≪GT編 06話 -どこから来て、そしてどこへ- (1/4)≫
新年を迎えて、初めての出社。
ショウの足取りは重かった。
世間では二度目の緊急事態宣言を迎えたが、もはや以前ほどの静けさは訪れてはいなかった。
交差点でダンスったり、ターンでステップしながらオフィスにウォーキングすれば、間違いなく通報されてしまう。
あの一時、あの一瞬はうたかたの夢。もはや二度と訪れることはない煌めきの輝き。
見上げる空は青い。そして、その爽やかな青さが虚しい。
マスクの下でグスリと鼻水をすする。花粉症の季節にはまだ早い。
ポケットティッシュはあるのだが、いまだ人前では以前のように鼻をかむことはできない。
鼻水、咳止めの風邪薬もうっかり買う事もできない。
せいぜいのど飴でお茶を濁す程度である。
ショウは鼻をぐすぐす言わせながら、足早にオフィスに向かうのだった。
ショウはしょんぼりしながら、オフィスに入る。
「あけましておめでとうございます」
若干、おおげさなくぐもった演技で新年の挨拶をリョーコに贈る。
「お勤め、ご苦労様」
眼鏡をかけたマスク姿のリョーコは椅子に座ったまま、挨拶だけを返す。
やっぱりきたか。とショウはたじろぐ。
リョーコがこの手の対応をしてくるときは、たいてい報告待ちのときである。
ぐすぐすとマスクの下でショウは鼻水をすする。
「鼻でもかんだら?」
リョーコの提案にショウは備え付けのティッシュを3枚ほど引き抜き、壁に向かってマスクを外して鼻をかんだ。
「消毒、ちゃんとしなさいね」
リョーコの声の圧を背中に感じつつ、ショウは備え付けの消毒スプレーを手に吹き付ける。
「体温、きちんと計ってね」
ショウは言われるがままに、設置されているセンサー式の体温計の前に立ち、体温を表示させる。
体温ハ正常デス。と音声が出て、体温表示は36.5℃だった。
「ちゃんと顔洗って、歯も磨いてきた?」
「それはちゃんとやってきましたよ!」
さすがにそこまで子供扱いはされたくない。が、リョーコの声からはさっきまであった圧は消えていた。
「大丈夫だったの? 体調の方は」
「……熱もちょっと出たくらいですぐに収まりました。咳もそれほどなかったし、鼻水も普通に出てます。普通の風邪と変わりなかったです」
「まさか、身近な人間にコロナが出るとはね」
「面目ない」
リョーコのつぶやきにショウは謝罪をして、コートを掛けて席に着いた。
「で、誰と濃厚接触したの?」
「……学生時代からの友人です」
「友人、ねぇ。男と濃厚接触、かぁ」
「いやいや違いますよ。男と濃厚接触なんかするわけないでしょ」
「おすわり」
思わず立ち上がったショウを、リョーコは制する。
「ふーん。女の友人と〝濃厚接触〟ね」
アクリル板の向こうのリョーコはさながら刑事ドラマの尋問役のように、するどい視線。
バツの悪いショウは、椅子に座ってからもリョーコから視線を逸らすしかなかった。
リョーコは缶コーヒーのフタをカシュッと開ける。
「以上が、わたくしめが新型コロナに感染しました顛末でございます」
ショウは席で頭を下げたままだった。
「なんで〝濃厚接触〟しちゃったの。このご時世にさ」
リョーコはクピピと缶コーヒーを口にする。そして、マスクをアゴから口元に戻す。
「我慢できなくて、つい……」
「いくら学生時代の友人とはいえ、相手を選びなさいよね」
「まあ、おかげで自分はちょっと長い冬休みがもらえましたよ」
顔を上げたショウは、アッハッハ。とあっけらかんと笑う。
「一緒に仕事してる身からしたら、笑えないんだけどね」
言葉が重い。
「まあ、黙っていないできちんと保健所に従って、会社にも報告したのは評価するわ」
「そこは人として当然ですよ。センパイを危険にさらすわけにはいきません」
エッヘンと胸を叩くショウに、リョーコはため息をつく。
「それは〝濃厚接触〟をお断りしてたら、説得力あるんだけどね」
「それをお断りするなんて―――しなきゃいけませんでしたね、はい」
ショウはしょぼんとした。
「でもセンパイ、良かったんですか? 本当はあと一週間、会社からは待機してろって言われてたのに」
「だって保健所から言われた待期期間は昨日まででしょ?」
「そりゃそうですけど」
「事情を知ってる私が無駄に恐れてどうなるの。これだから会社の人事はいやなのよ。自分達が責任取らされなければそれでいいって。ルールはルールなんだから、大人ならそれに従うのが世の中のスジでしょ」
リョーコの剣幕にショウはかしこまる。
「確かにこうやってマスクをして、アクリル板で席を仕切って、適切な間合い―――ソーシャル・ディスタンスでやってました。って言ってたら、保健所の人も〝ああ、じゃあ大丈夫ですね〟と言ってくれましたからね」
「あら、そうなの」
「だって、そうじゃないですか。確かに年末に入る前までは少々、油断はしてましたよね、ボクたち。でもやっぱり世の中、感染者数が増え始めて、飲食店に対する時短要請、休業要請だなんだって、これはいけない。やっぱり誰も見てなくてもちゃんとしなくてはいけない。って二人でボクたちは固く心に誓ったじゃないですか。もう忘れちゃったんですか、センパイ?」
ショウの語りにリョーコはほほえましく微笑んだ。
「備えあれば憂いなし。そのおかげでボクはセンパイを濃厚接触者にせずに済んだんですから。ああ、よかった。本当に良かった……!」
ショウは拳を固め、そして情感たっぷりに語りを終えた。とても満足げだった。
「で、今は大丈夫なの? 味覚とか嗅覚とか」
「はい、自分はなんともないです」
「……あんまり細かいこと気にしなさそうだものね」
「失礼な、これでも料理屋の倅ですよ」
「それは失礼」
リョーコは再びクピピと缶コーヒーを口にする。
「俺も缶コーヒー持ってきます。去年、飲もうと思ってて冷蔵庫に入れっぱだったんですよね」
リョーコの缶コーヒーの持つ手がとまる。
ショウは席を立って、休憩室へと向かった。
リョーコはショウが休憩室に行って帰ってくるまで、缶コーヒーを持ったまま固まっていた。
「あれぇ、おっかしいなぁ。センパイ、俺の缶コーヒー知りません? 冷蔵庫に入れていた」
「……ワタシ、飲ンデナイワヨ」
リョーコはショウに背中を向けた。
ショウはリョーコに疑惑の視線を向けた。
「センパイ、こっち向いてくれませんか?」
ショウはにっこり笑顔で声をかけた。
リョーコは背中を向けたまま、クピピと缶コーヒーを口にした。そして、そのままグイッと倒れんばかりに椅子の背もたれにもたれかかって、缶コーヒーを飲み倒した。
そして、ショウに向き直って言った。
「私、別に冷蔵庫に横向きに入っていた缶コーヒーなんて飲んでないわよ」
言って、リョーコは唇に残ったコーヒーをぺろりとなめとった。
「……ちなみに一緒に入っていた、いちご大福。知りませんか?」
「え、いちご大福もあったの? どこに? 見てないわよ、私」
リョーコはハッとして口元を押さえた。
ショウはじとりと疑惑の視線。
「汝、己の罪を認めますか」
「誰がまいたか、誰がまいたか、新型ぁコロォナ~」
缶コーヒーをマイクに歌いだすリョーコは、今にも下手人をとらえるために銭を投げつけそうだった。
「ごまかさないでくださいよ!」
「いいじゃない、別に。飲まれたくないなら名前書いときなさいな」
「そんな家の冷蔵庫じゃないんだから」
「職場の冷蔵庫はみんなのもの。つまり、冷蔵庫に入っているものはみんな、私のもの」
「どこのかーちゃん理論ですか」
「心あたたまる、冷たい缶コーヒー」
「なんなんですか、そのわけのわからないキャッチコピーは」
ショウは無駄だとわかりつつも反論を試みた。
「ごちそうさま、おいしかったわ。人様のコーヒーの味はまた格別でございました」
そして、ショウはリョーコのとびきり笑顔にごまかされたのだった。




