生きる矛盾としてのコーヒー
長年、忸怩たる思いを味わってきた。
その香りや味についての華やかな意見を聞きながら、「そうか? 俺にはそれほど価値があるとは思えない」
身体、栄養、精神的にーー飲む意味があるのか?
いつもそう感じながら、あまりに世に普及しているため、飲まざるを得ない瞬間を何度も経験しながら、時に中毒、習慣的なもののせいか、自発的にもコーヒーと関わってきた。
密封された袋などから開ける際、たしかに香りは良いものだと思うことが多い。
しかし、コーヒーはーーいや、飲食物というものはーー匂いを核として楽しむものではないはずだ。
それは身体に対して、有意義な栄養や効能が備わっていてこそで、嗅覚はあくまでそれを嗅ぎ分けるための、より良い存命のための選別にすぎない。
香りだけなら、今やトイレの芳香剤でも、格調高いものが売られているのだ。
「ああ…素敵な香りだけど、やっぱり飲んでみると満足は感じられない」
皮膚感覚をはじめ、僕は味覚も健康感覚も、悪くない方だと自負している。
特に化学調味料系、不自然物などへの反応は、皮膚に出るだけでなく、内臓へあまり多量に受け付けられない、アレルギーのような体質だ。
だから、「世界各地で、大学がある地域ではコーヒーの消費量が多い(つまり、知識階級の高い人間は飲んでいる比率も高い)」「脳にいい。皮膚ガンのリスクを下げる働きもある」「逆に、焙煎するため、他の発癌につながる統計もある」など、“飲んでおいた方が概ねお得”という情報を聞きながらも、二の足を踏んできた。
…歯が黄色くなる。
それも、三の足になることもあった。
そしてついに、黒いどろ水(とひどい呼ばれ方をすることもある)コーヒーとの格闘に、決着がついたのであった…
“ミルク(乳粉)と砂糖をたっぷり入れたコーヒーなら、美味しい!”
…子供である。
coffeeが美味しい、というより、「ミルクと甘さがおいしい!」という直接的、身体結果結論に至っている。
何度やめようと思っても、何故か知り合いに勧められたり、仕事場の都合で皆と一緒に飲まなければならなくなったり、用事を頼まれて人の家に行くとコーヒーが待っていたりと、逃れられない運命だと悟らされたcoffee。
…みんな、ほんと美味しいと思って飲んでるの?
ただの中毒、周りの影響じゃない?
と思うこともあるのだが、個人的には2〜3日飲まないでいると、何故か飲みたくなるのも事実である。
カフェインのせいかと疑ったが、それなら僕は、とっくにコカ○コーラ中毒だろう。(隠しても意味のない所を…)
…と、いうわけで、昔なら「ミルクと砂糖たっぷり!? 恥ずかしくて飲めるかぁ!」となっていた自分を受け入れられるくらいには大人になった、久賀なのであった…
ちなみに僕は、音楽の(自分にとっての本当の)価値を理解したのも、思春期なども、人より20年ほど遅れているように感じる。
おそらく寿命は、120年を超えるだろう。
タチの悪い幼児である。
しかし、物語を書くには、そんな人間でも悪くないと思っている。
要は仕上がるかどうかだが、死ぬまで何らかの文章は書き続けてやるぞと、一人誓うのだった…
130歳、なろう現役、年金作家目指します!(笑)