブルへ順番に運ばれてくる料理も多分、食べる際の作法があるのだろう事は分かりますが、テーブルマナーなど教えてもらった事の無い彼女には分かるはずもありません。置かれたパンですら自由に手に取っていいのか戸惑ってしまいます。
そういう時、迷うより先に体が動きました。周りに合わせようと無理に意識するより、力を抜いて何も考えない方が体がスムーズに動いてくれるのです。これは自転車に一度乗ることが出来てしまえば、次からは意識することなく乗れるようになるのと同じだろうと、朝日は考えました。
体か勝手に動くというのは変な気分ではあります。けれどゲームの画面越しにキャラの動きを追体験していると考えればいいのです。ゲーム慣れしている朝日にはどうって事ありません。
ただ、料理が運ばれる度、軽く会釈をするのは注意されました。朝日には普通の事だったのですが、使用人が主のお世話をすることは当たり前であり、それに頭を下げるなどありえないのです。貴族として当然の振る舞いでした。
生活習慣は体に染みついているので勝手に動いて何とかなりますが、日本文化で育った朝日には貴族の文化に戸惑うところがあるのです。
また、身の回りの世話をしてくれるメイドにも戸惑いました。服を着せてもらったり、メイクをしてくれたり、あらゆる事を代わりにしてくれるのです。
朝日には黙っていても世話を焼いてくれる兄がいますが、それとはまるで違います。自分でやること自体が許されないのです。それは貴族だから雑用をする必要が無いという前提以前に、もし自分で勝手にやろうものならメイドの配慮が足りないという意味に捉えられるのです。ダメなメイドの烙印を押されない様、メイド達は常に緊張感を持っていました。
朝日は気付いていませんでしたが、特にメイベールに対してはメイド達の緊張度合いは高かったのです。
(これが貴族の生活かぁ……)
数日で朝日は息苦しさを感じていました。
ある時、服を着させてくれたメイドに「ありがとう」と言った事がありました。朝日にとっては自然と出た言葉でしたが、メイドがとても驚いていました。
「お嬢様が、私に感謝のお言葉を!」
その出来事は瞬く間にメイド達の間に広まりました。”あの”メイベールお嬢様が⁉と。これまでの彼女の行いとのギャップが驚きに、そしてその興奮は関心へと変わり、屋敷の中で噂が飛び交いました。
「最近のお嬢様は優しいわよね」
「魔法学校に入学するから浮かれてるんじゃない?」
「いいえ、この前テオ様がお泊りになったでしょ?様子がおかしくなったのはその頃よ」
「あれはお嬢様が懇願したからだって本当?」
「でも、お嬢様はテオ様の事、嫌ってるんじゃなかった?」
「この前のパーティーで久しぶりに会って惚れたんじゃない?ホラ、テオ様も随分大人びていらっしゃったから」
「恋は少女を乙女にさせるのね!」
「”あの”お嬢様が。アハハ!」
なんだかメイド達がニコニコとメイベールを見ている気がします。不思議に思い、彼女は兄のジャスパーにその話をしました。
「感謝の言葉を伝えられるのは素晴らしい事だよ、メイベール。けどね、使用人に声をかけるのなら、ねぎらいの言葉でなくてはいけない。それに感謝の言葉を日頃から使っていては、我がケステル家が安く見られてしまう」
貴族とはこういうモノかと朝日は驚くと共に感心しました。言葉一つに随分と重みがあるのだなと。
(なーんか、違う気もするけど)
メイド達からはニコニコというよりニヤニヤと見らている気もします。
それはいいとして、兄の言葉は意外でもありました。家を重んじるこういうしつけを日頃からされていれば悪役令嬢にもなれるのかもしれません。
ジャスパーはそれから心配そうに言いました。
「メイベールは最近変わったね。優しくなったというか……少し幼くなった?」
「それはわたくしが子供っぽいと?」
メイベールの眉間にシワが寄りました。それを見てジャスパーが取り繕います。
「ハハ、淑女に失礼だったね。でも、僕は幼いキミが兄さま、兄さまと付いて来る姿が好きだった。今も可愛い妹のままだ」
なんの恥ずかしげもなくそんな事を言われたものだから朝日は耳が熱くなるのを感じました。
実の兄である明星はそんな甘い言葉をかけてくれる事はありません。それは一緒にいることが当たり前で、言わなくてもお互い気心が知れているからです。『言わなくても分かるだろ』は日本人の相手を察する能力の高さの表れですが、言葉に出して言われるというのも良いものです。
(なにこれーーーっ!)
朝日は顔がニヤけるのを抑えるのに必死です。
ジャスパーが赤くなっている耳を確認するように、彼女の銀髪を優しくかき分けます。
「本当に可愛い……テオの元へ嫁がせるのがもったいないくらいに」
「まっ、まだ先の事ですわ。これから魔法学校に入学するのですし、結婚は卒業してからになります」
「そうだね……」
ジャスパーが今度は抱き寄せる様にして背中に垂れる髪に触れます。肩から腰へと手が撫でていきます。
「こんな可愛い妹を魔法学校に行かせるのが心配になってきたよ」
(これは紛れもなくゲームの世界だ!)
朝日は一人興奮しました。
人気乙女ゲーム「アナドリ」。その人気のゆえんはカップリングの自由さにあります。ヒロインのアイラとなって好きなキャラクターと恋愛を楽しむのはもちろんですが、メインストーリーを進める以外に、登場人物同士の仲を取り持つことも出来るのです。
「フリー ラブ システム(Free Love System)」通称FLSというシステムのおかげで任意のキャラ同士のパラメーターを上げさえすれば二人は結ばれます。例え、同性同士や血のつながりがあろうとも。それが従来の乙女ゲーでありがちな美男子ハーレムに過食気味だったユーザーを引き付けました。
好きなカップルをそっと眺めているだけでいい、ヒロインでなくてもいい、そういった『壁になりたい』人達の望みを満たし、人に言うのもはばかれる禁断の恋を眺めたい『腐女子』の願望まで叶えたのです。
朝日の場合、ジャスパーがお気に入りキャラでした。なんでも優しく受け止めてくれるお兄ちゃんキャラは彼女の理想です。その相手に選んでいたのが何を隠そうメイベールなのです。ゲームの中でしか味わえない禁断の恋を明星の目を盗んでするのが、たまらなくスリリングで一人で興奮していました。
(これはゲーム!ゲームだからッ!)
頭の中でいつもの言い訳を繰り返し、メイベールはジャスパーの腕から離れました。
「お兄様ったら、わたくしをいつまでも子ども扱いしないで下さいまし!」