消したくても消せない、恥ずかしい作品たちよ…
ある女性ユーザーさんが書かれていた。
「たとえ消去したとしても、一度世に放った言葉は、絶対に消えることはない」と。
「なろう」の小説に限らず、多くの小説サイトにて、作品や意見がアップされては、消されていくこともある毎日だと思う。
僕も、それなりにいろいろ話を書いてきたわけだが、エッセイを含めて、これは恥すぎる! もはや考え方が変わっている。消しておきたい!というものがいくつもある。
そしてそのたびに、上記の女性ユーザーの言葉が頭をよぎり、「いやいや、誰かを意図的に傷つける内容ならすぐ消すべきだけど、これは自分が恥をかくだけだしな」と思い止まらされてきた。
小説ポイント制や感想、ブクマも、その黒歴史(久しぶりに触れた言葉…)を闇に葬ることができなかった要因としては大きい。
もはや他者が関与してしまった作品は、作者のものだけではないように思えるのだ。
これらへの救いとして、確かマイページか何かに書いたのだが、ボブ=ディランの言葉で、「俺は、自分の過去の言葉すら信じちゃいない(他人の言葉なんて、なおさらだ)」というようなインタビュアーへの答えがあったように思う。
…完全に僕の都合でねじ曲げられた記憶なら、申し訳ない。
ただ、それを聞いて、「なるほど。自分の言葉にいちいち縛られるのもよくないことだよな」と変化していくことに柔軟になれたことを憶えている。
だから、恥ずかしい過去作を残しておいていいかな、とも思えるのだが、やはりただの黒っぽい歴史に思えるのだ。
…今も、自分でデジタルタトゥーを彫り続けているのかもしれない。
それがほぼ万民にできてしまう現在は、本当に言葉や態度に気をつけなければいけない時代に、窮屈な現代になったのだろう。
そのおかげで得ている、膨大な恩恵には気づきにくいのだが、それでも、かつてより手の届くところに幸福はすでに来ていると、信じたい。
ちなみに、もう一つ僕が「なろう」で忘れられないのは、「私は、創作とは恥をさらすことだと思っています」という、また別の女性ユーザー、黒塔真美さんの言葉である。
この言葉は、いまも僕の創作の指針の一つになっている。
なぜ黒塔さんだけ本名(P.N)を晒したかといえば、彼女は怒らないからである。たぶん(笑)