黒パン焼きのアーネバート
オーランド諸島の古い話です。
海に囲まれた島がたくさん浮かぶので、そこは〝諸島〟と呼ばれているのです。さて、そこに黒パンを焼いて、それを売って暮らす、一人の青年がおりました。
名前はアーネバートと言いました。アーネやバートという名はこの国で一般的でしたが、その2つをくっつけたようなアーネバートというのは非常に珍しい名前でした。
黒パンというのは ライ麦を使った硬いパンのことです。黒っぽい色で ふんわりしたパンではありません。それでも、しっかり噛んでいるうちに、酸っぱさや甘味やパンのうまみが口の中に広がって、毎日食べても飽きないのです。
アーネバートは毎日朝早くに起きて、黒パンの生地をこねます。こねたら少し寝かせ、打ち粉をつけてくっつかないようにします。その生地を窯で焼けば、丸い黒パンが焼きあがるのです。
黒パンは硬く、普通のパンに比べて安い食べ物とされていました。黒パンが貧しい人の食べ物というわけではありませんが、アーネバートのお客さんたちは、少しの小銭を財布の中でかちゃかちゃ鳴らしながら、やっとその日に食べるパンを買いに来るような貧しい人たちばかりなのでした。
アーネバートが黒パンをたくさん売っても、暮らしは楽になりませんでした。
自分は、毎日毎日質の悪い黒パンを焼くことしかできないと、いつも自信のなさそうな顔をしておりました。お金持ちとか、舞台役者とか、そういったきらびやかな仕事にあこがれていたのかもしれません。
たしかに舞台役者のように人を感動させるような仕事も立派ですが、パンを焼く仕事も立派な仕事です。牛や豚を飼う人がいなければお肉が食べられないし、パンを焼く人がいなければ食卓にパンを置くことができません。しかしアーネバートには、毎日真面目腐って黒パンを焼く自分が愚かしく思えてならないのです。
アーネバートは、母親と妹とお姉さんとつつましく暮らしていました。父親は家にいません。父親はひどい酒飲みで、母親と喧嘩をして家を出て行きました。
家族みんなで働きに出ても、いっこうに楽にならない暮らしなのでした。アーネバートは自分のことが嫌になってきました。そのうちに、みじめな自分とは違う、他の誰かになりたいと考えるようにました。
人は普段からそう思っていると、たとえ悪い道であったとしても、願いの叶う方向につい行ってしまうものです。アーネバートを変えてしまう日がやってきました。
その日、アーネバートは仕事を休みました。なんだか、パンをこねる気持ちがすっかりなくなってしまったのです。
アーネバートは何をするわけでもなく街を歩きました。その日はちょうどお祭りの日でした。そのあたりの街並みを眺めながら歩いたり、出店の売り物を眺めたりしていました。
お金もないので何を買うわけでもなく、とうとう街の外れまで歩いてきてしまいました。
そこは今まで足を運んだことのない場所でした。これまでの出店と違い、何を売っているのか分からないようなお店が並んでいました。
お店の脇に座っていた男が、アーネバートをじっと見ていました。
「お前の心に穴が見える」
と言いました。
そのお店は、動物の角や色のついた石などが並べてありました。なにか、まじないに使うものやお守りを売っているお店のようでした。
「これは、今のお前に必要なものかもしれぬ」
そう言って、土でできた人形を手にとって、アーネバートに差し出しました。
「お金なんかないよ」
アーネバートのポケットにあったのはわずかな小銭でした。しかし、その男は、そのわずかなお金で良いと言いました。
もしかしたらいいことが起こるかもしれないと思い、アーネバートはその土人形を買っていくことにしました。
さて、その日からアーネバートは不思議な夢を見るようになりました。
夢の中に、土人形が現れたのです。真っ暗な何もない空間に、土人形は浮いていました。
アーネバートは夢の中でじっと土人形を見つめていました。やがて土人形は、
『おまえの心を、さみしくした人は、だれ?』
ただ、それだけ言いました。アーネバートには、その言葉の意味がよくわかりませんでした。
そして夢が覚めました。
次の夢で、その土人形は、こう言いました。
『お前の姉さん、最初の友達 お前の妹 最初の友達。 もう、私がもらう』
その次の夢では、
『お前の父と母。もらったものは多く、返せるものはとても少ない 私がもらう』
そして最後の夢で、土人形はこう言いました。
『名も、姿も、捨てたいと望んだ お前が捨てるなら、私がもらう 穴はお前があけたと知れ』
その夢から覚めた朝のことです。アーネバートに大変なことが起こりました。
鏡に、知らない顔が映っていたのです。といっても、もうアーネバートは自分の元の顔を覚えていませんでした。それだけではありません。自分の名前も、自分の家族がだれなのかわからなくなってしまったのでした。
自分の名前を忘れてしまったあわれな青年は、働いていたお店を追い出されて、行く当てもありませんでした。
青年は、地べたに座って、深い悲しみに泣きました。自分と違う誰かになれて、なぜ嬉しいと思わなかったのでしょうか。それは青年の願いだったはずです。
本心はそうではなかったのです。不器用で貧しくて小心者な自分が嫌だったけれど、青年はそんな自分がどこか好きだったのです。どこか愛着を感じていたのです。
しかしもう、自分のことも家族のこともわからなくなってしまいました。これからは違う人間として一生を送らなければならないのです。
お金や自分の持ち物は普段から大事にするものです。でも、本当に大事なものは、失って初めてわかるのです。青年は、そのことに今まで気づかずにいました。
自分の姿と思い出を失った青年は、行く当てもなく街を歩きました。
どうにか家族の顔や友人の顔を思い出せないかと、道行く人々の顔を眺めましたが、家族のことはもう、なにも覚えていないのです。妹がいたのかもお姉さんがいたのかさえも覚えていません。
今すれ違った人が、自分の家族だったかもしれないのです。でも、もう確かめようもなくなってしまいました。
試しに追いかけていって、『僕のこと、知ってる?』とたずねてみましたが、その人は首を振っただけでした。青年は余計に悲しくなりました。
それでも、黒パンの焼き方は覚えていました。青年は何日もの間、落ち込んでいましたが、気持ちを持ち直してお店で雇ってもらって、黒パンを焼くことにしました。もう、かつての自分を証明できるものはそれしか残っていなかったのです。
青年は、心を入れ替えて黒パンを焼くようになりました。黒パン焼きにすがることしかできなかったこともありますが、どんな仕事でも嫌々やっていては前に進めないと思ったからです。
それから一年が過ぎました。
青年は毎日黒パン焼きのことを考えて過ごしていました。もしかしたら自分の家族はこんな人たちかもしれない、と想像したりもしました。
ある日のことです。
お店に、一人のお客がやってきました。気難しそうな男でした。
男は並んだパンをしばらく眺めてから、
「君はいつからここで働いているんだね」
と聞きました。
「一年くらい前です」
と、青年はそれだけ答えました。
そのお客はそれ以上何も言わず、小さめの黒パンをひとつ買いました。そして青年の顔を少し眺めてから店を出ていきました。
翌日のことです。またあの男がやってきました。
「このパンの焼き方をどこで知ったのか」
男は前置きもなく聞きました。
青年は、どこで黒パン焼きを覚えたのか、いくら考えても思い出せないので、
「どこでしょう。自分にもわからないんです」
と、本当のことを言いました。
男は、青年の顔を食い入るようにじっと見て、
「そうか。だが俺はこの味をよく覚えている。お前が誰だか、私にはわかるぞ」
「でも、そうかもしれないけれど、僕にはもう、自分の名前もわかりません。土人形に、姿を変えられてしまったんです。それに思い出も、なにもかも。家族の名前だって、一人もおぼえていないんですから」
青年がそう言いました。
気難しそうな男の顔に、涙の筋が光っていました。そしてゆっくりとこう言いました。
「いいや。姿が違っても分かる。生まれたばかりのお前をこの手に抱いたあの日の、お前の体の温かさを、今でも覚えているぞ。お前は私の大事な息子、アーネ! アーネバートだ!」
そのとたん、アーネバートの中で何かが割れた音がしました。あの土人形が割れた音なのでした。
あの土人形は、誰かが本当の名で呼んでくれたときにはじめて呪いがとける人形だったのです。
アーネバートを見出してくれたのは、何年も会っていなかった父親だったのです。飲んだくれの父親。乱暴でだらしない父親。しかし、親子の深い結びつきは二人の心の中にしっかりとあったのです。
アーネバートは元の姿に戻っていました。父親はさらに涙を流し、アーネバートも泣きました。
その後、父親とアーネバートは二人で家族のもとへ帰りました。アーネバートは、これまでのことを全て話しました。母親は、出て行った父親のことをついに許し、みんなで暮らすことにしました。
黒パンを焼く主人公
童話作家ミヒャエル・エンデは『子供には理解する能力が生まれつき備わっている』と言っています。
確かに、子供というのは生まれてから三歳程度になるまでに会話ができるようになります。
親が文法を教えたのでしょうか? 発音を教えたのでしょうか?
『あのね』とか『えーと』などという意味のないような言葉は、どうやって覚えたのでしょうか。
大人が外国語を覚えるのには学問をしなければなりません。自然に覚えることなど、よっぽどの天才でなければできませんね。しかし、子供は三年もあれば、しっかりと生まれた国の言葉を覚え、使いこなすことができます。
理屈を超えて不思議ですね。
この物語は、子供には少し難しい話かと思います。しかし、読み聞かせることで話の意味は理解できると思い、あえて易しい話にはしませんでした。
ミヒャエル・エンデは童話について、こうも書いています。『子供は、子供騙しの物語にはすぐに気づく。だから子供向けに物語を書く時も、分かりやすい話にはしない』