1 花園峠には
デッサンの授業で外に出たその日は、雪が解けたばかりの春の初めだった。
リンカの小学校の校庭には、色とりどりの花が咲いていた。花びらの上で雫がきらめいて美しい。
マフラーに顔を埋め、リンカは目を細める。
ふと、端のほうにある青い色が目についた。中心から放射状に線が伸びた小さな花がたくさん戯れている。
近寄ると、濡れた十字の花びらが光をはじく。その光景には見覚えがあった。
「――ああ、オオイヌノフグリか」
クラスメイトのタクミが、リンカの後ろから覗き込んだ。
「かわいいよな。こんな名前なのに」
「それは言わないであげてよ。せっかくのかわいい見た目なのに」
「村で一番有名なフグリだぜ?」
「やめてよ、もう」
こらえきれなくて笑う。
と、遠くから鋭い声が飛んできた。
「そこ! デッサンは終わったんですか?」
遠くで先生が目をとがらせている。
リンカは身を縮こまらせた。
「すみません。終わってないです」
「すみませんでした!」
「……まったく。しょうがないんだから」
先生はやれやれと首を大きく横に振る。
「もうすぐ成人なの、わかってるんですか? ちょっとは大人になってくれないと」
「ごめんなさい」
先生は大きく溜息を吐く。
先生がいなくなると、タクミは大げさに体を震わせた。
「はあ、怖かった。本当、厳しすぎるよなぁ。少しくらい喋っても良いのにさ」
「タクミがフグリなんて言うから」
「なんだよ、俺のせいかよ」
タクミが頬を膨らませる。
「リンカだって笑ってたじゃん」
「ごめん、ごめん」
リンカは笑って謝った。
「でも、なんか懐かしくなっちゃったな。昔、オオイヌノフグリを見たのを思い出しちゃった」
今でも思い出すのは、一面の青。海を背景に揺れる花々と一緒に見た人のこと。
「へえ、花園峠にも咲いてたんだ」
「え?」
リンカは顔をあげた。
「どうして、花園峠のこと知ってるの?」
「いや、それはだな」
彼は気まずそうに目をそらした。リンカは彼の腕をつかむ。
「ケイトのこと花食み族だってお父さんに言ったの、もしかしてタクミなの?」
タクミは黙っていた。それが答えだった。
「どうして、そんな嘘吐いたの」
「……嘘なんか吐いてないよ」
「ねえ、どうして花食み族だなんて言ったの」
彼は小さく溜息を吐いた。
「彼は花食み族だよ」
「違うよ、ケイトは花食み族じゃない。大体、タクミはケイトと喋ったことないでしょ。ケイトの何がわかるっていうの」
「話したことはないよ。ないけど見たんだよ、そいつが花を食べているのを」
タクミは真剣な顔で言った。
「リンカは騙されてたんだよ」
「嘘よ」
「嘘じゃないよ」
「絶対に嘘」
知らず知らずに声が大きくなるリンカに、クラスメイトの視線が集まる。
「ちょっと、リンカ」
「きっと何かの見間違いだよ。だって、ケイトが花食み族な訳ない!」
「おい!」
リンカはスケッチブックを投げだして駆け出した。向かう先は、大好きだった彼と会っていた峠だ。
花はこの世界の守り神だ。人の心を癒し、慰め、温めるもの。
花を食べることは、神への冒涜。裏切りを意味している。ケイトがそんなことをするわけなかった。
ケイトは花食み族なんかじゃない。
花園峠にはたくさんの人が訪れていたのは、もう何十年と前のこと。村の境にある花園峠に近付く人は、今や誰もいない。
――花園峠には行ってはいけないよ。花食み族がいるかもしれないからね。
村の子たちは、そう言われて育つ。